30.君の優しさは僕が一番よく知っている
私が黙り込んでいると、今度は公爵様が私の手を包み込む様に握ってきた。
「マリエーヌ。君の優しさは僕が一番よく知っている。君が分からないと言うのなら、僕が教えてあげよう」
公爵様は柔らかい微笑みを浮かべて私を見据える。
公爵様が握ってくれる手の平から……公爵様の瞳から温もりが伝わり、心がフワフワする様な心地良い感覚に包まれる。
視界もはっきりとしない静寂な空間の中で、公爵様の優しい声が耳に響いた。
「マリエーヌ。君は今まで、君の事を無視し続けていた僕を一度も責める様な事は言わなかった。そんな僕が一方的に贈り続ける花束を、いつも笑顔で受け取ってくれた。君の好みも分からないまま贈り続ける贈り物にも、嫌な顔一つせず受け取り大切にしてくれた。僕がどんな話をしても、楽しそうに耳を傾けてくれた。僕が君の手を握ると、一度も振りほどく事無く握り返してくれた。食事に手を付けようとしない僕に、一緒に食べようと言ってくれた。僕が君に何かする度に、いつも「ありがとう」と返してくれた。マリエーヌ。君は本当に優しい人だ」
そう語る公爵様は、とても嬉しそうにしているけれど、その内容は少々首を傾げてしまう。
確かに、今公爵様が言ってくれた事は今まで交わした私と公爵様のやりとりに違いないのだけど、そこに何か特別な要素は一つも含まれていない。
そんな些細な事が、公爵様にとっては特別な事だったと言うの……?
「でも……それって普通の事ですよね? 私が特別何かした訳ではないと思います」
すると公爵様は吹き出す様に笑った。
「その普通の事が出来ていなかった人間を、君は知っているだろ?」
「あ……」
その人物はもちろん……以前の公爵様だ。
これ以上何か言えば、以前の公爵様をひたすら非難する様な言葉になりそうなので、私は口を噤んだ。
「それに僕だけじゃない。君の優しさを知っている人は他にもいる。君の周りには既に沢山の人達がいるじゃないか」
それはきっと、リディアやジェイクさんをはじめとする、この屋敷で働いている人達の事を言っているのだと思う。
「それは、公爵様が集めて下さった方々で……私は特に何も……」
「確かに人を集めたのは僕だ。だが皆が君に惹かれている。君の優しさに触れて、同じ様に君に優しくしたいと思っているんだ」
本当に……?
そんな自分の都合の良いように考えてもいいの?
確かに今の私にとって、ここで一緒に過ごしている人達は皆、かけがえのない大切な存在。
血のつながりは無くても、同じ屋敷で暮らしている家族のようにも思っているし、皆もそんな風に思ってくれたら嬉しいとさえ思う。
だけど、私はまだ自分が誰かに愛される価値のある人間だと思う事が出来ない。
今まで公爵様が私を愛してくれたのは、私が公爵様の妻という存在だからだと思っていた。
妻だから大事にして愛してくれる。そういう人格になったのだと。
だけどそうじゃないのなら……私の価値ってなんだろう。
公爵様の夢の中の私がどうだったのかは分からないけれど、公爵様は私の事を何か誤解しているのかもしれない。
本当の私はこんなに弱くて何も出来ない……卑屈でどうしようもない人間なのに。
「私は……そんな価値のある人間ではありません。今も……自分に自信が持てず……優柔不断で……公爵夫人として、堂々と公爵様の隣に立つ事すら出来ないですし……」
これ以上、自分を卑下する様な事は言いたくない。
それなのに言葉は口をついて出てきてしまう。
長い年月かけて蓄積された劣等感は、底なし沼の様に私を絡め取り抜け出す事を許してはくれない。
「そんな事は無い。君はとても魅力的だし、誰よりも強い人だ」
私の事を励まそうとする公爵様の言葉が、何故か今はもどかしくて苛立ってしまう。
