02.愛してる
「あ……あ……。マリ……エーヌ……ほんとに……君……なのか……?」
公爵様は一層切なそうに眉を寄せて、絞り出すような声を出しながら私に手を伸ばしてきた。
そのままゆっくりと歩きながらこちらへ近付いてくる。
悲痛に顔を歪め、頬からは涙が滴り落ち、私に縋る様なその姿に、見ているこちらの方が胸を締め付けられた。
公爵様のそんな姿を、私は今まで一度も見た事は無い。
他人に隙なんて絶対に見せない。周りは全て敵だと思っている――そんな公爵様だから。
それなのに、こんなに涙を流している姿を人前に晒しているなんて……私、夢でも見ているのかしら?
それとも公爵様が涙を流す程、何かよほどショックな事があったのかしら?
もしかして、その原因が私……?
って、いけない。ボーっとしている場合じゃないわ。
私はポカンと開いていた口をグッと閉じ、表情を引き締め直した。
ゆっくりと息を吸い込み、背筋を伸ばすと公爵様の目の前まで歩み寄り、深々とお辞儀をした。
「はい。正真正銘のマリエーヌでございます」
というか、公爵様って私の顔も知らなかったのかしら?
一緒に住み始めて一年になるのだけど。
でも十分ありえるわね。今まで私とまともに目を合わせてくれた事なんてなかったのだから。
ある日突然、別の人と入れ替わっていたとしても気付かれなかったかもしれないわ。
それはともかく、屋敷を追い出されるだけならいいのだけど、私が何か大きな失態をしていて、その代償を払えと言われたらどうしよう。
お父様はきっと私を助けては下さらないでしょうし、そうなると身売りしてでも埋め合わせしろとか言われるのかもしれない。
その先を想像し、震える手のひらを力一杯握りしめて、私は公爵様の言葉を静かに待った。
とりあえず、謝る準備だけはしておこう。
「マリエーヌ……君を愛してる」
「はい、申し訳ありま…………は?」
「な!?」
突拍子もなく言われた公爵様の言葉に、私だけでなく、集まって来ていた使用人達からも驚きの声が上がった。
あいしてる? 今、あいしてるって言ったの……? きみ? わたしを?
公爵様。
きっとまだ熱が下がっていないんだわ。
熱が高すぎておかしくなってしまったんだわ。
私はその熱を確認しようと、公爵様の額に右手を伸ばした。だけどそれが額に触れる前に、公爵様に手を掴まれた。
「!?」
「ああ! マリエーヌ」
公爵様はそのまま私の手のひらに自分の頬を擦り寄せてきた。
涙で濡れた頬が冷たいと思ったのは一瞬で、すぐに尋常じゃない熱を帯びている事が分かった。
「公爵様。あの……まだお熱が高いようです。すぐにお部屋で休まれた方が良いと思うのですが」
「ああ、それはきっと君の手に触れたから、嬉しさで僕の体温が舞い上がってしまったようだ」
…………いや、公爵様? 絶対、熱、あると思いますよ?
私が怪訝な顔で見つめていると、公爵様は切なく顔を歪めながらも、今までに見た事が無い程の優しい表情で微笑んだ。
そんな風に微笑まれて、私はドキッと音が出てしまったかと思う程に大きく心臓が跳ねた。
公爵様は、性格は恐れられていたけれど、その容姿は一級品。
初めて見た時は『容姿端麗』という言葉以上の表現を探してしまうくらい、その怖く思える程の美しさに言葉を失った。
そんな公爵様に優しく微笑まれて頬を赤く染めない女性がいるだろうか。いや、絶対いないと思う。
公爵様は、私の右手を握ったまま跪き、私を見上げた。
「マリエーヌ。どうか僕ともう一度、結婚してくれないだろうか?」
そう告げた公爵様はとても真剣な表情で、私の答えを待っている様に見えた。
どうしよう……やっぱり熱でおかしくなっちゃってるんだわ。
「えっと……私と公爵様は既に結婚していますので……もう一度結婚するというのなら、一度離婚をしませんと――」
「それは駄目だ!」
叫びと同時に公爵様は勢い良く立ち上がると、私の両肩を力強く掴んできた。
「きゃ!?」
「あっ……すまない! つい……マリエーヌが離れて行ってしまうと思ったら気が気じゃなくなって……本当に申し訳ない」
公爵様は慌てて手を放すと、今度は優しく包み込む様に私を抱きしめた。
あの公爵様が……謝った?
