34.僕の存在意義
レイモンドと話を終えた医師は早々に診察器具を鞄に納め、それを手にして立ち上がった。
「力になれず、申し訳ございません」
「いや……帝国一の名医とも言われるあなたが無理だと言うのなら、誰に頼んでも同じ事でしょう。色々と感謝致します。あと、この事はくれぐれも外部には……」
「はい。重々承知しておりますので。それでは、失礼致します」
会話を終えた医師は僕に背を向けたまま、レイモンドに丁寧に別れの言葉を告げて去って行った。
あいつ……僕を無視するのか……?
その無責任な背中を、僕は屈辱的な気持ちでベッドの上から見つめていた。
沸々と沸き上がる怒りで目の前が真っ赤に染まる。
くそ! あのヤブ医者め! たったあれだけの診察で終わりだと!?
金はいくらでもあるんだ……帝国中の医師をかき集めてでもなんとかするべきだろうが!
いつもの僕なら、どんな事態でも冷静な頭で対処している。
だが、今は体が不自由になってしまった事への焦りと不安でとても冷静ではいられない。
それなのに、頭の中がいくら滾ろうとも、体は依然として沈黙を貫いている。
「まさか兄さんまで馬車の事故でこんな事になるとは……兄さんの時代も終わりか」
レイモンドは父親譲りの真っ赤な瞳を僕に向け、諦める様に小さく溜息を吐いた。
その時、コンコンッと扉をノックする音が響いた。
「失礼致します。レイモンド様。公爵様の容態は?」
レイモンドの傍に駆け寄ったのはスーツ姿の見慣れない男。
恐らく、レイモンドが自分の屋敷から連れてきた人間だろう。
「芳しくないな。どうやらもう自分では起き上がる事も、声を出す事も出来ないらしい。意思疎通も取れないから、兄さんの意識がどこまでハッキリしているのかも分からない。この状態ではさすがに公爵としての責務を果たすことは出来無いな」
「! でしたら、レイモンド様が新たな公爵として爵位を継ぐべきです!きっとこちらの領民達も喜ばれます!」
「口を慎め。まだこの事は他言無用だ。どちらにせよ、まずは体制をしっかり整えておかないと出鼻をくじかれるだけだ。この屋敷の使用人達にもしっかり口止めしておくように……と言っても、情報が漏れるのは時間の問題だろうがな」
レイモンドは僕を気に掛ける事無く、男と会話をしながら部屋の外へと出て行った。
一人部屋に残された僕は、呆然としたまま天井を見つめていた。
終わり……か……。
レイモンドの言葉が耳に残った。
体を動かす事が出来ない。
会話をする事も、自分の意思を伝える事も出来ない。
ペンを手に仕事をする事も出来ない。
自分を害する者から自分の身を守る事も出来ない。
出来ない事だらけじゃないか。
僕が必死に守ってきたこの地位も、築き上げた膨大な財産も、死に物狂いで鍛え上げたこの体も全て――今の僕には何の価値も無い。
爵位が剥奪されるのも時間の問題か……。
公爵として生きる事は、僕の唯一の存在意義だった。
公爵家の長男として産まれた僕は、幼い頃から次期公爵としての英才教育が始まった。
甘えになるからと母親からは引き離され、父親の元で厳しい教育を受けた。
「公爵になる者は誰よりも完璧な人間でなければいけない」
「いつ誰が裏切るかも分からない。誰も信用するな」
「信じるのは自分のみ。自分の身は自分で守れ」
父親から言われ続けた言葉を実行するため、僕は寝る間も惜しんで勉学に励み、専門書の端から端まで頭の中に叩き込んだ。
あらゆる毒にも耐えうる体を作る為、幼い頃から毒を飲み続け、死と隣合わせの環境の中で苦しみながら毒の耐性をつけた。
自分の身を守る為に剣術を仕込まれた僕は、激戦が繰り広げられる戦地へと駆り出された。
「戦場で命を落とす奴がこの先も生き残れる筈が無い。殺られる前に殺れ」
父親の言葉通り、僕に刃を向けた多くの人間の命を斬り捨ててきた。それは戦場だけに限らなかった。
両親が事故で亡くなり、予想よりも早く爵位を引き継ぐ事になった僕は、父親の教え通りの公爵として責務を果たしてきた。
だがそれももう、今の僕には不可能だ。
新しい公爵になるのは恐らく、唯一の肉親であるレイモンドだろう。
僕より二歳下のレイモンドは伯爵の爵位を持ち、伯爵領地の領民からの支持も高い。
確かな腕も人望もあるレイモンドなら、公爵領の領民達も歓迎する事だろう。
お前はまた、僕から何もかも奪っていくんだな。
脳裏に浮かぶのは、弟を可愛がる両親の姿だった。
僕には甘えの一つも許さなかった父親も、弟の前では父親としての優しい顔を見せていた。
だがいいだろう。
僕にはもう必要が無い。
親からの愛とやらも。爵位も。領民も。財産も何もかも全て。
レイモンド、お前にくれてやる。
僕はもうこの世に興味は無い。
何もかもどうでもいい。
静かに死ぬ時を待つ。
それだけだ。
――だが、それすらも僕には許されなかった。
体が不自由になった事よりも、僕を一番苦しめたのは、僕の周りに居る人間達だった――。




