17.奇跡の代償
「なりません」
威圧的なガイゼンさんの低い声に、部屋へ踏み込もうとした私の足は、金縛りにでもあったかのように停止する。
咄嗟にガイゼンさんを見上げると、彼は険しい表情で私を見つめたまま、強い口調で告げた。
「護衛騎士として、これ以上マリエーヌ様の身を危険に晒すわけにはいきません」
「でも、このままではエマさんが……!」
そう訴えるも、ガイゼンさんは厳しい表情のまま首を横に振る。
ここまでは私の自由に行動させてくれたけれど、これ以上は許容できないと、頑ななその姿から伝わってくる。
つまりここが、彼が確実に私を守れる境界線。
だけど、その先へ進まなければ、エマさんを守ることはできない。
――私だって、ここは譲れないわ!
私はガイゼンさんから目を逸らし、駆け出そうとした。
けれど、すぐに右手首を掴まれ引き止められる。
「駄目です。マリエーヌ様」
「放してください!」
右手を掴むガイゼンさんの手をなんとか振り払おうとするも、全く振りほどけない。
無理に動かしたはずみでズキッと手首に痛みが走った。
私が思わず顔をしかめると、ガイゼンさんも苦しげに表情を歪ませる。
「申し訳ありません……。ですが、どうしても貴方を行かせるわけにはいきません」
その視線の先は、ガイゼンさんが掴む私の手首へと注がれている。
痛みを伴った私の手首を心配してくれているのは分かる。
けれど、今、その優しさを向けてほしいのは、私ではなくエマさんの方だ。
彼女は、私の代わりに危険に晒されているのだから。
すると、背後から苛立ちを含んだ大きな舌打ちが聞こえた。
「さっさとしろ」
振り返ると、男に捕らえられているエマさんの首元で、剣の刃が鋭く光った。
いつでも傷つけられるのだと、見せつけるように。
エマさんは、グッと口を噤んだまま私を見つめ、小さく首を横に振る。
「来ては駄目です」と訴えるような力強い眼差しに、足が竦んだ。
まさに今、自分自身が危険に晒されているというのに、エマさんもまた、私の安全を優先しようとしている。
――どうして……?
次の瞬間、ぐわん……と頭の中が大きく揺すぶられる感覚と共に、視界が眩んだ。
さっきからずっと騒めいていた胸の内側の雑音が、徐々に大きくなっていく。
――違うの……私は……。
目の奥が焼けるような熱を孕み、じわりと涙が込み上げた。
エマさんも、ガイゼンさんも、リディアも、ランディ君まで……皆が危険を冒してまで私を守ろうとしてくれている。
私を大切に想ってくれる皆の優しさ。
それを、心の底からありがたいと思うのに……同時に、ひどく悲しくなった。
皆から守られ、誰よりも優先されている自分の命。
その事実を、私は素直に受け入れることができない。
――私は……誰かの命を犠牲にしてまで、守られるべき人間じゃない。
もう一度、地を踏みしめる足に力を込め、体を前へと進ませる。
けれど、私の手首を掴むガイゼンさんの手が、それを許さなかった。
「マリエーヌ様」
咎めるような厳しい声が、耳を通り過ぎる。
私の体を照らし出す灯りがやけに眩しい。
その灯りから目を逸らすように視線を地に落とし、俯いた。
――どうして、私たちの願いは叶えられたのだろう……?
その疑問は、これまでにも幾度となく頭を過った。
その理由を考えたところで、この不可思議な現象の答えなんて分かるはずがない。
アレクシア様も、そう言っていた。
だけど、ふと思ったことがある。
もしかしたら、私たちが手にした奇跡は、他の誰かが手にする可能性があったのではないか、と。
たとえば、無数に存在する星の中で、たった一つだけ願いを叶えてくれる星があるのだとしたら……。
何万、何億と捧げられた多くの人々の願いの中から、私たちの願いが拾い上げられ、叶えられたのかもしれない。
だとすれば、選ばれた願いは、本当に私たちのものでよかったのだろうか……?