決して自分の非を認めない。人に謝罪する事など絶対に無いと有名な公爵様が、今謝りました?
しかも何故か抱きしめられているこの状況。
私の頬に触れている公爵様の胸元からは、物凄い速さで鳴り響く心臓の鼓動が聞こえてくる。
やっぱり熱は相当高いみたい。
「公爵様……病み上がりですので、まだお体が本調子ではないのでは? とりあえず、もう少しお休みになってから――」
恐る恐る近寄って来た男性の使用人が声をかけてくると、公爵様の目付きは瞬時に鋭く変わった。
それはいつも私を見ていたのと同じ。氷の様に冷たい瞳。
だけどその瞳は、今は私ではなく声を掛けてきた使用人へと向けられている。
「うるさい。僕は今、マリエーヌと話をしているんだ。口を挟むな」
ゾッとする程の不機嫌な声に、声をかけた使用人の顔は怯える様に真っ青に染まっていく。
公爵様の瞳は更に鋭くなり、憎しみを込める様な口調で言葉を続けた。
「ああ、なんだお前か。お前はもう明日から来なくていい。荷物をまとめて今すぐにこの屋敷から出ていってくれ」
「はい?」
唐突に言い出した公爵様の解雇発言に、当人だけでなく他の使用人達もざわめき出した。
それを気にする様子もなく、更に公爵様は他の使用人達へと視線を移した。
「あと、お前も。そこにいる侍女達も全員だ。ここにいない奴らにも後で伝えよう。一度しか言わないからよく聞け。今すぐこの屋敷を出て、二度と僕とマリエーヌの前にその姿を見せるな」
「な!?」
「なんですって!?」
「どういう事ですか公爵様!? 私達が一体何をしたというのですか!?」
解雇を言い渡された使用人達が次々と抗議の声を上げるが、公爵様のひと睨みでシン……と静まり返った。
「分からないのか? お前達はこれまでマリエーヌを見下し、ぞんざいな扱いをしてきたのだろう? その事を僕が許すはずが無いだろ」
「それは……だって旦那様だってそうだったじゃありませんか!? 奥様の事なんてこれっぽっちも気にかけた事なんてなかったのに! だから私達だって同じ様にしてきただけで……それなのに、なぜ私達がこんな仕打ちを受けなければならないのですか!?」
侍女の一人が声を荒らげて訴えかけると、公爵様は少しだけ顔を伏せ、唇をグッと噛みしめた。
悔しがる様な、苦しんでいる様な……そんな表情を顔滲ませる公爵様の姿が切なくて、胸が苦しくなった。
「その通りだ。僕の罪も、決して許されるものではない。こんな僕が今更マリエーヌにどう償おうとも、償いきれないだろう」
そう言うと、公爵様は抱き締めていた私の体をそっと離し、真正面から私と向き合った。
先程の苦しむ様な表情は消え失せ、何かを決意した様な力強い視線を私に向けている。
「マリエーヌ。今までの僕の愚行、本当に申し訳なかった。僕を許さなくてもいい。だけど、どうか君の側にいる事だけは、許して欲しい。僕は君が幸せになるためならなんだってする。マリエーヌ。君は僕の全てなんだ」
真っ直ぐに私を見つめる公爵様は、まるで別人になってしまったみたい。
今まで私を見ていた氷のような瞳とは全く違う、熱を帯びた赤い瞳が私の体までも熱くさせている。
「僕はこの先、何があっても君の事だけを生涯愛し続けると誓う。君の願いならどんな事でも叶えてみせる。たとえこの世界を敵に回しても、君の事だけはこの命が尽きるまで、いや尽きたとしても必ず守り抜いてみせる。だからマリエーヌ。どうか僕と共に生きてほしい。君を愛してるんだ」
まるで初めて恋に落ちた少年の様に、公爵様は私の事を愛しくて仕方がない様な顔で見つめている。
だけど、私は公爵様の言葉をどう受け止めてあげればいいのだろう。
だってこの状況、この言葉も全て、絶対に熱のせいでしょう?
期待しちゃいけない。
きっと明日になれば、公爵様は全てを忘れていつもの冷たい公爵様になっているはず。
だから今の言葉を鵜呑みにしちゃいけない。
信じて傷付くのは自分なのだから――。