38.誰かと共にする食事
僕の体を拭き終え、使用した道具を持って部屋を出たマリエーヌは、今度は食事が乗ったテーブルワゴンを押して戻って来た。
ベッドの近くまでそれを持って来ると、今度は僕の元へとやって来て、
「公爵様、朝食をお持ちしました。ゆっくり起き上がりましょう」
そう言って、マリエーヌは僕の体を慎重に起こして座らせると、僕の様子を気遣いながら丁寧に車椅子へと移乗させた。
……上手いな。
マリエーヌのあまりにも軽やかな動きには率直に感心した。
さっき体を拭いてくれた時といい、彼女の手際の良さには目を見張るものがある。
とても素人とは思えない。僕以外にも誰かの世話をした経験があるのだろうか。
そんな事を考えているうちに、僕の目の前にはテーブルワゴンが設置された。
目の前にはペースト状の物が盛り付けられたお皿が並んでいる。
食事の時間が始まる。
せっかく温もった体温が、一気に引いていく。
僕にとって、唯一の命綱でもある食事の時間は苦痛以外のなにものでもない。
その一番の要因は料理が美味しくない事だ。
食べ物を咀嚼する事が出来ない僕の料理は、全てすり潰されてペースト状にされている。
ペースト状にされた料理は、見た目だけでは何の食べ物なのか分からない。
僕に料理を食べさせる使用人も、何を食べさせているのか分かっていないのだろう。
サラダと思われる物にはドレッシングが掛かっておらず青臭いだけ。
肉料理と思われる物は、水分を加えているせいなのか味がほとんどしない。
味見されていないのがよく分かる。
使用人の中には手っ取り早いからと、他の料理と混ぜて食べさせる奴もいた。
デザートも副菜も関係無く混ざり合った料理は人の食べ物と思えない程不味かった。
僕が食事を拒むと、無理やり口の中に押し込み吐き出さない様にと僕の口を塞ぐ奴もいた。
それでも足りない栄養分は、僕の意思とは関係なく腕に針を刺されて入れられる。
何度も針を刺された僕の両腕は無数の針の後が残り、真っ青になっている。
こんな状態になってまで生かされている僕は、一体何なのだろう。
「……さま……公爵様」
耳元で僕を呼ぶ声が聞こえて我に返ると、マリエーヌが心配そうにこちらを見ていた。
僕と目が合うと、マリエーヌはホッとした様に表情が和らいだ。
「良かった。意識が無いのかと思って心配しました」
いつの間にか、僕は自分の意識の中に入りすぎてしまったみたいだ。
再びテーブルワゴンの上に視線を移すが、その視界に入ってきたある物に首を傾げたくなった。
これは一体……どういう事だ?
僕が食べる物が乗っているテーブルワゴンの隣に、もう一つ小さい机が置かれている。
机の上にも料理が乗っているのだが、そちらはペースト状にはされていない普通の料理だ。
懐かしくさえ思える形の整った料理に見入っていると、マリエーヌが僕の顔色を伺う様に覗き込んできた。
「公爵様、勝手な事をして申し訳ありません。私も一緒に食事をさせて頂いてもよろしいですか?」
一緒に食事だと?
……僕と? 何故?
言っている意味がよく分からず、瞬きする事も忘れてマリエーヌを見つめた。
マリエーヌは少し緊張する様にグッと口を噤み、僕の返事を待っている様にも見える。
僕は今まで、誰かと食事をする事なんて考えた事は無かった。
仕事の都合上、会食をする事は何度かあったが、この公爵邸で誰かと食事を共にした記憶は無い。
食堂も殆ど使わず、執務室に料理を持って来させて適度に摘む程度に済ませていた。
以前の僕なら、そんな提案をされたら即刻断っている筈だ。「そんな意味の無い事を何故する必要がある?」とでも言っていただろう。
だが……何故か今は、不思議と悪い気分はしない。
それ以上に興味が湧いた。
体が動かなくなってからの一ヶ月間、僕は何も出来る事が無く、何を考えて過ごせば良いのかも分からなかった。
頭の中は虚空となり、体はただ息を吸ったり吐いたりを続ける人形の様に成り果てた。
食事時間に有無を言わさず起こされ、食事が終わったら再び寝かされる。
毎日同じ事が繰り返されるだけの終わりが見えない日々。
だからだろうか。
ほんの些細な事でもいいから、何か変化がほしいと思ってしまうのは。
だが聞かれたはいいが、どうやってマリエーヌに自分の意志を伝えれば良いのだろうか?
