52.公爵様の誕生日
公爵邸内の厨房の中。私は鍋の中でグツグツと煮込まれている野菜達を眺めている。
大変喜ばしい事に、今日は公爵様が二十九歳を迎える誕生日。
数日前から、この日をどうやってお祝いしようかと頭を悩ませ続けた私は、いつも傍にいてくれる侍女のリディアに相談してみた。
「簡単な事です! 公爵様は、マリエーヌ様の手から貰える物ならなんでも喜びますよ! 試しに紙の切れ端でもあげてみてはどうでしょう? きっと額縁に入れて永遠に眺めてると思いますが……。あ、でも使い終わったタオルとかは絶対駄目ですからね! あの人何に使うか分かりませんから……。あと髪の毛とかも――」
やっぱりリディアに聞くんじゃなかったわ。
と、少しだけ後悔したけれど、確かに公爵様なら何をあげても、何をしても満面の笑みで喜んでくれる筈。
だけど、一年に一度しかない特別な日なのだから、絶対に失敗は出来ない。
最後の手段として、「なんでも良い」と言われる事を承知の上で、公爵様本人に直接希望を聞いてみる事にした。
「マリエーヌの手料理が食べたい」
私の問いに、何の迷いもなく即答で返ってきたのがそれだった。
予想外の返答に、一瞬躊躇してしまったけれど、凄まじい程の期待の眼差しを向けられ、「分かりました」と返すしかなかった。
その後の公爵様は、仕事に全く手が付かなくなる程の喜びようだったと、ジェイクさんが白目を剥きながら教えてくれた。
だけど……。
公爵邸で雇っているシェフは、その業界で名を知らない者はいないと言われている程の超一流シェフ。
そんな人の料理を毎日食べている舌の肥えた公爵様に、自分の作った料理を食べてもらうというのはかなりのプレッシャーでもある。
「大丈夫です! あの人はマリエーヌ様の手料理なら炭でも美味しく食べますよ!」
そう言って励ましてくれるリディアの言葉に「確かに……」と思わず同意してしまったものの、だからといってお粗末な物を作る訳にもいかない。
とりあえず、今日は早朝から厨房に入らせてもらって朝食作りに取り掛かっていた。
公爵様にも事前にその旨を伝えているので、今日はまだ会ってはいない。
いつもの朝食の時間に、食堂で待ち合わせる事にしている。
「マリエーヌ様。そろそろ火を止めないと野菜が溶けてますよ?」
朝食作りに付き合ってくれているリディアが、私の後ろからひょいっと顔を覗かせ声をかけてきた。
「ええ、これでいいのよ。溶けるくらい煮込めば、公爵様も食べられるから」
「……公爵様って、そんなに歯が弱いのですか?」
「え?」
…………。
あら?
公爵様に食べて頂くのだから、しっかり柔らかくしないとって思ってたのだけど……何でそんな事を思ったのかしら?
鍋の中には溶けて原型を失ってしまった野菜達の姿。
ポトフを作っていた筈なのだけど、これはさすがに見た目がよろしくない。
「でも、硬くて食べられないよりは全然マシですよ。むしろ、虫歯が痛くてよく噛めない私にはこれくらいが丁度良いとすら思いますね……。マリエーヌ様。これ余るようでしたら、私も朝食はこちらを頂いてもよろしいでしょうか?」
「それはいいけど……リディア、虫歯は早いうちにお医者様に見てもらった方がいいわよ?」
「ええ。分かってるんです。行こうとは思ってるんです。思ってはいるんですが……こう……足が動いてくれないというか……気付いたら休みの日が終わって次の日になっているというか……次こそは、と毎回思うんですけど、これがなかなか……」
これは当分見てもらう気が無いわね。
とりあえず、この溶けてしまった野菜達は牛乳を入れてクリームシチューにすれば、このままでも大丈夫かしら。
あとは……パンも焼けているし、スクランブルエッグも出来たし、サラダも出来てる。
なんとか朝食の時間には間に合いそうね。
「マリエーヌ様、このすり鉢は何に使うのですか?」
「……え?」
リディアに問われて振り向けば、調理用の台の上には未使用のすり鉢が置いてある。
確かに、それは私がさっき自分で出したのだけど……何に使おうとしたのかしら?
