48.僕の女神
次の日から、僕は食事の時間になっても一切口を開かなかった。
断固として口を閉ざしたままの僕に、マリエーヌは無理やり食べさせるような事はしなかった。
彼女が僕に話しかける声も、次第に元気が無くなっていった。
それでも、僕は感情を押し殺して素っ気ない態度を貫いた。
その間も、僕はマリエーヌと一度も目を合わさなかった。
食事を拒絶し始めて五日目の朝。
相変わらず朝食を食べようとしない僕を見たマリエーヌは、早々に食事を切り上げた。
「公爵様、少し外に出ましょうか」
そう言うと、マリエーヌは車椅子に座る僕を屋敷の外へと連れ出した。
すっかり馴染みとなった中庭に向かうと、展望用の小屋の屋根下で足を止めた。
僕の背後から、マリエーヌの憂いを帯びた声が聞こえてくる。
「公爵様。もしも今、死にたいと思う程辛い思いをしているのであれば、それを無理に止める権利は私にはありません」
その言葉に、動かない体がピクリと反応した気がした。
確かに、体が動かなくなったばかりの頃、あの地獄の様な日々の最中で何度死にたいと思った事か。
だが、マリエーヌと出会ってからは、そう思う事は無くなった。
それどころか、マリエーヌと共に生きたい……そんな思いを抱くようになった。
でもそれじゃ駄目なんだ。
マリエーヌが幸せになる為には――。
「だけど、公爵様が万が一にも私の事を思って死のうとしているのなら、それはハッキリ言って余計なお世話です」
「……!」
再び、僕の体が跳ねた気がした。
マリエーヌ……君は。
どうして僕の気持ちに気付いてくれるんだ?
いつだってそうだ。
彼女は僕が望む言葉を、僕が欲しい時に言ってくれる。
言葉を交わした事も無い僕達なのに。
まるで僕の心の声が聞こえているのではと錯覚する程に、彼女は僕の気持ちを分かってくれる。
いつの間にか、マリエーヌは僕の目の前へとやって来ていた。
だが、僕はまだ彼女と目を合わせる訳にはいかない。
今、彼女と目を合わせてしまったら、揺らぎ始めた僕の決意は容易く打ち砕かれてしまうだろう。
「それともいっその事、二人で一緒に死にましょうか?」
な……!?
何を言ってるんだ!?
なんでマリエーヌまで死ぬ事になるんだ!!!
反射的にマリエーヌへ目を向けると、一瞬で彼女と目が合った。
マリエーヌは安心した様子で、僕に向けて切なげに微笑んだ。
「嘘です。やっと目を合わせてくれましたね」
久しぶりに目にしたマリエーヌの笑顔に、僕の中の彼女への想いが込み上げてくる。
その想いと一緒に、僕の目にも涙が込み上げる。
僕は一体どうすれば良いのだろう。
誰よりも大切な彼女の為に、死のうと決意した筈なのに――。
どうしてこれ程までに、彼女に縋り付きたい思いに駆られるのだろう。
愛しいマリエーヌの姿を、僕は瞬きも忘れて見つめ続けた。
その時、彼女のある変化に気付いた。
マリエーヌ……少し痩せたか……? 疲れている様にも見えるが――。
そこまで思考を走らせてハッとした。
そう言えば、僕が食事を拒絶し始めてから……彼女は自分の食事をどうしていたんだ?
僕を誘う様に数口食べていたのは知っている。
だが、僕が食べる気が無いと分かると、自分の料理も一緒に下げていた。
それを、彼女は後で食べていたのか?
彼女の顔をよく見れば、目の下にはうっすらとクマが出来ている。
夜はちゃんと眠れていたのだろうか?
