49.願い
パチリ……パチリ……と、火花が弾ける音がする。
鼻をかすめるのは嗅ぎ慣れた血の香りと、何かが焼ける様な焦げ臭さ。
そして――僕の視線の先には、透き通る様な白い肌を真っ赤に染めたマリエーヌの姿が横たわっている。
自室のベッドの横で車椅子に座る僕は、目の前で起きた出来事を、まだ受け入れる事が出来ていない――。
中庭でマリエーヌと共に生きていくと改めて誓った後、僕は五日ぶりの食事を堪能した。
いきなり沢山食べるのも体に悪いからと、朝食は少しだけで、昼食、夕食と少しずつ量を増やしていった。
「明日は腕によりをかけて美味しい料理を作りますね」
そう意気込み張り切るマリエーヌの姿がなんとも愛しかった。
夜、いつもの様に「おやすみなさい」と声を掛けて彼女が立ち去ると、僕はすぐに深い眠りについた。
深夜――何かを察した僕は目を覚ました。
静まり返る屋敷の中に何らかの異変が起きたという事は、長年研ぎ澄まされてきた勘ですぐに分かった。
だが、それを誰かに伝える術が無かった。
間もなく聞こえてきた使用人達の悲鳴により、疑惑が確信に変わった。
動く事が出来ない僕は、マリエーヌが無事にこの屋敷から逃げ出してくれる事だけを祈っていた。
それなのに――。
彼女は僕の元へとやって来た。
屋敷のあちこちから火の手があがり始めている中で、息を切らして駆け付けた彼女は、僕を車椅子に座らせて一緒に逃げようとしてくれた。
そこに、二人組の男が現れ……僕を殺そうとした彼らから僕を庇って彼女は――。
僕はその光景を、後ろから、ただ見ている事しか出来なかった。
抜け殻の様になっている僕の耳に、高揚感に浸る男の声が聞こえてくる。
「まさか、あの名高い冷血公爵サマがこんな腑抜ヤロウになっていたとはなぁ! くっくく……いい気味じゃねえか!」
無精ひげを生やした中年男は、僕の髪の毛を掴んで顔を持ち上げると、ニヤニヤと汚い笑みを浮かべて僕の顔を眺めている。
だが、その顔がすぐに不満げな表情となり、大きく舌打ちした。
「ちっ! ……何の反応も無しかよ。つまんねえ男だなぁ!」
僕の髪から手を離すと、男は僕が座る車椅子を勢いよく蹴り上げた。
ガシャンッ! と大きな音を立てて車椅子ごと倒れた僕の体は床に放り出された。
僕のすぐ目の前には変わり果てたマリエーヌの姿。
マリエーヌ……。
手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、彼女に触れる事も寄り添う事も出来ない。
だが触れなくても分かった。
少しも動かない彼女が、もう息をしていない事を。
つまり……彼女はもう――死んでいるんだ。
閉ざした瞳はもう二度と開く事は無い。
もう僕に笑いかけてはくれない。
彼女の口から言葉が紡がれる事も無い。
もう僕に話しかけてはくれない。
その声を、二度と聞く事は出来ない。
その手から、彼女の温もりを感じる事も……。
人が死ぬという事は、そういう事なのか――。
「なあなあ、こいつをアジトに持って帰って他の奴らにも見せようぜ。こいつには散々仲間を殺されてきたからなぁ。皆喜ぶと思うぜぇ? 一人ずつ順番にナイフを突き刺していって、殺した奴が罰ゲームってのはどうだぁ?」
「諦めろ。依頼主からはここで殺せと言われてるだろ。外へ連れ出して誰かに見られたらどうするつもりだ」
「ちっ。ツレねえなぁ。にしても、あの神父のオッサンも執念深いよなぁ。腕を斬られて追い出されたのが三年前の話だろ? その復讐を今更俺らに依頼とか……まあ、俺らにとっては美味しい仕事だったけどよ。こんなあっさり公爵家が陥落するなんて拍子抜けもいいとこだぜ」
「相変わらずお前はよく喋るな。ちっ……思ったよりも火の回りが早い。そろそろ行くぞ」
「へいへーい」
男達は廊下へは向かわず、部屋の窓から屋敷の外へと脱出した。
開け放たれたままの扉の先には、もう火の手が部屋のすぐ前まで迫ってきている。
その熱風が部屋の中へと入り込んで来るが、僕の心は凍り付いたままだ。
マリエーヌ……マリエーヌ……。
彼女の名前を頭の中でひたすら呼び続けても、彼女は何の反応も示さない。
胸を埋め尽くす程の後悔の念。
叫び出したい程の激しい悔しさは涙となり、僕の瞳から止めどなく溢れ出した。
僕のせいだ。
彼女は僕のせいで死んでしまった。
誰よりも大切で、守りたかった、僕が愛した唯一の女性――。
身を焼かれる様な熱も、呼吸もままならない程の苦しみも、忍び寄る死への恐怖も――今の僕には何も感じない。
マリエーヌを失った哀しみは、今度こそ僕の生きる意味を失わせた。
彼女のいない世界に、もはや生きる理由など無い。
だが――。
どうしても納得がいかない。
神よ……僕の事はどうでもいい。
この最期も、僕の自業自得だろう。
だが、マリエーヌは違う。
彼女が一体何をしたというのだ?