「えっと……間違えて出しちゃったのかしら。ごめんなさい。使わないから収めてもらえる?」
「分かりました。……えっと、これって何処にありましたかね?」
「そこの棚の上から二番目……そう、そこにあった筈よ。あと、その四番目にある平皿を二つ、持って来てくれるかしら?」
「分かりました。……マリエーヌ様って、今までにこの厨房を使った事があるのですか?」
「え? いえ、今回が初めてよ」
「そうなんですか? その割には食器の位置とか、調理器具の位置とかよく把握されてますよね」
「……そうなのよね」
私もそれは不思議に思っていた。
ここで料理をするのは今日が初めての筈なのに、何処に何があるのか……体が勝手にその正解を探し当てている。
それに、こうしてこの場所に立っている事自体に何の違和感も感じない。
妙に体に馴染んでいる気がするというか……それが何故なのか、自分でもよく分からない。
最近の私は、時々こういう不思議な感覚に陥る事がある。
ある日の夜中、ふと目を覚ました私は、何故か公爵様の元へ行かないといけない気がして部屋を出た事があった。
だけど、私が向かった先は二つ隣の公爵様の部屋でなく、執務室の隣にある公爵様の部屋だった。
鍵がかかって開かない扉の前で我に返り、自室へ戻ろうとした時に公爵様と鉢合わせになった。
どうやら、部屋を抜け出した私の気配に気付いて探しに来たらしく、私は公爵様に事の経緯を説明した。
すると、公爵様はどこか神妙な面持ちで何か考え込んでいたけれど、すぐにいつもの笑顔に戻り、私が部屋に戻るのを見届けた。
その時は寝ぼけていただけかとも思ったけれど、その数日後にもう一度同じ事を繰り返した。
他にも、朝起きた時に中庭にお花を摘みに行かないと……と思ったり、執務室の隣の公爵様の部屋がやけに気になったり……。
自分の事なのに、自分の知らない誰かが頭の中に居る様な感じがしている。
それに……時々見る夢が気になっている。
朝、目が覚めた時には夢の内容は忘れているのだけど、懐かしい気持ちに浸りながら目を覚ます事もあれば、何故か苦しくて泣きながら目を覚ます事もある。
何か大事な事を忘れている様な……。
思い出せそうで思い出せない。
そんなもどかしい状態がずっと続いている。
「マリエーヌ、おはよう」
食堂の扉を開けてすぐに、公爵様が満面の笑みを浮かべて私を出迎えてくれた。
「おはようございます、公爵様。誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。今日が楽しみで仕方なかったよ。まさか君の料理が食べられるなんて……朝早くから準備をしてくれていたんだろ? 無理を言ってすまなかった」
「いえ、公爵様がそう言って下さったので私も悩まずに済みました。あと、こちらも……受け取って頂けますか?」
私は胸元に抱いていた折りたたまれている白いハンカチを公爵様に手渡した。
「これは……? マリエーヌが縫ってくれたのか?」
ハンカチを受け取った公爵様が見ているのは、ハンカチの角に赤い糸で刺繍されている模様。
ジェイクさんに公爵家の家紋を教えて貰い、私が刺繍した物だ。
一人部屋の中で過ごす事が多かった私は、有り余る時間を刺繍に費やす事が多かった。
幼い頃にお母様に教えてもらい、「マリエーヌはセンスがあるわね!」と褒められたのが嬉しくて、ずっと続けている私の趣味の一つでもある。
だけど、お母様以外に出来上がった物を披露するのは初めてなので、少し緊張する。
「はい。勝手ながら、公爵家の家紋を刺繍してみたのですが……。おかしい所があればおっしゃって下さい。すぐに直しますので」
「いや、完璧だ。本当に素晴らしい刺繍だ。君にこんな才能があったとはな……」
公爵様は目を細めて嬉しそうにハンカチを見つめている。
そんな姿を見せられては、贈ったこちらの方がつい嬉しくなってしまう。
「マリエーヌ、ありがとう。さっそく額縁に入れて飾ろう」
「……えっと、出来れば飾らずに使って頂けると嬉しいですね」
「そうか……。では、これを君だと思って肌身離さず大事に持ち歩こう」
満足そうな笑みを浮かべている公爵様は、手にしているハンカチを大事そうに懐のポケットへと収めた。
「あれもう絶対使う気無いですよね」
斜め後ろからリディアの声が聞こえてくる。
そうね。
あれは使う気無いわね。
だけど公爵様が嬉しそうにしているから、もうそれだけでいいかな、と思えた。
いつも読んで頂き、ありがとうございます!
最終章となりました。
二人の結末を見届けて頂けると嬉しいです。




