40.僕の世界の中心には彼女が存在する
体が動かなくなってから三ヶ月程が経った。
「公爵様、おはようございます。今日は薔薇のお花が綺麗に咲いていましたよ」
マリエーヌは寝ている僕に薔薇を見せた後、ベッドの近くに置いてある小さい花瓶の中にそれを生けた。
毎朝、マリエーヌは中庭に咲いている花を一輪摘んで持って来る。
花瓶の中にはこれまでマリエーヌが持ってきた花が何本か生けてあり、萎れ始めたものはマリエーヌの手によって取り除かれ、一番新しい花が手前に見える様に差し込まれる。
ベッドで過ごす事が多い僕が、少しでも退屈しない様にというマリエーヌの心遣いが伝わってくる。
マリエーヌはいつもの様に僕を車椅子に座らせると、今度は唐草模様の刺繍がされている白いシャツを僕に見せた。
「公爵様、この洋服の刺繍とても素敵ですね。今日はこれを着ましょうか」
その言葉に、僕は返事をする代わりに目の前のシャツをジッと見つめた。
どうやら彼女は視線の動きで僕の意図を読み取ろうとしているらしい。
僕が視線を逸らせば別の選択肢を用意するし、僕が見つめ続ければ了承したと判断する。
だから特に問題がない場合は、こうして目を逸らさずにジッと見つめ続けるようにしている。
「では、こちらに着替えさせて頂きますね」
僕の返事を受け取った彼女は、僕が着ている寝間着を脱がせ始めた。
ほんの些細な事だが、こうして自分の意志を伝えられる事は、僕が確かにここに存在しているのだと実感できる。
マリエーヌは慣れた手つきで先程見せてくれたシャツの袖に僕の手を通す。
食事がしっかり摂れる様になり、僕の体は元通りとは程遠いが、少しだけ肉付きが良くなった。
栄養状態が良くなり、マリエーヌの適切な処置のおかげで体の床ずれも全て無くなった。
体の痛みもなくなり、夜も良く眠れている。
体は動かなくても、体の調子は以前と比べるとすこぶる良くなった。
全てマリエーヌのおかげだ。
僕の着替えが終わると、いつもの様に二人で並んで朝食を食べ始めた。
「公爵様、今日は天気が良いので中庭へ散歩に行きましょうか」
そう言って穏やかな笑みを浮かべるマリエーヌの顔を、僕はジッと見つめた。
公爵邸の中央部には広範囲に渡って中庭を設けている。
色鮮やかな花々で埋め尽くされ、数名の優れた庭師によって丁重に手入れがされている。
優美な花々を見ながらお茶を楽しめるようにと、見晴らしが良いように柱に屋根が付いた眺望用の小屋も設置されている。
幼い頃、中庭を散歩する両親とレイモンドの姿を何度か見かけた事があり、僕はこの中庭が好きではなかった。
何度無くしてしまおうかと思った事か……。
だが、無くさなくて良かった。
マリエーヌとこうして中庭を二人で散歩する事が出来るのだから。
マリエーヌは僕が座る車椅子を押してゆっくりと中庭の通路を歩いた。
僕の頭には日よけ用のつばの長い帽子が被せられている。
天気が良い日はこうしてマリエーヌと中庭を散歩する事が日課となった。
僕の今の状態を外部の人間に見せる訳にはいかない為、公爵邸の外へは出られない。
つい数ヶ月前までは、広大な公爵領地をあちこち駆け巡っていたのにも関わらず、今の僕の世界はこの公爵邸の中だけ。
僕が見る世界は以前と比べて段違いに小さくなった。
その筈なのに――。
マリエーヌと共に散歩するこの中庭はとても広く感じる。
マリエーヌが歩く歩幅分、僕の世界がゆっくりと広がっていく。
特別な何かがある訳では無い。
だが、昨日は咲いていなかった花が開いたと気付けば、マリエーヌが笑顔で教えてくれる。
そんなマリエーヌの姿はどんな花よりも美しく綺麗に思えた。