私たちよりも、もっと優先されるべき願いがあったのではないか。
多くの人々が、理不尽な理由により命を奪われる世の中で、ルディオス君のように、若くして命を落とした人たちは数知れない。
幸せな時間を知らないまま、亡くなった命もあっただろう。
失われた命の数だけ、ささやかで切実な願いがあったはず。
その願いを叶える唯一のチャンスを、私たちが奪ってしまったのではないか。
そう思った時、私は今、自分が生きていることを手放しで喜べなくなった。
誰もが一度きりしか歩めない人生に、一度は終止符を打ったのにもかかわらず、二度目の人生を生きている自分は、罪深い存在なのではないかと……どこか後ろめたい気持ちさえ抱くようになった。
それはルディオス君に対しても同じだった。
かつての彼は生と死の狭間で、弟を守りたいと強く願った。
その願いが通じたのか、彼は意識だけの存在となり、弟の中で覚醒した。
そして自分を殺し、弟の命にも手をかけようとしていた暗殺者から弟を守ることができた。
彼の願いもまた、奇跡によって叶えられた。
だけど彼の場合は、私たちのように時間を回帰して自身の死を覆すことはできなかった。
もしも彼が私たちと同じように、時を回帰し、自分の死を覆すことができていたのなら、弟と共に生きていける未来だってあったかもしれない。
だから、私たちが奇跡によって、今を生きている事を彼に知られるのが怖かった。
あなたたちだけがどうして……と、責められるような気がした。
彼だけではない。
多くの人たちの声ならぬ声が、今にも聞こえてきそうだった……。
――それでも、私は……。
地に落としていた視線を、今一度持ち上げる。
しっかりと見開いた目で、私は真っすぐ前を見据えた。
――私は、自分がもう一度生きている意味を、ちゃんと見出した。だから、もう俯かない。
そう決めたのだ。
自分のこれからの生き方を。
流星群の降り注ぐ空の下で、誰かの奇跡になりたいと願った時に。
奇跡により、再び手にしたこの命を、皆の願いのために使うのだと――。
私たちが回帰したことによって、救われた命がある。
ジェイクさんが、その一人。
彼もまた、本来ならばアレクシア様と共に馬車の事故に遭い、命を落とすはずだった。
けれど、今世では事故を未然に防ぎ、ジェイクさんの死も回避することができた。
彼が今生きていることもまた、私たちの身に起きた奇跡によるもの。
そして、ジェイクさんが生きていたからこそ、シェリーちゃんが生まれた。
救われた命があるからこそ、新たに生まれた命がある。
それはきっと、この先に続く未来へと受け継がれていく。
それだけじゃない。
私たちが回帰したことによって、人生を救われたという人もいる。
ガイゼンさんは、命よりも大事だと謳う騎士の誇りを取り戻した。
リディアだって、私の専属侍女であることが自分にとっての誇りだと言ってくれた。
私たちの身に起きた奇跡が、こうして皆の奇跡として繋がっている。
その事実が、今、私が生きている意味を肯定してくれる。
私がレスティエール帝国へ戻ることを選択した理由も、この奇跡を、できるだけ多くの人たちの奇跡として繋げたいと思ったから。
悲しいだけの世界で終えてしまう命を、一つでも多く救いたい。
この命は、皆から守られるべき命ではなくて、皆を守るための命なのだから――。
「行かせてください」
喉の奥から絞り出した声は、自分のものとは思えないほど低い声だった。
「……なりません」
抑制された声が、一拍ほど遅れて聞こえた。
私は前へ進もうとしていた足を一度止め、体の内側に溜め込んでいた熱を放出するよう、深く息を吐き出す。
後ろへ振り返ると、私の視線はすぐにガイゼンさんの視線とぶつかった。
軽く目を見張ったガイゼンさんは、瞬時に表情を引き締め直す。
私を守ろうとする護衛騎士に、それでも私は声を大にして命じた。
「ガイゼン。今すぐその手を放しなさい」
「‼」
私の命令に、彼の瞳が大きく見開かれた。
フルフルと揺れる漆黒色の瞳が、動揺する彼の心情を表しているようで。
私の手首を握る彼の力が、僅かに緩む。
けれど、それはほんの一瞬で、再びグッと力が込められた。
彼の顔が、かつてないほど苦渋の色を滲ませている。
主の命令は絶対である。
けれど、護衛騎士として、私を危険に晒すことはできない。
主への忠誠心と、護衛騎士としての矜持。
それらが、彼の中で激しく衝突しているのだろう。
護衛騎士として、どんな状況であれ私の安全を優先する彼の行動は、きっと正しい。
これまでの仕事ぶりを見ていても、彼が真面目で優秀な人材であることは十分理解している。
だからこそ、この命令が、彼にとっていかに酷なものであるかも、分かっているつもりだ。
――せっかく護衛騎士になってくれたのに……ごめんなさい。
心の中でそう謝罪するも、彼に見せている毅然とした姿勢は一切崩さない。
「ガイゼン。私の命令が聞けないの?」
もう一度、抑揚のない声で彼に告げた。
ガイゼンさんは、唇をきつく噛みしめたまま、私の手首を掴んでいる自身の手を睨んだ。
その手には、もう力は入っていない。
私の手首を掴む形を象っているだけで、私がほんの少し力を入れるだけでも簡単に解けてしまいそう。
それでも、自分から手を放そうとしないのは、護衛騎士としての、最後の抵抗なのかもしれない。
――ガイゼンさん、ありがとう。ごめんなさい。
するりとその手をすり抜けて、私はガイゼンさんに背を向けた。




