43.今の僕に出来る事
「公爵様、昼食にしましょうか。指輪は汚れるといけないので、元の場所に収めておきますね」
マリエーヌは気を取り直すかの様に、明るい声で僕に話しかけると指輪を外して元の場所へと収めた。
「すぐに食事を持って来ますね」
僕に声を掛け、彼女は部屋から出て行った。
笑顔を繕ってはいたが、マリエーヌの表情はいつもより暗い。
あの女にやられた右手の傷も痛々しかった。
どうにかしてマリエーヌを慰められないだろうか?
考えてはみたものの、僕は今まで誰かを慰めようなどと考えた事は無い。
どうすればマリエーヌを元気づけられるのか、全く分からない。
いや、分かった所で今の僕にはどうする事も出来ないのだが。
――本当にか? 本当に何も出来ないのか?
マリエーヌは自分が傷付く事も構わず僕の誇りを守ったというのに、僕は彼女に何も返せないままなのか?
この先もずっと……彼女の為に何もしてあげる事が出来ないのか?
「公爵様、お待たせしました」
マリエーヌが料理を乗せたテーブルワゴンを押して戻って来た。
彼女の右手には包帯が巻かれている。恐らく自分で処置したのだろう。
出来れば傷付いた手を使わせたくないが、僕の世話をする限りそういう訳にもいかない。
きっと彼女は誰にも頼らないだろうから。
マリエーヌはいつもの様に僕の前にテーブルワゴンを設置して、彼女が食べる料理も隣の机に並べていく。
その時、マリエーヌの料理の中に人参がある事に気付いた。
僕の人参嫌いを知っているマリエーヌは、僕が食べる分には絶対に人参を入れない。
人参……。
忌まわしい人参を前に、僕は昔見た演劇のあるシーンを思い出していた。
戦乱の世、父親を戦争で亡くし、貧しい暮らしをしている母子の食事のシーン。
その日は母親の誕生日らしく、子供は母親を喜ばせる為に、大嫌いな人参を目の前で食べてみせた。
「お母さんはいつも人参を食べたら強くなれるって言ってたよね! これからは僕、人参沢山食べてお母さんを守れるくらい強くなるよ!」
それは息子に人参を食べさせようと、母親が言っていた根拠の無い言葉。
だが、母親は自分の為に嫌いな人参を食べる息子を見て、感激して涙を流して喜んでいた。
その時は「くだらんな」と、気にも留めていなかった。
だが――。
僕はある決意を胸に、マリエーヌのお皿にある人参をジッと見つめた。
マリエーヌが料理をスプーンで掬って僕の口元へ持って来ても、口を開けずにその一点を見つめ続けた。
マリエーヌ。どうか気付いてほしい。
君ならきっと気付いてくれる筈だ。
僕が今、何をしたいと思っているかを。
「公爵様、お腹が空いて無いのですか?」
マリエーヌが僕の顔を覗き込みながら話しかけてくる。
その瞳から僕を心配する様子が伝わってくる。
だが今がチャンスだ。
マリエーヌが僕の目を見ている時が、僕の意図を伝えられる瞬間。
だから伝わってくれ。僕はあの人参を食べたいと思っている事を……!
食い入る様な視線を人参に向けていると、
「公爵様、何か見てるのですか?」
とマリエーヌが僕の視線を辿り始めた。
自分の料理に目を移し、そこにある人参を見てピタリと視線が止まった。
「もしかしてこの人参を見ているのですか? 大丈夫ですよ。公爵様の分には人参は入れていません。嫌いでしたもんね?」
そう問われても、僕はマリエーヌに目を向ける事無く、人参だけを見つめ続けた。
マリエーヌはいつもと違う様子の僕を見て、暫く考えた後に顔を強張らせて恐る恐る声をかけてきた。
「公爵様。もしかしてとは思いますが……人参を食べたいって思ってます?」
その言葉を聞いて、ようやく僕は人参から視線を逸らしてマリエーヌをジッと見つめた。
マリエーヌはびっくりした様に目を大きく見開くと、
「公爵様。すぐに準備してきますので、もう暫くお待ちください!」
そう言い残して僕の部屋を飛び出した。
一人部屋に残された僕は、マリエーヌが戻って来るまでの間、これからの事を想像して尋常じゃない汗を流していた。
「お待たせしました! 公爵様…………大丈夫ですか? 凄い汗ですが……」
大丈夫だ。何も問題ない。
そう伝える様にマリエーヌをジッと見つめた後、彼女が手にしている皿に視線を向けた。
恐らく、そこにヤツがいるのだろう。
マリエーヌは自分の椅子に座ると、手にしていた皿の中にあるペースト状のオレンジ色の物体をスプーンで少しだけ掬い、緊張する面持ちで僕の口元へと近付けた。
勢いのまま食べようとしたが、さすがに至近距離まで来られるとその存在を意識せずにはいられない。
だが、ここで口を開けなければ、優しいマリエーヌはすぐに手を引いてしまうだろう。
固く閉ざされた口を本能に逆らう様に開くと、マリエーヌが持つスプーンが口の中へと入ってきた。
「……!!」
その瞬間、少量しか口に入れていないにも関わらず、嫌いな人参の風味が舌に纏わりついた。
とても飲み込めそうにない。吐き出したくて堪らない。
目の前には心配そうに僕を見つめるマリエーヌがいる。
「無理しないで大丈夫ですよ」と言いたそうに見つめる彼女に甘えたくなる。
だが――。
これまで僕は、マリエーヌに対して何かしてあげたことがない。
どうして僕は、今まで彼女に何もしてあげなかったんだ――そう何度後悔しただろうか。
こんな体になってから彼女の優しさに気付くなんて、僕は本当に愚かな人間だ。
だが、こんな僕でも唯一彼女を喜ばせる方法を思い付いた。
それを諦めるのか?
これは僕に出来ない事か?
否、出来る事だろうが!
渾身の力を振り絞って口の中のモノをゴクリと飲み込んだ。
全身に鳥肌が立つような感覚に襲われたが、口の中にはもう何も残っていない。
それを確認させる為に、マリエーヌに向けて口を開いた。
「公爵様が……人参を……食べた……?」
そう呟くと、マリエーヌは目を見開いたまま暫く唖然としていたが、次第にその口角が上がり出した。
「公爵様……! 凄い! 凄いです! さすが公爵様です! 素晴らしいです!」
僕の手を取り、歓喜の声を上げて僕を称賛する彼女からは、先程までの憂いはもう微塵も見られない。
そんな彼女の姿を前にして、僕は何とも言い難い感動を覚えて胸が熱くなり、喜びに震えた。
人参を食べられた事よりも、マリエーヌが喜んでいる事が嬉しい。
初めて自分の力で彼女を喜ばせる事が出来た。
こんな僕でも、彼女を笑顔にさせる事が出来ると知った。
その事が、嬉しくて堪らなかった。
それ以来、僕の食事にも時々、人参が使われるようになった。
マリエーヌは無理に食べる必要は無いと言ってくれたが、僕はそれを一度も拒まなかった。
僕の唯一の弱点であり、何よりも嫌っていた人参だったが、今はそれが食事に出てくるのが待ち遠しい。
それを食べれば、彼女が笑ってくれる事を知ったからだ――。
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