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46.涙

 暫く沈黙が続いた後、マリエーヌがいつもより低い声でレイモンドに問いかけた。


「レイモンド様。それは公爵様に一度でもお話しされましたか?」

「……いや? 話す必要があるのか?」

「当然です。公爵様に関わる話なのですから、公爵様本人に確認をとるべきです」


 強い口調でマリエーヌから指摘されたレイモンドは、驚きの表情を見せた後、溜息を吐いて立ち上がった。


「……兄さん。そういう話なのだがどうだろう?」


 僕を見下ろしながら問いかけるレイモンドは、僕の返事など期待していない。

 僕はレイモンドから素っ気なく視線を逸らした。


「……マリエーヌ。やはり兄さんに聞いても意味が無いのではないか?」

「いえ、公爵様は今、はっきりと視線を逸らしました。この話に納得していないという事です」


 さすがマリエーヌだ。

 僕の事をよく分かってくれている。


「……何だと? 君は兄さんが考えている事が分かるとでも言うのか?」

「いえ。全てが分かる訳ではありません。もしかしたら私の思い違いなのかもと考える事もあります。それでも、公爵様と一緒に四ヶ月間を過ごして、私なりに公爵様の考えている事を少しは理解してきたつもりです」


 そう答えるマリエーヌの姿はなんとも凛々しく、キラキラと煌めいて見える。

 普段のマリエーヌは大人しくて控えめで、自分に自信が無い様に見えるが、こうして僕を守ろうとする彼女の姿はなんとも逞しくて肝が据わっている。

 そんな彼女の姿を見ていると感極まって胸の奥が熱くなってくる。


 一方、レイモンドは神妙な面持ちを浮かべたまま少し間を置いて、マリエーヌに話しかけた。


「そうか……。君の気持ちはよく分かった。だが――やはり君はもう兄さんの傍にいるべきではない」


 何だと……!?


「何故そんな事をおっしゃるのですか!?」

「マリエーヌ、君は今までこの屋敷で長いこと冷遇されてきた。誰からも相手にされず、ずっと一人で孤独だったのではないか?」

「……」


 図星をつかれたかの様に、マリエーヌはグッと口を噤んだ。


 そんな気はしていた。使用人達は僕だけでなくマリエーヌの事も無視している。

 それはきっと、僕の体が不自由になる前から続いていた事なのだろう。

 僕がもっとマリエーヌの事を気に掛けていれば、きっと使用人達もそんな態度を取っていなかった筈だ。

 そうしていたら、彼女が孤独になる事なんて無かったはずなのに――。


「君は兄さんを献身的に世話をする事で、自分の中の寂しさや孤独な気持ちを満たしていたんじゃないのか? そして今は君の方が兄さんに依存している。だから兄さんと気持ちが通じ合っている様な気になっているだけじゃないのか?」

「な!? そんな事は……!」

「そんな事はないと、証明出来るのか? 君は兄さんと直接会話をした事があるのか?」

「……!」


 つまり……こいつはマリエーヌが孤独のあまり精神的に病んでいて、僕の気持ちが分かる様な妄想に浸っていると言いたいのか?


 ふざけるな。

 部外者が僕とマリエーヌの関係に口を出すな。

 例え会話を交わさなくとも、マリエーヌは僕の気持ちを誰よりも理解してくれている。

 何も知らないのはレイモンド、お前の方だろうが!


 何もかもが納得がいかない。

 マリエーヌが異常者扱いされた事も、僕とマリエーヌを引き離そうとしているこいつの事も……!

 くそっ! 怒りで頭がおかしくなりそうだ!


 自分が正しいと疑っていない、そのすました顔をぶん殴ってやりたい!


 だがそんな僕の気持ちなど露知らず、レイモンドはその口を止めようとしない。


「僕が公爵になったらこの屋敷の使用人達は全て解雇する。信頼出来る人間を新たな使用人として雇うつもりだ。そしたら……マリエーヌ。君には……いずれ僕と結婚してほしいと思っている」

「!?」


 はぁ!? 何を言っているんだコイツは!?

 コイツが一番頭がおかしいんじゃないのか!?


 マリエーヌも信じられない様子で目を見開き、抗議の声をあげる。

 

「でも私は公爵様と結婚しています!」

「兄さんと離婚すれば良いだけの事だ。今の兄さんの状態では自分の意志表明は出来ないが、肉親である僕が兄さんの代わりに離婚に同意する事が出来る。離婚してから一年程経過した後に、僕達が結婚すれば何の問題も起きない」


 マリエーヌと離婚だと……?

 そんな事をしたら……僕とマリエーヌは……ただの他人になってしまうじゃないか……。


 もしもマリエーヌと他人になってしまったら、マリエーヌは今までと同じ様に僕と接してくれるだろうか?

 距離を置かれたりするんじゃないのか……?