その時、ポツリポツリと小さな雨が降り始め、マリエーヌは僕を連れて小屋の屋根下へと駆け込んだ。
マリエーヌは空を見上げ、
「公爵様、通り雨です。すぐにやみますよ」
と、落ち着いた様子で僕に話しかけた。
その言葉通り、すぐに雨はやみ、雲の隙間から日が照り出した。
すると、弾む様な声が耳に響いた。
「公爵様、見て下さい! 虹が出てますよ!」
マリエーヌが指さす方向へ視線を移すと、雲が晴れた青空に美しいアーチを描いた虹がかかっている。
虹か……。
今まで興味が無かったから気にした事も無かったな。
すると、僕の顔のすぐ横にマリエーヌの顔が接近してきた。
どうやら僕の顔の位置から虹が見えるかを確認している様だ。
別に彼女の顔が近くに来るのは珍しい事ではないのだが、何故か妙に落ち着かない。
心なしか心拍数が上がり、顔が熱くなってきた気がする。
「綺麗ですね」
彼女の透き通る様な声がいつもよりも近い。
落ち着かない気持ちを振り払う為にも、僕は目の前の景色に集中した。
虹も綺麗だが、雨に濡れた中庭が太陽の光を反射してキラキラと輝きを放っていた。
ああ、本当に綺麗だな。
いつからだろうか。
朝、目覚めた時に天気を気にするようになったのは。
空が晴れているとそれだけで嬉しい。
マリエーヌと中庭を散歩出来るからだ。
着る服なんて気にした事も無かった。
だが、今は少しでも良い恰好をしてマリエーヌの前に居たいと思う。
興味なんて無かった花々の名前も沢山覚えた。
何処にでも咲いている花さえも、ひときわ美しく見えるのはきっとマリエーヌが隣に居てくれるからなのだろう。
いつからか、僕の世界の中心にはマリエーヌが存在するようになった。
マリエーヌと共に過ごすこの世界は、なんと美しく素晴らしい所なのだろうか――。
「あ、公爵様。ちょっとだけ待ってて頂けますか? タオルを持って来ますので」
中庭の散歩を終えて屋敷の中へと戻ったマリエーヌは、自分の部屋の前に僕の車椅子を止めた。
扉を開け、部屋の中へ入る彼女の後ろ姿を目で追った。
開いた扉の先に見えた彼女の部屋は――何もなかった。
いや、確かに物はある。ベッド、備え付けの棚、机、無地のカーテン。それらは全て、彼女がこの屋敷へ来る時に必要最低限の物としてこちらで用意していた物だ。
それだけだった。
女性の部屋と言うにはあまりにも質素な部屋だ。
どういう事だ?
部屋に何も置きたくないタイプなのか?
だが、彼女は僕の部屋に花瓶を飾り、毎日花を摘んで来る様な人だ。
中庭を散歩している時に目を輝かせて楽しそうにする彼女は、きっと花が好きなのだろう。
それなのに、自分の部屋には花瓶の一つも置いていない。
使用人達の報告では、それなりに私物を購入していた筈。
だが、思えばドレスや宝石なども身に着けている所を見た事は無い。
考えられる事といえば……使用人達が嘘を吐いていたという事だ。
僕の元に届けられた膨大な額の請求書も全て使用人達が横領していたのだとしたら……。
屋敷の外の事ばかりに目を光らせておきながら、自分の身内の人間に関してはあまりにも無関心だった。
その事を今更悔いても仕方が無い。
だが――。
そんな事よりも、彼女の部屋の事の方が重要だ。
さすがに寂しすぎる。もう少し何かあっても……と考えた所でハッとした。
僕は彼女に何一つ、物を贈った事が無い。
自分の妻でもある彼女に、花束もドレスも装飾品も……何も贈らなかった。
彼女は僕に毎日花を届けてくれているというのに。
僕は何も……。
それもその筈だ。
僕は彼女の名前すらも、呼んであげた事が無いのだから――。




