41.マリエーヌの義妹
体が動かなくなって四ヶ月程が経った。
昼食の時間となり、車椅子に座った僕の髪をマリエーヌが櫛で梳かしてくれている時、ガチャリと部屋の扉が開いた。
「マリエーヌ様。スザンナ様がお見えになりました」
侍女が僕の部屋に入るなりそう告げると、背後から見知らぬ女が姿を現した。
「お姉様。ご無沙汰しております」
微笑を浮かべて丁寧にお辞儀をした後、女はしおらしく顔を上げた。
「スザンナ!? どうしてここへ連れて来たのですか!? 来客なら応接室で対応する筈じゃ――」
「怒らないでお姉様。私が時間が無いからすぐにお姉様にお会いしたいとお願いしたのです」
マリエーヌが侍女に向けた抗議の言葉を遮る様に女が口を挟み、控えていた侍女に「あとは私に任せてください」と退室を促した。
侍女は無表情のまま女に頭を下げ、部屋から退室して扉を閉めた。
部屋に残った女は僕の前へと歩み寄ると、淑女らしい仕草でお辞儀をして僕に挨拶をした。
「公爵様、初めまして。マリエーヌの妹のスザンナと申します」
シン……と沈黙の時間が流れた後、女は訝しげに顔を上げ、僕の顔を暫く見つめて首を傾げた。
「お姉様。もしかして公爵様って喋れないの?」
「……ええ」
知られたくなかったと言いたげな表情で、マリエーヌは視線を逸らした。
「そう……。事故の影響で体調が良くないとは聞いていたけど……まさかこんな状態になってたなんて……じゃあ、挨拶しても意味無かったわね」
僕の心配をする様な素振りを見せたかと思えば、女はケロっと表情を変えた。
「……! スザンナ! 公爵様の前で失礼よ!」
「なんでよ? だってこの人、喋る事も出来ないんでしょ? 喋らない相手に挨拶して意味あるの? 私の声が聞こえているかも分からないじゃない」
なんだこいつは。
この女が二面性を持っている事は大いに理解したし、僕を無視するのも仕方がない。
僕も自分がこんな姿にならなければ、この女と同じ事を思っていただろう。
だか、こいつがマリエーヌを見る目が気に食わない。相手を見下すその視線が。
僕が女を睨みつけていると、マリエーヌにしては珍しく冷たい口調で女に話しかけた。
「スザンナ。用事が無いのならさっさと帰りなさい」
「あら。お姉様ったら冷たいわね。久々に再会した妹にそんな酷い事を言うの? 今日はせっかく良い知らせを持ってきたというのに」
「良い知らせ……?」
「ええ! お姉様、私も結婚する事になったの!」
甲高い声で言い放った女の声は耳障りでしかない。
更にはうっとりする様な、気持ちの悪い笑みを浮かべて自慢げに語り出した。
「しかも相手はあのヴィンセント侯爵令息! 次期侯爵様になるお方よ! 気品溢れる美しい容姿、優しくて誠実で紳士的……そんな彼が、なんと私に求婚して下さったの! 今日は今からお父様と侯爵家に御挨拶に伺う予定なの。その通り道だったから、お姉様にも一言報告しておこうと思った訳よ」
ヴィンセント――その名前には聞き覚えがある。
確かに表向きの評判は良いが、その裏の顔は酷いものだ。
女遊びが酷くて後継者にはとても出来ないと父親は嘆いていたが……。
二面性のある二人が結婚とは、気が合いそうだな。
用事が済んだのならさっさと帰ってほしい。
マリエーヌと一緒に過ごす時間をこんな奴に邪魔されたくはない。
「そう。それはおめでとう」
どうやらマリエーヌも僕と同じ事を考えている様で、素っ気なく話を終わらせた。
「まあ、お姉様ったらそれだけ? せっかく可愛い妹の結婚が決まったというのに、何かお祝いの品をあげようとか思わないの?」
なるほどな。
そっちが本命という訳か。
「申し訳ないけど、あなたにあげられそうな物は無いわ」
「まあ! 公爵様はお姉様に贈り物の一つも贈って下さらなかったの!? ほんとに酷い旦那様だわ!」
その言葉が刃となり、僕の頭にグサッと深く突き刺さる様な感覚に陥った。