「私は……! 強くなんてありません! あの時も結局……スザンナを前に私は何も言えなくて……!」
こんな言い方、ただの八つ当たりでしかない。
あの日、スザンナを前にして結局何も言えなくなってしまった自分が悔しかった。
昔から何も変わっていない、弱いままの自分に腹が立った。
公爵様に守られるだけの、無力な自分が酷く情けなかった。
あの時の惨めな気持ちを思い出し、込み上げてくる涙に気付かれたくなくて公爵様から顔を伏せた。
再び、公爵様の穏やかな声が私の耳に届いた。
「それでも、君はこの屋敷の皆を守ろうとしていたじゃないか。本当はあの時、すぐにでも君の元に駆け付けたかったんだが、リディアから少しだけ様子を見てあげてほしいと頼まれていたんだ。だから君の様子を暫く見させてもらっていた。悔しいが、リディアの方が君の事をよく分かっている様だ。それにあの件は僕の方に責任があった。本当に、君には迷惑をかけてばかりだな」
やっぱり……公爵様は私とスザンナのやり取りを見ていたのね。
だからあの時、責任を感じて私に謝っていたんだわ。
昔の公爵様の話を出されて、私が落ち込んでいる姿を見たから。
「マリエーヌ。君が本当の強さを発揮する時は、誰かの為に行動する時だ。あの時、公爵夫人としての立場を守り、屋敷の皆を守ろうとする君の姿はとても素敵だった。いつもの優しくお淑やかな君も好きだが、やはり僕は君が誰かを守ろうとする姿に一番強く心を打たれるんだ」
「でも……私は……」
なんで私は、こんなに言ってくれている公爵様の言葉を、素直に受け止める事が出来ないのだろう。
「私は……!」
いつまで経っても自分に自信が持てない……こんな自分が大嫌い。
言葉は詰まり、堰き止めていた涙が零れ落ち、膝の上で握りしめる私の手の甲をポトリポトリと濡らした。
こんなつまらない事でいつまでもウジウジして涙まで流して……きっと公爵様だってこんな私の姿を見て呆れてるに違いない。
その事を確認するのが怖くて、私は暫く俯いたまま、顔を上げる事が出来ずに零れ落ちる涙を見つめていた。
静まり返る部屋の中、ゆっくりと時は流れ――いつの間にか窓から差し込む月明かりが私達が座るベッドにまで届いていた。
その光に導かれる様に、私は涙で濡れた顔を持ち上げた。
そこには――。
何も変わらない。
いつもの様に優しく穏やかな笑みを浮かべる公爵様が、ジッと私を見つめていた。
月明かりを反射する赤い瞳がキラキラと煌めき、私と目が合うと嬉しそうに細められた。
その瞳が「なんでも言ってごらん」と促す様に、私の言葉を静かに待っている。
「なんで……?」
それはとても素朴な疑問だった。
「なんで公爵様は、そんなに私に優しくしてくれるのですか……?」
いつもそうだった。
公爵様は優しい。
公爵様は私が優しいと言ってくれるけれど、一番優しいのは公爵様だ。
いつも優しい笑顔で私を見守ってくれる。
どこまでも寛大な心で私を甘やかしてくれる。
その底知れない優しさの根源は、一体何なのだろう。
私の問いに、公爵様は更に目を細め、私の頬を伝う涙を滑らかな手つきで拭った。
「君が僕に優しくしてくれたからだ」
答えが返ってくるのは一瞬だった。
当たり前だとでも言う様に、清々しく答える公爵様の言葉に迷いはなかった。
公爵様の瞳は真っすぐ私を見つめている。いつもと同じ様に、優しい微笑みを浮かべて。
思えば……様子が変わったばかりの頃の公爵様は、時々虚ろ気に誰かを思い出す様な姿があった。
きっとそれは夢の中での私を思い出していたのだと、今なら分かる。
だけどいつからだろうか。
そんな姿を見る事は無くなっていた。
公爵様はいつも私だけを見て、変わらない愛を囁き続けてくれた。
