26.一緒に寝ましょう
自室から廊下へ出ると、公爵様から贈られたお花が一定間隔で飾られている。
廊下に漂うお花の甘い香りに包まれて、今の公爵様がくれた数々の優しさが脳裏に浮かぶ。
いつ失うかも分からないその姿に、泣きそうになりながら私はゆっくりと歩き出した。
天窓から差し込む月明かりが廊下を照らし出し、その先がやけに長く感じる。
歩き始めてすぐ隣にある部屋の扉が目に映った。
私の部屋の隣は、夫婦共有の寝室になっているけれど、公爵様の人格が変わってからは一度も使った事は無い。
以前は一ヶ月に一度呼ばれていたのだけど、その事について今の公爵様と話をした事は無い。
一応、私達も夫婦だし、いつかはそういう事もするのかもしれない。
それに今の公爵様となら……と、少しだけ期待していない訳でもなく。
だけどその事について私から聞くのも気まずいので、公爵様から言ってくれるのを待っている。
夫婦の寝室を通り過ぎると、今度は公爵様の部屋の扉が見えてくる。
公爵様専用の部屋はここだけでなく、執務室の隣にもある。
以前の公爵様はこの部屋はほとんど使っておらず、執務室の隣の部屋を使っていた。
だけど様子が変わって以来、公爵様はこの部屋を拠点にする様になった。というか、多分こっちの部屋しか使っていないと思う。
最近は執務室も私の部屋の近くに移動しようと企んでいるみたいだけど、ジェイクさんがなんとか引き留めているらしい。
なんでも、私が近くに入ればいる程、公爵様は磁石の様に私に引き寄せられるとか……とにかく、仕事中はなるべく公爵様のいる場所と一定の距離を保って頂きたいと、ジェイクさんから涙混じりに頼まれた。
公爵様の部屋の前を通り過ぎようとした時、何か声が聞こえる様な気がして足を止めた。
扉にそっと耳を当てて、感覚を研ぎ澄ます。
なんとなく、悪い事をしている気がして若干後ろめたい気分になったけど、やはり部屋の中からは何か呻き声の様な声が聞こえてくる。
うなされてる……?
もしかしたら何か発作みたいなもので苦しんでいるのかもしれないと自分を納得させて、公爵様の部屋へと繋がる扉のノブを握り力を込めた。
ガチャ……と小さな音を立てて扉が開いた。
どうやら鍵はかかっていないみたい。
「う……っ……やめ……っ……」
少しだけ扉を開けると、部屋の中から公爵様のうなされている様な呻き声が鮮明に聞こえてきた。
僅かに開いた扉の隙間から覗き込むと、窓から差し込む月明かりが公爵様が眠るベッドを照らしていた。
ベッドの上では、公爵様が手を伸ばして苦しそうにもがいている。
「マ……ヌ……! ……リエ……!」
ハッキリと言葉は出てきていないけれど、公爵様は恐らく私の名前を呼んでいるのだと察した。
私は部屋の中へ入り、扉を閉めるとすぐに公爵様の傍へ駆け寄った。
呻き声を上げながら、何かを探る様に伸ばされている公爵様の手を、私は両手でソッと握りしめて自分の胸元へと抱く様に寄せた。
「公爵様。マリエーヌでございます」
そう囁くと、公爵様がハアッと大きく息を吸って目を覚ました。
公爵様の見開かれた真っ赤な瞳は怯える様にフルフルと震え、額からは汗が流れ落ちて公爵様の髪の毛がしっとりと濡れている。
服も掻き乱され、公爵様の分厚い胸板がチラリと見えて、不謹慎ながらもドキッと心臓が反応してしまった。
「マリ……エーヌ……?」
私と目が合うと、ゆっくりと口を動かして私の名前を呼んだ公爵様は、勢い良く起き上がった。
両手を自分の目の前に持ってくると、何かを確かめる様に握ったり開いたりを繰り返している。
私は名前を呼んでくれた嬉しさで、じんわりと胸が熱くなりじわりと浮かんだ涙を隠す様に少しだけ顔を伏せた。
良かった……。
私の名前を呼んでくれる公爵様のままで……。
「大丈夫ですか? 公爵さ――」
顔を持ち上げて公爵様に声を掛けようとした時、私の目に飛び込んできたのは、目を見開いて私を見つめる瞳から涙がポロポロと流れ落ちている公爵様の姿だった。
それはまるであの時――高熱から目覚めた公爵様が私を初めて見た時と同じ様な――。
「マリエーヌ!」
公爵様の叫びと同時に、一瞬で私の体は公爵様の腕の中に抱き締められた。
「マリエーヌ! マリエーヌ!」
悲痛な叫び声をあげながら私を抱き締める公爵様の体は汗で冷えたのか、とても冷たくて小刻みに震えていた。
私よりも一回りも大きい体なのに、何故か小さく思えてしまうその体を、私もぎゅっと抱き締めた。
「すまない……マリエーヌ……。本当に、すまなかった……僕が無力なばかりに……すまない……」
切なく声を絞り出し、何度も繰り返すその言葉は一体何に対する謝罪なのだろう?
