47.彼女の幸せの為に
「マリエーヌ。君には失礼な事を言って申し訳なかった。君は兄さんの声をずっと聞いてくれていたんだな」
レイモンドは立ち上がると、苦笑いを浮かべながらマリエーヌへ謝罪した。
結局、レイモンドは涙を流す僕を見つめたまま、何も声をかけてこなかった。
というよりも、言葉を失っていたという方が正しいかもしれない。
血も涙も無いと言われていた僕が、涙を流す姿なんて想像した事も無かったんじゃないだろうか。
レイモンドは何かを思い悩む様に口元に手を当てた後、小さく息を吐いた。
「だが……さっき僕が伝えた話は、もう一度考えておいてほしい」
「レイモンド様!」
「言いたい事は分かっている。だが、僕は兄さんにも考えてほしいと思って言ってるんだ。もし兄さんがマリエーヌの事を大切に思っているのだとしたら、どの選択肢が一番正しいのかを」
そう言いながら、レイモンドは再び僕に向けて、何かを確認する様に目を尖らせた。
それはレイモンドがいつも僕に向けていた挑戦的な視線だ。
体が動かなくなってからは、そんな目で僕を見る事も無くなっていたのだが……レイモンドの中でも僕に対する意識が変わったらしい。
「……」
僕がその目としっかりと視線を交わすと、レイモンドはフッと小さく笑いマリエーヌへ声を掛けた。
「さて、僕はそろそろここを出なければいけない。マリエーヌ、近いうちにまた来るから、その時に返事を聞かせてくれ。……兄さんも。体に気を付けて」
そう言い残してレイモンドは僕達に背を向けて立ち去っていった。
僕とマリエーヌだけになった空間に、嵐が去った後の様な静けさが訪れた。
マリエーヌが僕の顔を覗き込む様に近寄ると、
「大丈夫ですよ。何があっても私の気持ちは変わりません。ここを離れる事になっても、公爵様のお傍にいます」
朗らかな優しい声で、僕を元気付けようと笑いかけてくる。
だが、僕はそんな彼女から視線を逸らした。
「……公爵様?」
か細い声で呟いたマリエーヌが、一体どんな表情を浮かべていたのか、視線を床に落としたままの僕には知る事が出来なかった。
「公爵様、今日はお疲れさまでした。また明日、よろしくお願い致します。おやすみなさい」
僕をベッドに寝かせたマリエーヌは、いつもの様に僕に挨拶をして部屋から出て行った。
だがその声は、いつもと比べると明らかに気落ちしている様に思える。
それもその筈だ。
あれから僕は、マリエーヌと一度も目を合わせる事無く一日を過ごした。
声を掛けても目を逸らしたままの僕に、マリエーヌは根気強く声を掛け続けてくれていた。
その声を聞こえていないかの如く無視する度に、胸が酷く痛んだ。
ふいに、僕の目に涙が込み上げてくる。
駄目だ。泣くな……! 泣いたらマリエーヌに気付かれてしまう!
流れた涙を自分で拭う事は出来ない。
今ここで涙を流してしまえば、明日マリエーヌが来た時に、僕の涙の痕に気付いてしまうだろう。
出来れば僕の本音に気付かれないまま、マリエーヌの方から僕と離れたいと思ってくれた方がいい。
こんな僕の事なんて見限って、レイモンドの言う通り、あいつと一緒になった方がきっと彼女も幸せになれる筈なんだ……。
その事を想像して、絶望の淵に叩き落された気分になる。
二人が並んで歩く姿を想像するだけで心臓がえぐられる様だ。
誰かを失う事を、こんなに怖いと思った事は無かった。
マリエーヌを失った僕の世界は――きっと暗闇だ。
彼女と出会う前に居た、あの凍えるほど冷たい闇の世界にまた引き戻されるのだろう。
マリエーヌが僕の世界を変えてくれた。
体が不自由になった事は不運だったが、彼女と出会えた事は幸運だった。
彼女と過ごした時間を、きっと幸せな時間というのだろう。
だが、マリエーヌはどうだったのだろうか。
僕の前では笑顔を絶やさなかった彼女だったが――果たして幸せだったのだろうか。
マリエーヌが僕に向けてきた笑顔を思い出し、再び目頭が熱くなる。
くそっ……! 出るな……出るな!
必死に涙を押し込めても、僕の脳内はマリエーヌが僕に見せてくれた笑顔で埋め尽くされている。
マリエーヌと離れたら、もうあの笑顔を二度と見る事は出来なくなるかもしれない。
僕が大好きな、あの笑顔を――。
ついに僕の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
そうか……。
僕はマリエーヌの事が好きなのか……。
そんな当たり前で単純な事に、今更ながら気付いた。
いや、そんな簡単な言葉一つでこの想いは言い表せない。
僕の彼女に対するこの想いは――愛というのだろうか。
愛――それは僕が今まで生きてきて、唯一理解出来ないものだった。
僕は自分の親からも誰からも、それを与えられた事が無い。
人から与えられる優しさは、いつも何かしらの下心を孕んでいた。
誰からも愛されなかった僕が、誰かを愛せる筈が無かった。
『愛』がテーマとなる演劇の中で、息子を守る為に自らを犠牲にして死を選んだ母親の末路にも理解出来なかった。
だが、今なら分かる。
彼女の笑顔が……優しい声が……凛とした立ち姿も、僕を守ろうとする強い眼差しも――。
何もかも全てが愛おしい。
愛する彼女の幸せを守る為なら、僕はどんな犠牲を払ってもいい。
本当に僕は、救いようの無い馬鹿な男だ。
ずっと近くにいたのに……彼女の事を知る機会はいくらでもあった筈なのに、どうして僕はもっと彼女の事を知ろうとしなかったのだろう。
もっと早く知れていたのなら、彼女にしてあげられる事は沢山あった筈なのに……。
だが、そんなどうしようもない僕にも、マリエーヌは救いの手を差し伸べてくれるんだ。
僕が生きている限りは、君はきっと僕を見捨てはしないだろう――。
それならば、もういっその事――。
……そうだ。それがいい。
レイモンドはもう公爵になる為の準備も終えている筈だ。
これ以上、僕を生かしておく理由も無いだろう。
僕が今考えている事を、マリエーヌが知ればきっと怒るだろう。
そして悲しむだろう――。
すまない。マリエーヌ。
僕は最期にもう一度だけ、君を傷付ける事になる。
だが、この方法以外に考えられないんだ。
今の僕では、君を幸せにしてあげる事が出来ない。
誰かの悪意によって傷付けられる君を、僕は守ってあげられない。
君が笑顔を向けてくれても、僕は笑顔で返せない。
君の誕生日が来ても、僕は何も贈ってあげられない。
君が手を握ってくれても、僕はその手を握り返す事が出来ない。
君に感謝を伝えたいのに、「ありがとう」の一言も言えない。
君の名前を呼んで、「愛してる」と伝える事も叶わない。
僕が君の為に出来る唯一の事は――。
僕が死んで、君を解放してあげる事だ。
君が生きる理由を教えてくれたのに、こんな答えしか出せない僕をどうか許して欲しい。
生きてほしいと言ってくれた君を、裏切る僕の行為を――。
だがきっと、僕の死んだ未来に、君の幸せがある筈なんだ。
だから――。
僕が死んだその後は……。
僕の事は忘れて、どうか幸せになってほしい。