私はどうだったのだろう。
最初は、初めて母親以外の人に愛されて、嬉しい気持ちが強かった。
公爵様は私を愛してくれている。だから公爵様の気持ちに応えたいと思った。
だけど公爵様と一緒に居るうちに、その優しさや誠実さ、リディアから聞く公爵様の意外な姿や時々見せる照れた様な仕草。
公爵様が見せてくれる姿一つ一つに心を締め付けられて、いつの間にか公爵様自身の事をこんなにも好きになっていた。
私達は似ているのかもしれない。
好きになるきっかけは違っていたとしても、お互いが同じ時間を一緒に過ごしていくうちに、少しずつ気持ちが同じ方向へと進みだし交わり出したのかもしれない。
公爵様は、先程拭ってくれた頬の反対側の涙も優しく拭うと、私の頭にそっと手を乗せた。
「マリエーヌ。例え君が自分に自信を持てないのだとしても、僕が君を好きな事に変わりはない。君が辛くて涙を流すのなら、僕が何度でもその涙を拭おう。無理に強くなろうとする必要も無い。僕が隣で君の事をずっと守っていけば良いのだから」
公爵様は私の頭を優しく撫で、純粋な笑顔を浮かべた。
公爵様はどんな私でもきっとありのままの姿を受け止めてくれるのだろう。
留まる事を知らないその愛情で私を丸ごと包み込んでくれるのだと思う。
「公爵様って……私に甘すぎませんか……?」
「そうだな。僕は君を甘やかしたい。それこそ僕が側に居ないと駄目になるくらいに」
そう言って公爵様は少し意地悪そうな笑みを浮かべていた。
本当に、この人の傍で甘やかされ続けていたら、そのうち私は根っからの駄目人間になってしまいそう。
なんだか色々と難しく考えていた自分が馬鹿らしくなってきて、笑いが込み上げて来た。
「ふふっ」
何を悩んでいたのだろう。
今までもそうだったのに。
夢の中の私にじゃない。
公爵様はずっと私自身に、愛を伝えてくれていたのに。
私を真っすぐ見つめて、愛しくて堪らないという様な表情で――。
目の前にはいつもと変わらない公爵様の姿。
何度も見てきた筈なのに、私の胸の奥底に堰き止めていた想いが込み上げ溢れ出す。
私も――今度こそ伝えたい。
ずっと言えなかった、あの言葉を。
貴方の名前を――。
「アレクシア様」
初めて口にしたその名に、笑みを浮かべていた公爵様の目が大きく見開いた。
信じられない光景でも目にするかの様に、ルビーの様な真っ赤な瞳がジッと私を見据える。
そんな公爵様の姿を前にして、愛しさが込み上げてくる。
公爵様も、いつもこんな気持ちだったのだろうか。
私の顔は自然と綻び、胸も頬も熱を帯び始めた。
この言葉を伝えられる。それが嬉しくて、今度は感極まって涙が滲みだした。
「愛しています」
公爵様に向けてそう囁いた私はきっと、いつも愛を囁いてくれる公爵様と同じ表情をしているに違いない。
貴方の事が愛しくて堪らない――そんな笑みを浮かべているのだと思う。
私を見つめる公爵様は、目を見開いたまま固まったままだったけれど、その真っ赤な瞳が揺らぎ。涙がポロポロと溢れ出した。
「ああ、マリエーヌ……ありがとう。僕もだ。君を愛している。これからも、ずっと」
なんとも嬉しそうに笑みを浮かべて告げられた公爵様の言葉に、今度は私の涙が溢れ出した。
ただ、愛の告白をしただけなのに、私達はお互いなんでこんなに泣いているのだろう。
その事がなんだか少しおかしくて……でも嬉しくて。
少しだけ我に返ってカァッと顔が熱くなったりもして。
お互い顔を見合わせて恥ずかしがる様に笑い合った。
ふいに、公爵様の手が私の肩の上に乗せられて、ゆっくりと公爵様の顔が近付いてくるのが分かった。
その意味を察した私は、ゆっくりと目を閉じ――程なくして私達の唇は静かに重なった。