公爵様に不釣り合いな『無力』という言葉に大きな違和感を覚えたけれど、それよりも早く公爵様を安心させてあげたかった。
「公爵様。大丈夫ですか?」
公爵様に抱き締められたまま問いかけると、強い力で私の体を抱き留めていた手が少しだけ緩み、私の体をゆっくりと放した。
「ああ……すまない。本当に、君にはいつも情けない姿ばかり見せてしまうな」
眉尻を下げて弱々しく笑う公爵様の姿がなんとも切なくて、今度は私が抱き締めてあげたくなった。
「時々、夢を見るんだ。とても耐え難い、恐ろしい夢を……」
そう告げた公爵様の瞳は影を落とし、両手が再び震え出していた。
隙の無い公爵様がこんなにも夢に怯える姿を一体誰が想像出来るだろうか。
「奇遇ですね。私もさっき夢見が悪くて起きてしまいました」
「そうか。マリエーヌも悪夢を見る事があるのか……。僕がマリエーヌの夢の中に入る事が出来たのなら、君を助け出す事が出来るんだがな」
いつもの公爵様らしい発言を聞けて、気が抜けて思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……。じゃあ、一緒に寝ますか? そしたら同じ夢を見る事が出来るかもしれませんよ」
それは特に何の意味も無く、自然と口から零れた言葉だった。
私達の間に暫く沈黙が続いた後、自分が発した言葉の意味に気付いた私は、カッと顔の温度が急上昇した。
恥ずかしさで目尻に涙が滲み、とても目を合わせていられなくて公爵様から顔を背けた。
私ったら! なんて事を言ってしまったの!?
……でも公爵様はなんと言うかしら?
さっきから何も言ってこないけれど……。
今の私の発言を聞いて、どう思ったのかしら?
…………。
…………。
…………駄目。この沈黙が耐えられないわ!
やっぱり発言を取り消そうと、再び公爵様と向き合った時――。
私の視線の先には、ポカンと目と口を開けたまま固まっている公爵様の姿があった。
公爵様の意外な反応に、私も言葉が詰まって口を開けたまま固まってしまった。
一応、これでも私達は体を交わした仲なのだけど……。
抜け殻の様になって固まっている公爵様の顔からは、先程の悲しみに満ちた表情はかけらも残っていなかった。
その事にホッとすると同時に、私の中にある不安が過った。
公爵様がもしも元の人格に戻ったら、もうこんな風に会話を交わす事はなくなってしまう。
それは数年先かもしれないし、明日なのかもしれない。
もしもいつか、そんな日が来るのなら。
この幸せが当たり前でないのなら――。
今の公爵様に愛されたい。
真っ直ぐ伝えてくれる愛の言葉をこの身に受けながら、私がお慕いする今の公爵様と愛し合う事が出来たのなら、それはどんなに幸せな事なのだろうか。
迸る公爵様への想いが。私にある決意をもたらした。
ようやくハッとした様に正気を取り戻した公爵様が、気まずそうに目線をそらしながら口を開いた。
「んんっ……すまない、マリエーヌ。どうやら僕は今しがた都合の良い幻聴を聞いてしまったみたいだ。もう一度言ってみてくれるか?」
その問いに、覚悟を決めた私はコクリと頷き、
「公爵様、今日は私と一緒に寝て下さい」
ハッキリとそう告げると、今度こそ公爵様は石像にでもなってしまったかの様に完全に固まってしまった。