39.優しい理由
食事を終えると、マリエーヌは僕が座っている車椅子を窓際のバルコニー前まで移動させた。
マリエーヌがバルコニーへと繋がる扉を開けると、カーテンが大きくたなびき外の風が部屋の中へと入り込んできた。
風が強いと思ったのは一瞬だけで、すぐに柔らかく暖かい風が僕の全身を撫でる様にそよぎ始めた。
気持ちがいい……。
目を閉じてその風を全身に受けていると、体に纏わりついていた悪質な何かが剥がれ落ちていく様な感覚になった。
体は今朝拭かれたばかりだから爽快感がまだ続いている。
今日着替えたばかりの洋服も、食後なのにも関わらずシミ一つ付いていない。
何よりも食事が美味しかった。食欲が満たされた満足感で気分がいい。
「公爵様の体力が戻ったら、中庭を一緒に散歩しましょう」
風に乗ってマリエーヌの穏やかな声が聞こえて来た。
目を開けると、日の陽射しを背に受けたマリエーヌが長い髪を靡かせながら僕に向かって微笑んでいる。
その柔らかな笑みを見ていると、不思議な感覚になる。
胸の奥がぼんやりと温かくなるような……心地良い安心感というか……。
今までは人が近くにいて心が休まる事など無かった。
だが今は、眠気すら感じてしまう程気持ちが落ち着いている。
眠気に誘われる様にゆっくりと瞼が閉じていく。
――いや待て。
突然、僕の心の奥底で眠っていた警戒心が目覚めた。
彼女が僕に優しくする理由は何だ?
僕に優しくしても何の見返りも無い。意味が無い事だと分かっていてやっているのか?
それとも、未だに僕の体が回復するとでも思っているのか?
だとしたら、僕の体が回復する見込みが無いと知れば、他の使用人達と同じ様に僕の事を蔑むようになるかもしれない。
そうでないのなら、僕の所持する多額の財産が狙いか?
僕が死んだ時、献身的に世話をしていた事をアピールして少しでも多く遺産を貰おうとしているのかもしれない。
これまで彼女が使ってきたお金の請求額を思い起こせば大いに納得出来る。
僕がこんな姿になり、自由にお金が使えなくなって焦っているのかもしれないな。
そうだ。
そう考えた方がよっぽど説得力がある。
何の下心も無く、こんな状態の僕に優しくする奴などいない。
つい彼女の笑顔に気を絆されそうになってしまったが、やはり彼女は信用するに足りぬ人物だ。
分かっていた事じゃないか。誰も信用してはいけないと。
今も昔も変わらない。僕の周りはいつも敵だらけだ。
だから彼女の優しさを馬鹿正直に受け入れてはいけない。
目を開け、疑念の眼差しをマリエーヌに向けると、彼女は扉の外の景色を眺めていた。
亜麻色の長い髪が風を受けてサラサラと流れる様に揺れ、髪の隙間から太陽の光がキラキラと輝きを放ち、彼女が煌めいている様に見える。
その優雅な立ち姿に僕は一瞬で目を奪われてしまった。
まるで女神の様だな……。
そんな知能の低い感想まで出てきた僕の精神状態は、やはりまだ不安定なのだろう。
僕の視線に気付いた彼女が僕の方を向いて目を細め、
「風が気持ちいいですね」
澄み切った瞳でそう言ってきたので、なんとなく後ろめたい気分になった。
本当に……なんの企みも無く、僕に優しくしてくれているとでも言うのか……?
信じたくない気持ちと信じたい気持ちが交互に押し寄せてくる。
もしも本当に、何の見返りも求めず僕に優しくしてくれているのだとしたら、それは何故だ?
