36.僕の妻?
体が動かなくなってから一ヶ月と十日程が経過した。
僕の部屋を掃除する侍女達は、僕がベッドに寝ているのにも関わらず、声の大きさを気にする事なく手を休めては会話を楽しんでいる。
「ねえ、もうあの人臭くて近付きたくないわ」
「ほんとよね。最近体拭いたの誰? ちゃんと綺麗にしたのかしら?」
「ちょっと、それよりなんで私達があの人の身の回りの世話なんてしないといけないの? こんなの契約違反だわ。それにレイモンド伯爵が新しい公爵になったら、どうせ私達なんてお払い箱でしょ? 今更真面目に仕事する気にもなれないわよ。ねえ、あの人の事は明日から奥様に世話をさせましょうよ」
「あら、それいいわね。どうせ何の役にも立ってないんだから、それくらいしてもらわないと困るわよね」
品の無い笑い声をまき散らしながら、侍女達は僕の部屋から去って行った。
扉が閉まる音がして、ようやく部屋の中が静かになる。
僕の存在を無視して平気で僕の悪態をつく声は聞いていて非常に不快だ。
いっその事、この耳も聞こえなくなれば良かった。
そうなれば聞きたくも無い雑音を聞かずに済んだはずだ。
見たくもないものが見えてしまうこの目も、無駄な事ばかり考えてしまうこの頭も……どうせなら全ての機能が停止してしまえば良かった。
だが、さっきの会話の中で気になる言葉があった。
奥様……と言っていたな。
彼女達の口から出てきた『奥様』が、誰の事を言っているのかピンとこなかったが、ようやく思い出した。
僕が結婚していたという事を。
興味が無い妻の名前は忘れてしまったし、顔もよく思い出せない。
政略結婚。世継ぎを産む為だけの女。
子供さえ産めるのであれば、別に相手は誰でも良かった。
名も売れていない男爵が借金返済の為、娘の結婚相手を探しているという話を聞き、借金を肩代わりする事を条件に結婚話を持ち掛ければ、父親は喜んで娘を差し出した。
毎月の補助金を支給する事で実家と金の繋がりを持てば、たとえ結婚生活が嫌になったとしても逃げ出す事は無いだろうと目論んだ。
結婚してからも、屋敷に住む人間が一人増えたというだけで、特に存在を意識した事は無かった。
会話をする必要も無い。
何かを贈って機嫌を取る必要も無い。
そんな事をして調子に乗られて付き纏われても邪魔なだけだった。
月に一度、彼女の体が妊娠しやすいと言われるタイミングに合わせて、強めの酒を嗜んで夜伽を迎える。
それだけの女だった。
使用人からは、商人を屋敷に呼び寄せドレスや宝石などを買い込んでいるという報告を受けていたが、そんな事も別にどうでも良かった。
お金くらい好きに使ってもらって構わない。ただ自分の役割を成し遂げてくれさえすればいいと。
だが今はその役割も意味をなさない。
彼女も僕と同じで、何の役にも立たない人間になったという訳か……。
しかし、そんな奴が僕の身の回りの世話をまともに出来るとは思えない。
手厚い待遇を受けていた使用人でさえこの有様だ。
僕が無視し続けてきた女は、きっとこんな僕の姿を見ていい気味だと嘲笑うのだろう。
無抵抗な僕に対して、どんな嫌がらせをして鬱憤を晴らそうとするのだろうか。
明日からの事を考えると、新たな不安と恐怖で目の前が真っ暗になる。
いつから僕はこんな臆病な人間に成り果ててしまったのだろうか。
敵に囲まれた不利な戦場でも、弱音を吐く事など無かった。
それなのに、今は先の見えないこの日常から逃げ出したくて堪らない。
一体いつまでこんな時間が続くのだろうか……。
食事も満足に取る事が出来ず、常に空腹な状態が続いている。
僕の体はすっかり瘦せ細り、手足も二回りほど痩せこけてしまった。
殆どの時間をベッドの上で過ごしているのにも関わらず、目を閉じても眠る事が出来ない。
ようやく眠気が訪れてきたかと思えば、食事の時間となり無理やり起こされる。
まるで拷問だな。
食事を与えず眠らせず、精神的に追い詰めて敵の内部事情を吐かせる。そんな手法の拷問を行った事がある。
最初は口を割らなかった兵士も日を追うごとに段々と目が虚ろ気になり、呂律が回らなくなり思考が鈍くなる。
廃人の様に成り果て、ようやく口を割るか、それともそのまま死に絶えるかの二択だった。
だが今の僕にはその選択肢すら与えられていない。
いっそのこと死んでしまいたいのに――死ぬことも出来ない。
レイモンドが公爵となるための準備を整えるまで、僕は生かされ続けるしかない。
逃れられない苦痛を与えられるだけの日々が何処までも続いている。
生きているのに、毎日が地獄にいる様だ――。
次回、やっっとヒロインの登場となります……!