こんな女の言葉にダメージを受けるとは実に屈辱的だ。だがこれは完全に僕の過ちである。
今からでも彼女に贈り物が出来るのなら……そんな事を毎日考えている。
「例え貰っていたとしても、あなたにはあげないわよ」
「そう……じゃあ仕方ないわねぇ」
そう言うと、女は部屋の隅々まで視線を走らせたあと、コツコツと足音を立てて壁際へ歩き出した。そこにある木製のチェストの前まで来ると、躊躇する事なく引き出しを開け始めた。
「ちょっと! 何をしてるの!?」
「公爵様の私物でもいいじゃない。だってこの人が持っていてももう意味が無いでしょ? あら! これとか素敵じゃない! この宝石はルビーかしら?」
あれは――。
女が物珍しそうに見ている物は、ルビーがはめ込まれたシルバーの指輪。
純度の高い上質なルビーを使って作られた、並みの貴族には到底手の届かない代物だ。
だがそれ以上に、その指輪はもっと特別な意味を持っている。
僕の曾祖父の時代から代々、公爵となる人間に受け継がれる物で、指輪の裏側には特殊な加工が施され、この公爵家の紋章が刻み込まれている。
僕の血族は皆、赤い瞳を持って生まれてくる。ルビーはその瞳の色、つまり公爵家の血を引く者の象徴でもある。
もしもその指輪を誰かが盗んで売ろうとすれば、鑑定に出された時点で公爵家から持ち出された盗品だとすぐにバレるだろう。
だからこの屋敷で働く使用人達も、この指輪にだけは手を出そうとしなかった。
だが、今の僕が持っていても意味が無い物なのは確かだ。
欲しいなら好きにしていいからさっさと帰ってほしい。
だが、マリエーヌがそれを許さなかった。
勢い良く女の元へと向かうと、一気に詰め寄った。
「スザンナ! それを元に戻しなさい! それは公爵様の物よ!」
「何よ? 別にいいじゃない。この人が持ってても宝の持ち腐れってやつでしょ? 私がもらってあげた方が役に立つわよ!」
「いい加減にしなさい! ここはあなたの家じゃないのよ! それを返しなさい!」
マリエーヌは女の手を掴み、もう片方の手で掴んでいる指輪を奪おうと必死に手を伸ばす。
「きゃ!? 何よ!? 今まで私に歯向かった事なんてなかったくせに! ちょっと痛いじゃないの!」
甲高い声を上げながら、女はマリエーヌの手を振り払う様に抵抗する。
揉み合う二人の姿を、僕はマリエーヌの身の安全を願いながら見守る事しか出来ない。
正直、驚いた。
普段はあんなに控えめで穏やかなマリエーヌが、こんなに感情的になるなんて……。
それが僕の物を守る為に見せる姿なのだと思うと、尚更胸が熱くなる。
少しも退く気が無く、勇ましく立ち向かう彼女の姿が美しく思えた。
その時、キンッと音を立てて指輪が床に転がった。
すかさず動いたマリエーヌが、指輪を拾おうと手を伸ばした時、女がその手を踏み付けた。
「うっ!」
マリエーヌの口から洩れた呻き声を聞いた瞬間、僕の怒りが一気に頂点へと達した。
あの女……!
殺してやる!!!
今すぐ剣を取り、マリエーヌの手を踏みつけているその足を切り落としてやりたい衝動に駆られる。
必死に体を動かそうとするが、当然のごとく僕の体はピクリとも動かない。
動かないのは分かっている……分かってはいるが……!
思い通りにいかないこの体がもどかしい。
怒り任せに渾身の力を入れるものの、僕の手足は少しも反応してくれない。
床に這いつくばり苦痛に顔を歪めるマリエーヌの姿を、僕はただ見ている事しか出来ない。
くそ……くそ! なんでだ!
マリエーヌは僕の為に、あんなに必死に指輪を守ろうとしているのに、なんで僕の体は動かないんだ!
僕のすぐ目の前で彼女が傷付けられているというのに――どうして僕は彼女を守る事が出来ないんだ!?
悔しい……どうして僕は、こんなにも無力なんだ……!
女に対する怒りと、それ以上に自分に対する激しい憤りで体が燃える様に熱くなった。