それを問おうにも、今の僕にはやはりどうする事も出来ない。
分からない。
彼女が一体何を考えているのか。
どうして僕に優しくしてくれるのか。
理解できる筈が無い。
僕は人に優しくした事なんて無いのだから。
そうだ。僕は君にだって一度たりとも優しくした事が無い。
それなのに……どうして君はそんな風に、僕に優しく笑いかけてくれるのだろう――。
マリエーヌはその日、一日中僕の身の回りの世話に尽力した。
昼食も、夕食も、彼女が作ったと思われる食事を彼女と共に食べるのは美味しかった。
いつの間にか日が暮れ、僕を寝間着に着替えさせたマリエーヌは、
「公爵様、今日も一日お疲れさまでした。また明日もよろしくお願い致します。おやすみなさい」
そう言って僕に一礼すると、部屋の灯りを消して部屋から出て行った。
扉がガチャリと閉まる音がして、部屋の中がシン……と静まり返った。
また明日……明日も来てくれるのか?
それは僅かに感じた期待だった。
まだ彼女の事を信用すると決めた訳ではない。
だが、彼女の腕は完璧だった。
例え何らかの目論みがあったとしても、今の僕にはどうする事も出来ない。
それなら、少しくらい仮初の優しさに浸るのも良いかもしれない。
それにしても……今日はやけに眠たいな。
自然と瞼が閉じていく。
心地の良い眠気に誘われるように、僕はいつぶりかも分からない深い眠りについた。
次の日、その次の日もマリエーヌは僕の部屋へとやって来た。
何日経っても、マリエーヌの僕への接し方は変わる事なく、どんな時も優しく温かかった。
今の僕にどれだけ媚びを売っても、何の効力もないのはもう彼女も分かっているはずだ。
だけど彼女は毎日、真面目に僕の所へやってきた。僕の世話に手を抜く事もなかった。
頼まれてもいないはずなのに、動かない僕の体のマッサージを毎日してくれるし、桶にお湯を入れて足湯までしてくれる。
何の反応もない僕に、沢山話しかけてくれた。
彼女の口から紡がれる何気ない言葉の数々が、今の僕の楽しみとなった。
夜中も2回程、静かにやってきて新たな床ずれが出来ない様にと、僕の体勢を変える事も忘れない。
マリエーヌと過ごす時間は、僕の心に安らぎをもたらした。
そんな時だった。
彼女が体調を崩して、三日ほど姿を現さなかった。
その間、不服そうな顔をした使用人達が僕の世話にあたった。
食事量が増え、体重が増加した僕に対して「重くなったから抱えるのが大変だ」と不満を漏らし、食事も相変わらず不味かった。
だが、僕は自分の事よりもマリエーヌの体調が心配で仕方なかった。
ちゃんと医者に診てもらったのか。食事はしっかり摂れているのか。彼女を献身的に世話をしてくれる人物がいるのか。一人で苦しんでいるんじゃないのかと気が気でなかった。
体が動けばすぐにでも駆け付けていた。
彼女のいない毎日が不安で仕方が無かった。
もしかしたらもう会う事も出来ないのかもしれないと――そう思うと苦しかった。
誰かの身を案じたのは初めての事だった。
三日後、体調が回復したマリエーヌと再会し、「ご心配をお掛けしました」と頭を下げる彼女の姿を見た時、何とも説明のし難い感情が込み上げた。
彼女の元気そうな姿を見れた安心感。期待。高揚感。その感情をどう自分の中に落とし込めば良いのか分からないまま、申し訳なさそうに笑う彼女の姿から目が離せなかった。
その日以来、僕はマリエーヌの優しさを素直に受け入れ、感謝するようになった。
彼女が何故見返りも求めず優しくしてくれるのか――それは相変わらず分からない。
だが、彼女の手は温かい。
彼女の作るご飯は美味しい。
彼女が傍に居てくれるだけで、心が安らぐ。
もうそれだけで十分だった。
僕の冷たく真っ暗な世界は、彼女が現れた事によって明るく灯り始めた。
本当にマリエーヌは、僕の救いの女神だったんだ――。