頷く事も返事をする事も出来無い僕は、ただジッとマリエーヌの顔を見つめ続けた。
すると、彼女の硬かった表情が解れて柔らかい笑みへと変わった。
「では、私も一緒に食べさせて頂きますね」
ただ見つめていただけなのだが……伝わったのだろうか?
それを確認する術は無いが、とりあえず彼女と一緒に食事をする事になった。
たったそれだけの事なのに、とても特別な事の様にも思えて、食事前の憂鬱な気分はいつの間にか消えていた。
マリエーヌは僕の隣に椅子を持って来て座ると、両手の平を合わせて「いただきます」と食事に向けて一礼した。
マリエーヌの透き通る様な白い手が僕の目の前を過り、淡い黄土色をしたペースト状の食べ物が入った皿を手に取り、もう片方の手はスプーンを掴んだ。
「公爵様。野菜スープです」
そう囁くと、流れる様な動作でそれをスプーンの溝に掬い上げ、僕の口元まで運んだ。
その時、料理の熱がふわっと漂ってきた。
温かい料理というのもいつぶりだろうか。
その温もりと一緒に食欲を刺激する香りが漂ってきて、ゴクリと喉が鳴った。
誘われる様に口を開けると、スプーンが口の中へと侵入し、野菜スープがとろりと舌に絡んだ。
……!?
これは……美味い……!
口の中に広がる野菜の旨味、丁度良い塩味、温かさ。
形はいつもと変わらないが、久しぶりに食べ物を口にした様な気がした。
いつもよりも早くそれを飲み干し、もう一度口を開ければマリエーヌは慌てた様にもう一度野菜スープを掬って僕の口の中へと含ませた。
気付くとあっという間に野菜スープを完食していた。
手にしていたお皿をテーブルの上に戻したマリエーヌは、自分の野菜スープを手に取り一口飲むと、
「うん。美味しい。久しぶりに自分で料理をしてみたのですが、美味しく出来て安心しました」
そう言いながら、僕に向かって嬉しそうに微笑んだ。
彼女が作った……?
専属のシェフが作る料理すら美味いと思わなかったのに、マリエーヌが作った野菜スープは今まで食べたどの料理よりも美味しく温かかった。
「では公爵様、次はこのスクランブルエッグを食べてみませんか? 牛乳をたっぷりいれたので、殆どそのままで食べられると思います。」
スプーンの上には彼女のお皿に乗っている物と殆ど変わらない、トロトロのスクランブルエッグにケチャップが少しついている。
その時、僕の料理は彼女が食べる料理と同じ物なのだという事に気付いた。
形は違うが、食膳に配置された並びも僕と一緒の様だ。
これなら、僕が食べる料理がどんな物だったのかが分かって安心出来る。
これも彼女なりの僕への配慮なのだろうか。
口に含んだスクランブルエッグは口の中で溶け、少し甘めだが酸味のあるトマトケチャップが良く合って美味しかった。
僕が数口食べると、マリエーヌも自分のスクランブルエッグを口にして美味しそうに目尻を下げた。
その姿を見た瞬間、僕の心臓が大きく高鳴った気がした。
それが何故なのかはよく分からない。
だが、そんな彼女の表情を見た後に再び口にしたスクランブルエッグは、最初よりも数段美味しく思えた。
誰かと共にする食事は、こんなにも美味しく思えるという事を僕は知った――。




