45.レイモンドの来訪
体が動かなくなって五ヶ月程が経過した。
晴れた青空の下、いつもの様にマリエーヌと中庭の散歩を満喫している時、奴は突然現れた。
「マリエーヌ」
背後から聞こえてきた馴染みのある声のせいで、朗らかだった気分が地に叩き落された。
「レイモンド様! ご無沙汰しております」
「ああ、久しぶりだな。元気にしてたか?」
「はい。おかげさまで」
僕の位置からは後ろにいるマリエーヌの表情は見えないが、声の弾み具合で彼女がレイモンドに対して友好的なのが分かる。
その事が余計に僕を苛立たせた。
次の瞬間、マリエーヌが僕の車椅子をくるりと動かして方向転換させ、僕の目の前にスーツ姿のレイモンドが現れた。
肩まで伸びた白銀色の髪を後ろで一括りに結び、僕と同じ真紅の瞳はマリエーヌへと向けられている。
マリエーヌが僕の隣に来てしゃがむと、僕の視界に彼女の顔がハッキリと見えた。
マリエーヌは目尻を下げて嬉しそうに微笑み、僕に声を掛ける。
「公爵様、レイモンド様が来られましたよ」
レイモンドは何とも言えない表情で暫く僕を見つめた後、仕方なさそうに口を開いた。
「……兄さん、久しぶりだね」
「……」
当然、僕の返事は無言だ。
例え声が出せたとしても、今は返事を返す気にはなれない。
そんな事よりも――。
こいつはさっき、マリエーヌの名前を呼んだ。それが心底気に入らない。
僕の妻なのだから、せめて『義姉さん』と呼ぶべきだろうが。
以前からこの二人は交流があったのか?
レイモンドは三ヶ月に一度くらいこの屋敷に訪れる事があったが、マリエーヌは殆ど部屋から出てくる事は無かったし、二人が話をする姿を見た事は無い。
だが、初対面という感じには見えない二人を前に、僕の心境は穏やかではいられない。
レイモンドはすぐに僕から目を逸らすと、怪訝そうにマリエーヌに問いかけた。
「それよりも、何でマリエーヌが兄さんと一緒にいるんだ?」
「え……?」
レイモンドの問いに、マリエーヌは目を丸くして瞬きを繰り返した。
なんとも不躾な質問だが、以前の僕達を知っていれば聞きたくなる気持ちも分からなくはない。
だが今日のレイモンドの言動はいちいち鼻につく。
すると、マリエーヌは少しだけ恥ずかしそうに顔を赤らめ、
「それはもちろん……公爵様は私の夫ですから」
照れた様に笑いながらそう言う彼女を見て「可愛い」としか思い浮かばなかった。
そう、マリエーヌは僕の妻で、僕はマリエーヌの夫。
正式な婚姻関係を結んだ正真正銘の夫婦だ。
二人だけの特別な関係。その事が今は実に喜ばしい。
神々に祝福される鐘の音が聞こえてきそうな気分だ。
だが、その気分を害する奴がここに一人存在する。
納得いかないとでも言いたげな顔で口をとがらせている。
「だが、兄さんは今まで君に夫らしい事を何かしてきたか? 屋敷の中でもずっと無視されていたのだろう? そんな相手を夫だからと言って、わざわざ君が付き合う必要は無い。それに兄さんの世話はこの屋敷の使用人に任せていた筈だが……」
口を籠らせたレイモンドは、視線だけを僕に移し、頭の上から足の先まで視線を滑らせた。
「思ったよりも元気そうだな。マリエーヌ、君がずっと兄さんの面倒を見てくれていたのか?」
「えっと……ここ四ヶ月程、でしょうか……」
「四ヶ月も? はぁ……屋敷の使用人達は一体何をやっていたんだ……」
レイモンドは呆れた顔で自らのこめかみを押さえた後、ふっきれたように顔を上げた。
「マリエーヌ、使用人には僕からもう一度言っておくから、君は明日から兄さんの事は気にしなくていい」
「え?」
何だと!? 何を言っているんだこいつは!
