50.目覚め
*
――目を覚ました僕は、二度瞬きした後に跳び起きた。
グラッと視界が歪み、意識が朦朧とする中、ふらつく頭を手で支えた。
!? なんだ!?
僕は……死んだんじゃ……?
助かったのか? あの状況で……?
だが、目を凝らして辺りを見渡せば、見慣れた景色が広がっている。
今、僕がいる場所はさっきまで炎に包まれていた自室のベッドの上だ。
一体どうなって……? いや……それよりも……。
両手をゆっくりと自分の目の前まで持ってくると、握ったり開いたりを繰り返した。
体が……動く……?
自分の思い通りに動く両手に、今は違和感しか感じない。
「マリ……エーヌ……」
それは自然と零れた言葉だった。
久しぶりに聞いた自分の声だ。
そして自らの口から発せられたその名前に胸が苦しくなった。
「マリエーヌ……」
声が出せる……マリエーヌの名前を……。
……!! マリエーヌは!?
衝動的に僕はベッドから飛び出した。
床に足を着けた瞬間、膝がガクンッと折れ曲がり倒れそうになったところを、テーブルに掴まりなんとか耐える。
数ヶ月ぶりの体を動かす感覚が上手く掴めない。
それに体も異様に重たく感じる。
だが、手も足も確かに動く。
車椅子が無くとも、自分で歩く事が出来る。
再び立ち上がろうとした時、テーブルの上に置いてある新聞に気付いた。
その日付が書いてある部分に目を走らせ――。
「マリエーヌ!!」
泣きたくなる程愛しいその名を叫び、僕は自らの足で地を踏みしめて部屋から飛び出した。
「マリエーヌ! マリエーヌ! どこにいるんだ!?」
扉を片っ端から開けまわって彼女の姿を探す。
「公爵様!? どうされましたか!?」
呼んでもいない使用人達が次々と僕の元へとやってくる。
今まで散々僕を無視してきた奴らの、心配する様な顔面に虫唾が走る。
「うるさい! 僕に近寄るな! 今すぐマリエーヌに会わないといけないんだ!」
群がる使用人達を罵倒して先へ進んだ。
体が熱い。呼吸も苦しい。頭も割れる様に痛む。
少しでも気を抜けばこの場で倒れてしまいそうだ。
だが、僕は足を止める事無く彼女の名前を呼び、探し続けた。
「マリエーヌ! いるんだろう!? マリエーヌ!」
期待してはいけない。だが、期待せずにはいられない。
もう一度、彼女に会えるかもしれないのだから。
さっき見た新聞の日付は、僕が事故に遭った日の一週間前だった。
とても考えられない事だが、もし今の僕があの事故に遭う前の姿なのだとしたら、この頭の痛みも覚えがある。
公爵になってから一度も体調を崩した事が無かった僕だが、あの時は原因不明の高熱で倒れて寝込んでいた。
その時に戻っているのだとしたら――彼女もここに居る筈だ。
彼女もまだ……生きている筈なんだ!!
足が絡まり、バランスを崩した僕は床に膝を突き、咄嗟に手で体を支えた。
乱れた呼吸を整え、少しだけ頭が冷静さを取り戻す。
そうだ。マリエーヌの部屋だ。
そこにきっと……彼女がいる!
再び立ち上がると、僕の足は導かれる様に彼女の部屋へと走り出した。
「マリエーヌ!!」
部屋の前まで来た僕は、自制出来ずに勢いのまま扉を開け放った。
その瞬間、どこか懐かしく暖かい風にあおられ、柑橘系の甘い香りがふわりと僕の鼻をかすめた。
僕の視線の先には、見覚えのある亜麻色の髪が風に靡いて揺れている。
僅かに震えている様にも見える華奢な後ろ姿。だが、僕がその姿を見間違える筈が無い。
マリエーヌ……。
息が詰まった。
時間が止まったかの様に動く事も出来ず、懐かしくさえ思えるその後ろ姿に目を奪われていた。
暫くして、恐る恐る振り返った彼女と目が合った瞬間、僕の中でせき止めていた彼女への想いが一気に溢れ出した。
「あ……あ……。マリ……エーヌ……ほんとに……君……なのか……?」
彼女への湧き上がる想いは涙となり、僕の頬を流れ落ちる。
やっとマリエーヌに話しかけられるというのに、言葉が詰まって上手く出てこない。
その姿を求める様に僕は手を伸ばし、地を確かめながらゆっくりと彼女の元へと歩み寄る。
一歩……また一歩と、彼女との距離が近付いていく。
未だにこの状況が信じられない。
僕は夢を見ているのだろうか。
それとも、今までの出来事全てが夢だったのだろうか……?
僕が今まで見ていたものは全て夢の中の幻想で、目の前のマリエーヌは僕の知っているマリエーヌとは別人なのかもしれない。
そんな不安が頭を過った時、マリエーヌが動いた。
僕の方へ緊張した面持ちで歩み寄ってくると、背筋を伸ばして深々と丁寧に頭を下げた。
「はい。正真正銘のマリエーヌでございます」
顔を持ち上げた彼女は、新緑色の瞳を細めて僕に向かって優しく微笑んだ。
僕が大好きな、あの笑顔だ――。
その瞬間、何故か分からないがはっきりと確信した。
目の前の彼女は間違いなく、僕と共にあの時間を過ごした彼女だという事を。
彼女も、僕と同じ様にここへ戻って来たのだと――。
口を噤んだままのマリエーヌは、不安そうに僕を見つめている。
そんなマリエーヌの姿を前に、僕も言葉が出てこない。
言いたい事は無数にあった筈なのに、何を言えばいいのか分からない。
思えば、あれだけの時間を共に過ごしたというのに、彼女と会話をするのは初めてだ。
ドキドキと心臓が音を立てて高鳴り出し、体の熱が更に上がっていく。
しかし、マリエーヌの表情を見る限り、彼女は僕と過ごした時間の事は覚えていないのだろう。
僕を見つめる瞳が怯える様に震えている。
そうだ……。僕は今まで、沢山君を傷付けてきた。
ならば、今はとにかく彼女を安心させてあげたい。
まずは今までの自分の非を認めて誠意を持って謝るんだ。
「マリエーヌ……」
その言葉を口にした瞬間、マリエーヌの瞳が大きく見開いた。
ああ、そうか――。
僕は今、初めて彼女を前にして、その名を呼ぶ事が出来たんだ。
ずっと……呼びたくて仕方なかったその名前を――。
「君を愛してる」
無意識のうちに口から飛び出していたのは、抑えきれなかった彼女への想いだった。
それもその筈だ。
僕はその言葉をずっと君に伝えたくて、堪らなかったのだから――。