彼女に聞いて確認したいが、当然無理な話だ。
……いや。
聞かなくても分かる。
自分よりも人の事を優先する彼女の事だから、急に態度を変え、食事も拒絶し始めた僕の事をずっと心配していたに違いない。
食事を摂ろうとしない僕の事を考えたら、自分も食事をする気になんてなれなかっただろう。
僕の事が気になって、夜も十分に眠る事が出来なかっただろう。
きっと色んな思考を巡らせたんだ。
何故僕が食事を摂らなくなったのか。目を合わせないのか。
何故朝になると、僕の顔に涙の痕が見られるのだろうかと。
そうして考え抜いた末に、辿り付いたんだ。僕の本当の目的を――。
マリエーヌと出会ったばかりの頃は、彼女が何を考えているのかなんて全く分からなかった。
だが、今は彼女が考えている事が手に取る様によく分かる。
ああ、そうか。
きっとマリエーヌも同じなんだ。
彼女はいつも、僕が何を考えているのかを分かろうとしていたんだ。
例え言葉が通じなくても、僕の目を見てその僅かな微動から、僕の心の声を必死に読み取ろうとしてくれていたんだ。
誰よりも、僕の理解者であろうとしてくれた。
相手の気持ちを汲み取り、思いやり、大切にする心――それが、マリエーヌが僕へ与えてくれていた『愛』だったんだ。
僕はちゃんと彼女からの愛を受け取っていた。
だから僕は今、こうして愛を理解し、君を愛する事が出来た。
全て、マリエーヌが僕に教えてくれた事だったんだ――。
その時、見つめていた彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
初めて目にした彼女の涙に、僕は計り知れない程の衝撃を受けた。
きっとその涙は僕のせいで流れているのだろう。
想定していたとはいえ、実際に目の当たりにすると頭の中が真っ白になる。
出来る事なら、今すぐに土下座でもなんでもして彼女に謝りたい。
冷や汗を流す僕に、マリエーヌは涙を流しながら口を開いた。
「公爵様が死んだら、私はまた一人ぼっちになってしまいます」
そう言うと、マリエーヌは僕の前でしゃがんで視線を合わせた。
彼女はいつも、僕に話しかける時はこんな風に寄り添ってくれる。
同じ目線で、優しい声で――彼女の口から紡がれる言葉に何度聞き入っただろうか。
震える彼女の唇が、ゆっくりと開いた。
「毎日の食事が美味しいのは、一緒に食べてくれる人がいるからです。天気が良い事を嬉しく思えるのは、一緒に散歩を楽しんでくれる人がいるからです。何処にでも咲いている花々が、何よりも綺麗だと思えるのも、ふいに見上げた空に虹がかかっている事に感動するのも、いつも公爵様が私の傍に居てくれたからです。私は公爵様と共に過ごすようになって、毎日がとても充実しています」
それは僕がいつも思っていた事と同じだった。
「だから私は公爵様が死んでしまったら、とても悲しいです。公爵様が、もしも私の事を考えてそのような選択をしようとしているのなら尚更――公爵様の犠牲の上で成り立つ私の幸せなんてありません。その事を、どうか忘れないで下さい」
彼女の言葉が胸に鋭く突き刺さった。
僕はまた間違えるところだった。
誰よりも優しいマリエーヌが、僕が死んで幸せになる未来を望むはずがないじゃないか――。
気付くと僕の頬にも涙が伝っていた。
それを彼女はポケットから取り出したハンカチで優しく拭ってくれた。
自分の事よりも、僕の事をいつも優先する姿は出会った頃から変わらない。
僕もあの頃から変わらない。
相変わらず体は動かないし、声を出す事も出来ない。
だけど、この目が見えて良かった。
君の優しい笑顔を見る事が出来るから。
この耳が聞こえて良かった。
君の透き通る様な心地良い声を聞く事が出来るから。
君と再び出会えてよかった。
君の優しさに気付く事が出来た。
愛される事、愛する喜びを知る事が出来た。
生きていて良かった。
僕は――生きていて良かったんだ。
今までも、これからも――。
もし、この先もマリエーヌと共に過ごす未来を許されるのなら――。
これからも僕は、君と生きていきたい。
生き続けていれば、また同じ様に思い悩む事もあるかもしれない。
再び、命を絶ちたいと思う事もあるのかもしれない。
だけど、そんな時は君の笑顔を……君の言葉を思い出そう。
僕が選択を間違えそうになる度に、君はきっと僕を正しい方向へと導いてくれるのだろう。
どれだけ僕が絶望の淵に立たされても、何度でも救いの手を差し伸べ助けてくれるんだ。
やはりマリエーヌは女神の様に尊い存在だ。
――彼女は僕の女神だ。
だが……本物の神は、あまりにも無慈悲だった――。




