37.温かい手
次の日の朝。
コンコンッと扉をノックする音が部屋の中に響いた。
この部屋を誰かがノックするのはいつぶりだろうか。
暫くして、控えめな女性の声が聞こえてきた。
「公爵様、失礼致します」
部屋の扉が静かに開く音がした。
ベッドに寝たままの僕が視線をそちらに向けると、腰まで伸びた亜麻色の髪をなびかせた女性が、少し緊張する様な面持ちで部屋の中に入って来た。
彼女と共に部屋に入り込んできた風が僕の頬を撫で、漂ってきた柑橘系の甘い香りが、虚ろだった僕の意識を少しだけ覚醒させた。
背を伸ばし、上品な足取りでベッドの前まで来た彼女はその場にしゃがみ込み、若葉の様な新緑色の瞳を僕に向けた。
「公爵様、お久しぶりです。マリエーヌでございます」
穏やかな笑みを浮かべた彼女はそう告げると、ジッと僕の顔を見つめた。
マリエーヌ……?
そうだ。確かそんな名前だった。
彼女は僕の結婚相手で、僕の妻だ。
初めてまともに見た彼女の姿は、自分が思っていたよりも綺麗で上品な令嬢だった。
「今日から公爵様のお世話をさせて頂く事になりました。どうぞよろしくお願い致します。もうすぐ食事を……いえ、その前に体を拭いた方が良さそうですね。準備をしてくるので、少しだけお待ち下さい」
そう言うと、マリエーヌは僕に一礼して部屋から出ていった。
体を拭くだと?
汚い僕の体には触れるのも嫌という事か。
だが、使用人が二人がかりでやっている事を、たった一人でやるつもりなのか?
僕の体はもうずっと前から悪臭が酷い。
ここ数日、まともに体を拭かれていないせいもあるが、体のあちこちに出来た床ずれが悪臭を放っている。
着ている服には傷口から染み出た血や膿でシミができ、その服も何日前に着替えた物かも覚えていない。
使用人達も僕の体に触れる事を嫌い、僕の世話をしたふりをしてサボる奴もいる。
だが僕も奴らに好き勝手に体を触られるくらいなら、その方がマシだった。
マリエーヌはなかなか姿を見せず、逃げたかと思い始めた頃にようやく戻って来た。
「公爵様、おまたせしました」
ハァハァと肩で息をしながら、長い髪を後ろで一括りに纏めた彼女は、大量のタオルと水の入った桶、湯気の出るやかん等を乗せたワゴンを引いてやって来た。
服の袖を捲った彼女は、水が入った桶にやかんのお湯を入れて、自分の手で温度を確認する様に慎重に足している。
「よし……」
そう小さく呟き、やかんを置くと今度はタオルを一枚取って桶の中に沈めた。
浸したタオルをギュッと両手で絞り、それを広げて丁寧に畳むと僕の方へと向き直った。
「公爵様、お顔を拭かせて頂きますね」
僕に笑顔を向け、そう声をかけるとマリエーヌは僕の頬にタオルを当てた。
温かい……。
頬に当てられたタオルの感触は柔らかく、なんとも心地良い温もりだった。
たったそれだけの事なのに、頬から伝わる熱が体全体に行き渡り血の巡りが良くなった様な気がする。
まつ毛にこびりついていた目ヤニも綺麗に拭き取られ、視界がハッキリした僕の瞳に、真剣な表情で手を動かす彼女の姿が鮮明に映し出された。
一瞬だけ目が合った様な気がしたが、なんとなく気まずくてすぐに目を逸らしてしまった。
顔がやたらと熱くなったのは、きっと温かいタオルで拭かれているからだろう。
マリエーヌは僕の顔を拭き終えると、一度桶の湯を交換して、今度は僕の体を拭き始めた。
予想に反して、マリエーヌの手際は随分と良く、慣れた手つきで丁寧に僕の体を隅々まで拭いていった。
桶のお湯を綺麗な物と交換しながら、その間も僕の体が冷えてしまわない様にと厚手のタオルを被せて僕の体を保温する事に気を遣った。
体のあちこちに出来ている床ずれは慎重に洗い流し、適切な処置を施した。
彼女が使うタオルの温かさには感動したが、それ以上に彼女の手が一番温かかった。
使用人達が僕の体を拭く時は、水に少しだけ湯を足した程度のぬるま湯を使っていた。
拭いた先から体が冷え始め、彼らが無造作に僕の体を掴む手も、とても冷たく感じた。
だから僕は体を拭かれるのは好きではなかった。
だが……。
マリエーヌに体を拭かれるのは悪くなかった。
いつの間にか彼女に身を委ねている自分がいた。
冷え切っていた僕の心まで温められた様な気がして、じわりと涙が浮かんだ。
僕は知らなかった。
人の手がこんなにも温かいという事を。
いや、誰もがそうなのではない。
彼女の手は、なんでこんなに温かいのだろうか――。




