18.闇夜に消えたのは
「マリエーヌ様……」
男に捕らえられたまま、心配そうに私を見つめているエマさんに、私はニコッと微笑んでみせる。
それから数歩前へと進み、私は一度足を止めた。
エマさんの首元に固定されたままの剣が気になった。
私はその刃に視線を向けたまま、男に訴える。
「エマさんに向けている剣は降ろしてもらえませんか?」
「いいや。あんたが俺の手の届く位置まで来てからだ。隙を見て逃げられたら厄介だからな。あと、後ろの男も、動くなよ?」
私の後方へ視線を向けながら、男が念を押す。
もしかしたら、ガイゼンさんが動く気配を察知したのかもしれない。
私はガイゼンさんの方へ振り返り、首を横に振る。
何もしないで、と目で命じながら。
ガイゼンさんは、何かを耐え忍ぶようにグッと唇を噛む。
私は再び視線を男へと戻し、もう一歩、二歩と前へ進んだ。
男との距離が近くなり、その手に握られている剣の存在感が一気に増す。
その刃を突き付けられているエマさんの心情を考えると、その恐怖から一刻も早く解放させてあげたい。
だけど、ふと疑問が過った。
――本当に、エマさんを無事解放してくれるのかしら……。
私が捕まった瞬間に、エマさんが斬りつけられたりしたら……。
今もエマさんの首元で存在感を放つ刃を睨みながら、そんな不安に駆られる。
「おい。足が止まってるぞ」
すぐ目の前で、男が剣を握る手に力が入るのが分かった。
――迷っている場合じゃないわ……!
どちらにしろ、このままではエマさんは解放されない。
私は止めていた足を前へと踏み出す。
あと少しで、男の手が届く位置まで来る。
男の目が、ニィッと不気味な弧を描いた。
途端、勝手に震え出した足を、私は無理やり前へと押し進める。
その時だった。
「旦那様がお戻りになられました!」
「なっ⁉」
開いていた扉の向こうから聞こえてきた侍女らしき声に、男は驚愕の声をあげる。
直後、男は慌てた様子でエマさんを突き飛ばすと、その手を私へと伸ばした。
大きく開かれた男の黒い手が、こちらに迫る。
その視界の端で、私はエマさんの姿を確認した。
男に突き飛ばされたエマさんは、床に手と膝をついた状態で唖然としたままこちらを見ている。
その様子から、彼女の体に目立った怪我はなさそう。
――良かった……エマさんが無事で……。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間で、男の手はもう私の襟元まで伸びていた。
捕まる――そう思った時、ヒュンッと風を切るような音がした。
――え……?
私が目を瞬かせた時には、首元まで迫っていた手が、男の姿ごと消えていた。
直後、「ぐあっ!」という苦しげな叫び声と共に、バキィッ! という木が割れるような衝撃音が聞こえた。
私の視線の先では、奥の壁に叩きつけられた男の体が、壁にもたれかかるようにして項垂れている。
その背後、木製の壁板は強い衝撃により大きくひび割れていた。
その光景を、唖然としたまましばらく見つめ……ハッと我に返る。
そしてすぐ隣、男を蹴り飛ばして窮地を救ってくれた護衛騎士を嬉々として見上げた。
「ガイゼンさん!」
「申し訳ありません」
私がお礼を言うよりも先に、沈みきった声でガイゼンさんが謝罪する。
「私は護衛騎士失格です……」
そう告げる顔は深刻げで、護衛騎士を降りることも辞さないというような面持ちだ。
だけど、ガイゼンさんに非はない。
彼は最後まで正しい行動を取っていた。
どう考えても謝らなければならないのは私の方だ。
「あの……」
「マリエーヌ様……申し訳ありません……」
今度はこちらに駆け寄ってきたエマさんにまで頭を下げられてしまった。
エマさんもまた、ガイゼンさんと同じように深刻そうな顔をしている。
私は慌てて二人に声を掛ける。
「二人とも謝らないでください。エマさんは、私のせいで危険な目に遭ったのですから、謝るのは私の方です。怖い思いをさせてしまってごめんなさい。それにガイゼンさんも。私の勝手な行動で、貴方の護衛騎士としてのプライドを傷つけてしまって……本当にごめんなさい」
「そんな……マリエーヌ様……」
「いえ。私が未熟だったばかりに……」
「マリエーヌ様ぁ!」
謝罪の応酬により重く沈んでいた空気を吹き飛ばすように、リディアが勢いよく私に抱きついた。
「リディア……?」
「御無事で何よりです!」
うるうると涙で瞳を潤ませながら、リディアが私を見つめている。
ずっと不安だったのだろう。
ふいに、張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、体から力が抜けていく。
こうして大切な人たちに囲まれていると、私はここに居てもいいのだと改めて思う。
自分の居場所があることが、こんなにも嬉しい。
思わず感極まってしまい、私の目にまで涙が浮かぶ。
それを瞬きで散らしながら、私はリディアに話かけた。
「あなたも無事で良かったわ。……あ。もしかして、さっきの声はリディアだったの? ……そういえば、アレクシア様は?」
アレクシア様が帰ってきたのなら、真っ先に私の所へ駆け付けるはず。
だけど、周りを見渡しても、アレクシア様の姿はない。
廊下の方も、しんと静まっている。
リディアは少しだけ後ろめたそうにしながら、苦笑いを交えつつ告げた。
「あ……いえ。実は、旦那様はまだ帰られていないのです」
「え? じゃあ……あなた嘘をついたの⁉」
リディアは嘘アレルギーという体質らしく、嘘を吐くと激しいアレルギー反応に見舞われる。
私がリディアの体の状態を確認しようとすると、リディアは慌てて首を横に振り、身の潔白を証明するよう両手を掲げた。
「いえ! 私じゃありません! 発案者は私ですが、さっきの声はレイモンド様です!」
「……え?」
見れば、扉のすぐ近くで、レイモンド様は恥ずかしそうに口元に手を当てたまま佇んでいる。
――さっきの声、レイモンド様だったの……?