 ましてやレイモンドと結婚するなんてことになったら……。


 その事を想像して果てしない絶望感に襲われる。


「レイモンド様! 公爵様の前であまりにも無神経な発言です! 私は公爵様と離婚するつもりはありません!」

「マリエーヌ。確かに今はそれでいいかもしれない。だが、五年……いや、一年も経てば気持ちは変わる。このまま子供にも恵まれず、兄さんの世話をしながら余生を過ごすつもりなのか? きっといつか後悔する時が来るだろう。兄さんの事じゃなく、自分の事を考えて生きるんだ。君は今まで十分我慢して生きてきた。僕は悲しみに耐えて笑う君を見て、いつか兄さんから君を解放させてあげたいと思っていたんだ。だから――」

「いい加減にしてください!」


 マリエーヌが声を張り上げると、さすがにレイモンドもこれには口を閉ざした。

 絶望に捕らわれていた僕も、その声で少しだけ我に返りマリエーヌに視線を移した。


 マリエーヌはハァハァと肩で息をしながら、その瞳には怒りの色を滲ませている。

 いつも優しい彼女にしては珍しい。あの義妹が来た時にも同じ様な目をしていたが、今はその時よりも遥かに怒っている様に見える。


「レイモンド様。()()の私の人生を気にするよりも、まずは血の繋がった兄弟である公爵様の人生について、もっと考えるべきではないのですか?」

「……考えるも何も、こんな状態の兄さんの何を考えれば良いというのだ? せいぜい、なるべく苦しむ事無く残りの人生を過ごせるように配慮するくらいだろう。そう考えれば、専門の知識を持った人間がいる施設に移った方が兄さんの為になる筈だ」

「そうやって、また公爵様を一人で放置なさるおつもりですか?」

「……何だと?」


 マリエーヌの言葉に、今度はレイモンドが図星をつかれたかの様に不快さを露にした。


 だがマリエーヌは怯む事無く言葉を続ける。


「レイモンド様。先程、ここの使用人達を全員解雇するとおっしゃっていましたが、彼らがどういう人物なのか御存知だったのですか?」

「……ああ、そうだ。君の事を無視する様な奴らだったからな。どうせ兄さんがこんな姿になって、大した仕事もしていないのだろう」

「では、何の抵抗も出来ない公爵様が、使用人達にどのような扱いを受けるのか――想像出来たのではないですか?」

「……君の言う通りだ。暫くしてから兄さんの様子を見にくれば、使用人達がまともな世話をしていないという事は一目瞭然だと思っていた。それを口実に解雇を命じる予定だったのだが、まさか君が兄さんの世話をしていたとは……さすがに予想外だったな」


 レイモンドは小さく溜息を吐き、視線を遠くに向けた。

 その冷たい瞳から、使用人をどう処理してやろうかと思考を巡らせているのだろう。


 だが、マリエーヌはそんなレイモンドにも言葉で詰め寄る。


「レイモンド様。そんな事を考えるよりも、もっと早く公爵様の身を案じるべきでは無かったのですか? 公爵様が今までどれだけ孤独で、苦しみ辛い思いをしていたか……分かっていたのなら、何故もっと早く会いに来て下さらなかったのですか?」

「兄さんに苦しみ? 悲しみ? 今の兄さんがそんな感情を持っていると本当に思っているのか? 兄さんの意思が、そこにあると?」

「もちろんです! 公爵様は感情豊かな方です。目を見れば分かります。以前と比べてずっと柔らかく温かくなりました!」

「君にはそう見えるのかもしれないが、僕から見た兄さんは何も変わっていない」

「……それでも……私を励まそうとして嫌いな人参を食べてくれました!」

「…………は? 兄さんが人参を?」


 マリエーヌの必死の訴えを聞き、レイモンドは呆気に取られた表情をした後に吹き出した。


「ふっ……はっはははは! そんな筈が無いだろう! 何の弱点も無い兄さんだったけど、人参だけはどうしても苦手だったんだ! くっくくく……その兄さんが人参を? 笑わせないでくれ」

「本当です! 今はもう普通に食べられる様になったんです!」


 何がおかしいのか、レイモンドは暫くお腹を押さえて笑った後、疲れた様に溜息を吐いた。


「はぁ……。そうか……だとしたら、尚更兄さんの意識は薄れているのかもしれない。自分の嫌いな物を認識出来ない程にな」

「……どうしてですか? どうしてさっきからレイモンド様は、まるで公爵様がここにはいない様にお話されるのですか? 公爵様は今、私達の話を聞いています。きっと今後の事を考えて不安に感じている筈です」


 そう言うと、マリエーヌは僕の顔を覗き込み――その瞳が大きく揺れた。

 僕の右手を包み込む様に優しくしっかりと握りしめ、再びレイモンドへ顔を向けた。


「レイモンド様、お願いです。今一度、公爵様としっかり向き合って下さい。公爵様の声を聞いて下さい。公爵様は、()()にいるのです」


 真剣な表情でマリエーヌは再び訴えかけた。


 レイモンドは呆れた様に小さく溜息を吐き、僕の前まで歩み寄り、膝を付いて僕と向き合った。

 その瞬間、レイモンドは目を大きく見開いて驚きの声を上げた。


「なっ……!? 兄さん……泣いているのか!?」


 僕の両目から流れる涙は頬を伝って僕の足の上にポタポタと滴り落ちている。

 そんな僕の姿を見て狼狽えるレイモンドを尻目に、マリエーヌはハンカチで僕の涙を拭きながら、僕を安心させるように優しい笑みを向けた。


「公爵様、大丈夫です。何も心配はいりません。私はこれからも公爵様のお傍を離れませんから」


 マリエーヌの温かい言葉が、僕の凍えそうな心を優しく溶かしていく。


 ありがとう、マリエーヌ。

 本当に僕は、いつも君に救われてばかりだ。

 







 だが――僕も本当は分かっているんだ。


 レイモンドの言う事が正しいという事を。


 これ以上、僕の我儘で君の人生を犠牲にする訳にはいかないのだと――。



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