レイモンドは僕の事など全く気に留める様子もなくマリエーヌの前へ歩み寄り、彼女と目線を合わせる様に片膝を地に付けた。
奴がマリエーヌを見つめる視線が僕の神経を逆撫でする。
あろうことか、レイモンドは彼女の華奢な両肩にそっと手を乗せた。
その光景を目の前で見せつけられ、一瞬で僕の頭に血が上った。
レイモンド……! 何故貴様が僕のマリエーヌに触れているんだ!
今すぐその手を離せ!
殺意を込めてレイモンドを睨みつけるが、レイモンドは僕の存在を無視してマリエーヌに語り掛ける。
「マリエーヌ。今まで兄さんの世話をしてくれた事は感謝する。兄さんの様子を見る限り、手厚く看病してくれていた事がよく分かる。だがこれ以上、君に迷惑をかける訳にはいかない」
「いえ! 私は迷惑だなんて思っていません!」
「気を遣ってくれるのは有難いんだが、君もまだ若い。この先の人生も長いんだ。兄さんに付きっきりで過ごすよりも有意義な時間の過ごし方がもっとある筈だ」
「……ですが――」
「マリエーヌ、まだ公にはされていない話だが……あと一ヶ月もすれば、兄さんの爵位は剥奪され僕に譲渡される。皇帝陛下の了承も得ている。そうなれば僕はこの公爵邸を拠点として動く事になるだろう。つまり、僕がこの屋敷の新たな主になるという事だ」
「……そうですか」
肩を落としてそう言うと、マリエーヌは表情に影を落とした。
今後の自分の立ち回りについて考えているのかもしれない。
レイモンドがこの屋敷で暮らすとなると、いずれレイモンドが妻を迎えた時にマリエーヌの存在が問題視されるだろう。
同じ屋敷に公爵夫人と元公爵夫人が住む事になるのだから。
僕の体の状態も世に知れ渡っているだろうし、僕の事を良く思わない人間も多い。ありもしないデマや噂を流す輩や面白おかしく騒ぎ立てる奴らもいるだろう。
どちらにせよ、ここで僕達が一緒に暮らすのはお互いにとって何のメリットも無い。
そう考えると、僕とマリエーヌを別の住まいに移す、というのが定石だ。
恐らく、レイモンドもそう考えているはず――。
だが、レイモンドから予想外の言葉が飛び出した。
「マリエーヌが心配する事はない。君にはこれまで通り、この屋敷に住んでもらおうと思っている」
「え……?」
「だが、兄さんは施設へ預けようと思っている」
「「!?」」
なんだと……?
マリエーヌは屋敷に残り、僕は施設へ預ける……だと?
レイモンドの言葉に、一瞬思考が停止した。
恐らく施設というのは、僕の様に体が不自由な人間が療養出来る場所の事を言っているのだろう。
だが僕の知る限り、その施設がある場所はここから遥か遠い辺境の地に数か所あるのみ。
街の中心部にもそういう施設が必要だという声は上がっていた。
だが、僕がそれを許可しなかった。僕が不要だと判断したからだ。
こんな体にならなければ、その必要性を知る事が出来なかった僕は何処まで愚かだったんだ。
だがそれを今更悔いてもどうにもならない。
もし、僕が施設に預けられたりしたら……マリエーヌは会いに来てくれるのだろうか?
施設がある場所へは公爵邸からはどう急いでも馬車で一週間はかかるはず……。
いや、その事よりもレイモンドは何故マリエーヌを屋敷に残すと言ったんだ?
考えるも、頭の中が上手くまとまらない。
ただ、マリエーヌを失うかもしれないという恐怖で目の前が真っ暗に覆われた様だ。
公爵という爵位も、この屋敷も財産も何もかも手放す覚悟は出来ていた。
だがマリエーヌは駄目だ。
マリエーヌが僕の傍から居なくなるなんて考えられない。
レイモンド、お願いだ。
僕は他に何も望まない。
だから彼女だけは――どうかマリエーヌだけは、僕から奪わないでくれ――。