確かに、聞き覚えのない侍女の声だったとは思ったけれど、まさかレイモンド様だったなんて……。
「わざわざ侍女を演じる必要はなかったのですが、なかなか迫真の演技でしたよね。レイモンド様、役者としての才能もあるんじゃないでしょうか?」
「そうね……。私もそう思うわ」
レイモンド様の意外な才能を目の当たりにして、うんうんとリディアと頷き合う。
「あ!」
突然、ランディ君が声を上げた。
その視線が指し示す先では、いつの間にか起き上がっていた男が、割れた窓から出ていくところだった。
「待て!」
叫ぶと同時に駆け出したランディ君は、壁に立てかけてあった木剣を素早く取り上げ、男が出ていった窓へと一直線に駆け抜ける。
「おい! ランディ! やめろ!」
「ランディ君⁉」
マグナス君と私の制止を無視して、ランディ君は軽やかな動きで窓を飛び越え、外へ出て行ってしまった。
「母さん! シェリーを!」
すぐにマグナス君が抱いていたシェリーちゃんをエマさんに託すと、ランディ君を追いかけるようにして窓から飛び出した。
「マグナス君!」
二人の姿はあっという間に闇夜に消え、見えなくなってしまった。
ぽっかりと開いた窓から吹き込んだ夜風が、ぞわりと肌を撫でる。
――うそ……。こんな時に二人とも出て行ってしまうなんて……。
アレクシア様は、まだ帰って来ていない。
だから、私がなんとかしないと……。
そう思うのに、すっかり緩んでしまった気持ちが、思うように動いてくれない。
「ランディ……マグナス……」
シェリーちゃんを抱きしめながら、エマさんが呆然としたまま窓の外を眺めている。
すると、私の隣にいたリディアがサッと動いた。
「私が行きます!」
そう宣言し、リディアが窓枠に片足をかけたところで、レイモンド様が後ろから羽交い絞めにする。
「だから、なんで君はそうやって後先考えずに飛び出そうとするんだ! 余計に収拾がつかなくなるだろ!」
「放してください!」
「放すわけないだろ!」
「それなら命令です! 今すぐ手を放しなさい!」
「なんで僕が君に命令されなければならないんだ! 却下する!」
そんな二人のやり取りを聞いて、ようやく気持ちが切り替わる。
――そうよ。とにかく追いかけないと!
今すぐ動ける騎士はガイゼンさんしかいない。
先ほどと同じように、強く命令すれば二人を追いかけてくれるかもしれないけれど……。
――それなら、私とガイゼンさんが一緒に動いた方がいいわ。
「ガイゼンさん! 二人を追いかけましょう!」
私の呼び掛けに、ガイゼンさんは一瞬戸惑いの色を浮かべたものの、すぐに頷いて了承する。
私の意図を汲んでくれたのだろう。
「マリエーヌ様……」
エマさんが申し訳なさそうに、それでいて縋るような眼差しで私を見つめる。
急く気持ちを今だけは押さえ、私はできるだけ穏やかな口調でエマさんに告げた。
「エマさん、ランディ君たちは大丈夫ですから、ここでシェリーちゃんと待っていてください」
それから私はエマさんの腕に抱かれているシェリーちゃんにも微笑みかける。
彼女は母親の腕の中に戻って安心したのか、瞼を重たそうにしながらウトウトとしていた。
このまま眠って、今日起きた怖い出来事は全て忘れてほしい。
「どうか、二人をよろしくお願いします」
シェリーちゃんをしっかりと抱きしめながら、エマさんは深々と頭を下げる。
私は力強く頷いてそれに応えると、窓際で取っ組み合うような状態になっている二人に呼び掛けた。
「リディアとレイモンド様は、ここに残って二人を守ってください!」
同時に振り返った二人は、互いに掴んでいた手を素早く放すと、キリッと表情を引き締めた。
「ああ、分かった」
「はい! マリエーヌ様も、お気を付けてください!」
力強いリディアたちの返事を受け止め、私は先に外へ出ていたガイゼンさんの手に支えられながら窓から飛び降りた。