家族から虐げられ、好きでもない男と結婚させられ、その男からも、仕える使用人達からも冷遇され続けてきた。
それなのに……彼女は憎まれても仕方が無い僕に、何の見返りも求めず優しくしてくれた。
愛を知らなかった僕に、人を愛する事を教えてくれた。
絶望の淵に立たされる僕を、何度も救いの手を差し伸べ助けてくれた。
それなのに……それなのに……!
こんな結末はおかしいだろ!!
マリエーヌだけは……彼女だけは幸せにならなくてはいけなかったはずだ!!
誰よりも幸せになる権利を持っていたはずだ!!
それなのに何故、マリエーヌが死ななければならなかったんだ!!
部屋の中は炎で真っ赤に染まり、僕の意識が途切れだす。瞼が重たく自然と目が閉じていく。
マリエーヌ……。
閉じた瞼裏に、彼女の優しい笑顔が映し出される。
もっと彼女の笑顔を見ていたかった。
僕は彼女に何もしてあげられなかった。
君に何も返してあげられていない。
このまま死んだら、あの世で君と出会えるのだろうか。
いや……僕は人を殺めすぎた。きっと同じ場所には行けないのだろう。
君とこうして出会えた事自体が、僕にとっては奇跡だったんだ。
だが――。
もし、もう一度、奇跡が起きて君と出会う事が出来たなら……。
その時、僕の体も動く事が出来たのなら……君とどんな日々を過ごすだろうか。
ああ、そうだな……。
毎朝、君に花束を届けよう。
屋敷中の花瓶が足りなくなる程、部屋に飾りきれない程の花束を。
あの飾りも何もない君の部屋を、埋め尽くす程のプレゼントを君に贈ろう。
ドレスもアクセサリーも宝石も、君に贈りたいと思っていた物は山程あるんだが、君は全部受け取ってくれるだろうか。
食事の時間も常に一緒だ。
いつも君は僕の食事を優先して、ゆっくり食べられていなかったからな。君の舌を唸らせる程の最高のシェフを屋敷に招こう。
美味しそうに口いっぱいに頬張る君の姿を見ているだけで、きっと僕の胸もお腹も一杯になるだろう。
天気が良い日は、二人で手を繋いで中庭を一緒に散歩をしよう。
今度は僕が君の歩幅に合わせて歩くんだ。
君と同じ目線で見る世界は、きっと今までとは違う新しい世界の形を僕に見せてくれるのだろう。
出られなかった屋敷の外へも出られる。僕が街の中を案内しよう。今度は僕が君に新しい世界を見せてみせよう。
一度も呼んであげられなかったその名を呼び、伝える事が出来なかった愛を……今度こそ惜しむ事なく君に伝えよう。
何度でも……君が呆れる程、愛を囁こう。
君にしてあげたい事は他にも沢山ある。
君が僕にしてくれた事全てを、今度は僕が返すんだ。
そして今度こそ、僕が必ず君を幸せにしてみせる。
だから――。
神様。
どうかもう一度だけ……僕にチャンスを与えてください。
今度こそ、彼女を幸せにするチャンスを――。
深く沈んでいく意識の中で、幸せそうに笑い合う僕達の姿を遠目に見つめていた。
その姿も霞んで見えなくなっていく。
だが不思議と僕の心は穏やかだ。
きっと、最期の時までマリエーヌが僕を守ってくれたのだろう。
それが、前の人生の僕の最期だった――。




