51.幸せ
何故、僕が過去に遡って戻って来られたのかは分からない。
この世界はもしかしたらあの時、命を失った僕が見せているだけの、理想の世界なのかもしれないと不安になる事もある。
ある朝、目が覚めた時、全てが幻となって消えてしまっているのではないかと――。
僕の腕の中で幸せそうに眠るマリエーヌの体を、慈しむ様に抱きしめる。
体から伝う温もりから、彼女の存在を深く感じられる。
彼女から心地良く鳴り響く生きる鼓動が、僕の不安を和らげていく。
彼女の優しい香りに包まれ、幸せな気持ちに浸るうちに、自然と瞼は閉じ、僕の意識は深く沈んでいった――。
*
朝を迎え、目を覚ました僕は、一緒に寝ていた筈のマリエーヌが居ない事に気付いた。
「マリエーヌ!?」
咄嗟に跳び起きた僕は、ベッドの上、部屋の隅々にまで視線を走らせ彼女を探すが、その姿を確認する事は出来ない。
不安に駆られ、ベッドから飛び出し部屋から出ようとしたその時、ガチャッと扉が開いた。
その先から現れたのは、たった今探し求めようとしていた愛しのマリエーヌの姿だった。
「あ……公爵様、おはようございます」
僕に気付いた彼女は、いつもの様に柔らかい笑みで挨拶をする。
その姿を見た僕は、放心状態のまま体中の力が抜ける様に崩れ落ち、床に両膝を突いた。
「え、公爵様!? 大丈夫ですか!?」
「……すまない。大丈夫だ。本当に僕は、君の前では情けない姿を見せてばかりだな……」
起きた時にマリエーヌの姿が無くてパニックになり、再び彼女の姿を見て安心して腰が抜けたなんて、情けなくて言える筈が無い。
自らの不甲斐なさに呆れ返っていると、マリエーヌが申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさい。勝手に部屋を出てしまって……公爵様が目覚める前には戻って来ようと思っていたのですが」
「いや、君が謝る事は何もない。僕が勝手に不安になっただけなんだ」
そう、不安だったんだ。
目が覚めて君が居ない事に。
僕は今までの経験で、幸せと不幸は表裏一体なのだと、嫌という程思い知らされている。
今の幸せが、いつまた一瞬にして不幸に転じるか分からないという事も――。
気落ちし合う僕達の間に気まずい沈黙が流れる。
本当に、僕は一体何をやっているんだ。
今までの事に関してもそうだ。
彼女を幸せにしてみせると息巻いていた癖に、彼女と再び会えた事が嬉しくて、勝手に暴走して彼女を困らせてきた。
それまで名前を呼んだ事もない男が、いきなり愛の告白をしだしたのだから戸惑うのも無理はないのに。
だが、僕も必死だった。
どうしても彼女を振り向かせたくて、脇目も振らずに恋愛というものを勉強した。
誰も好きになった事が無い僕は、どうやって自分の気持ちを伝えれば良いのかも分からず、ただひたすらに思いの丈を彼女に打ち明けた。
リディアの助言も得て、架空の物語の中ではあるが、少しずつ人の恋愛というものを知っていった。
そして、ついに彼女に好きになってもらう事が出来た。
それがどんなに嬉しかった事か……。
彼女を幸せにする筈が、気付けば僕が幸せになってばかりだ。
「――さま? 公爵様?」
その声にハッと我に返ると、すぐ目の前に、僕と目線を合わせる様にしゃがむマリエーヌの姿があった。
僕を心配する様に新緑色の瞳が揺れている。
「すまない、もう大丈夫だ」
僕は立ち上がると、マリエーヌに手を差し伸べた。
僕の手を取った彼女も、緩やかに立ち上がった。
「心配させてごめんなさい。ただ、今日はどうしてもやりたい事があって……」
そう告げると、マリエーヌは緊張する面持ちでコホンッと小さく咳払いをすると、僕の目の前に一輪の真っ赤な薔薇を差し出した。
愛しむ様に優しい笑みを浮かべて僕を見つめると、艶のある唇がゆっくりと開いた。
「公爵様の瞳の様に美しく、情熱的に咲き誇る薔薇が咲いていました。受け取って頂けますか?」
そう告げた後、暫くしてマリエーヌも薔薇に負けない程、顔を赤く染めて恥ずかしそうに視線を逸らした。
「今日……目が覚めた時に、なんとなく私の方から公爵様にお花を差し上げたいと思ったのです」
「……」
「……? 公爵様?」
何も言わず動かないままの僕を不思議に思ったのか、マリエーヌは再び視線を僕へと移した。
僕の顔を見るなり、大きく目を見開いて驚きの声を上げた。
「え!? 公爵様……!? どうなさったのですか!?」
「……」
言うまでも無く、僕の瞳からは涙が流れている。
本当に、僕の涙腺は壊れてしまったのだろうか。
だが、マリエーヌが僕に薔薇を差し出す姿が、あの時の彼女の姿と重なった。
毎朝、欠かす事無く僕に花を持ってきてくれたマリエーヌの姿と――。
「ありがとう、マリエーヌ」
あの時の僕は、君に差し出された花を受け取る事も出来ず、お礼を告げる事も出来なかった。
だが、今はこうして君の手から花を受け取る事が出来る。
感謝の言葉も伝えられる。
そんな当たり前で些細な事が、今の僕には嬉しくて堪らない。
嬉しそうに顔をほころばせるマリエーヌに近寄り、その体を優しく抱きしめた。
それに応える様に、マリエーヌも僕の背中に手を回し、僕の体を抱き返す。
「マリエーヌ。愛してるよ」
君の名前を呼べる事、君に愛を伝えられる事を、僕がどれほど幸せに感じているかを、君はまだ知る由もないだろう。
僕は知っている。
今この瞬間の幸せが、決して当たり前では無かった事を。
ある日突然、当たり前の幸せが変わってしまう事も。
だからこそ、今この瞬間を大切にしたい。
一分一秒でも長く、マリエーヌと共に過ごしたい。
これからも、僕は何度でも君の名を呼び、愛を囁き続けるだろう。
マリエーヌ。
ありがとう。
僕を愛してくれて。
君に愛されて、僕はとても幸せだ――。
本当にここまでお付き合い頂きありがとうございました!
これで二章は完結となります。
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最終章となる三章は短いエピソードになりますが、二人のお話を最後まで見届けて頂けると嬉しいです。
三章は8月下旬より連載予定です。
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