12.護衛騎士の左手
廊下に現れたレイモンド様は、深夜にもかかわらず執務の最中だったようで、 一区切りついたところでお茶を淹れに行こうとしていたらしい。
けれど、部屋を出てすぐに私たちの姿に気付き、こちらへやってきたという。
目的地は同じなので、レイモンド様も一緒に厨房へと向かうことになった。
レイモンド様が手にしている灯りも加わったおかげで、私たちの周囲は一際明るくなった。
おかげで恐怖心からも解放され、足取りも軽い。
「なるほどな。そんなに怖がるくらいなら、リディア嬢はもうホラー小説は読まない方がいいんじゃないか?」
事の経緯を知ったレイモンド様は、おかしそうに笑いながらリディアに助言する。
それを不服とばかりにリディアは口を尖らせた。
「それは自分でも分かってます。分かってはいるのですが、つい気になって読んでしまうのですよ。怖いもの見たさと言いますか……。体は正直なので、気付けばホラー小説を手にしているのです」
「……それは怖いな。しかし、一人で眠れなくなったらどうするつもりだ?」
「問題ありません。アイシャと同室なので」
「だが、不寝番の日もあるだろう?」
「私はマリエーヌ様の専属侍女なので、不寝番はありません。アイシャが不寝番でいない時は、隣の部屋へお邪魔します」
全く迷いのないリディアの返答に、レイモンド様はくつくつと笑う。
「そうまでしてホラー小説を手放すつもりはないんだな」
「仕方がないじゃありませんか。気になるんですから……。それよりも、レイモンド様は早く休まれた方がいいのではありませんか? ここ最近、ずっと遅くまで仕事をされていますよね?」
今度はリディアの方から指摘され、レイモンド様は驚いたように目を見張った。
「……どうしてそれを知っているんだ?」
「不寝番の子が言っていました。レイモンド様の部屋の灯りが遅くまで点いているって。お仕事が大変なのは分かりますが、日中は旦那様から剣の指導も受けられていますよね? そんな満身創痍な状態で睡眠まで削られているのでは、いつか身が持たなくなってしまいます」
そう訴えるリディアの表情は真剣そのもので。
しばし呆気に取られていたレイモンド様の瞳が、ふいに柔らかく細められた。
慈しむような赤い眼差しが、リディアをジッと見つめる。
「そうか。僕を心配してくれているのか」
「そ……それはまあ……はい……」
ほんのりと甘い雰囲気を漂わせる二人の会話に耳をそばだてながら、私はさりげなく歩く速度を上げ、二人から距離を取る。
さすがに二人きりとまでにはならないけれど、今は二人だけの空間を邪魔したくはない。
二人から離れると、ガイゼンさんとの距離がぐんと縮まった。
ガイゼンさんが持つランプに照らされ、眩しさに目を細めると、フッと明かりが弱まった。
ガイゼンさんが、私が眩しくないようランプの位置を調整してくれたらしい。
――……あら?
ふと違和感を覚え、私はランプを持つガイゼンさんの左手を注視する。
ガイゼンさんは、両手に皮の手袋を着用している。
けれど、左手にはめている手袋は、薬指と小指がない。
――怪我……かしら?
私の視線に気付いたのか、ガイゼンさんは素早い動作で左手を右手で覆い隠した。
「申し訳ありません。お目汚しを」
低い声で謝罪され、私は咄嗟に首を横に振る。
「お目汚しだなんて……そんなことはありません。私の方こそ、気を悪くさせてしまったのなら、ごめんなさい」
「いえ。マリエーヌ様が謝られるようなことは何も……」
そう言いながらも、ガイゼンさんの右手は、今も左手から離れようとしない。
その横顔はランプの灯りに照らされ、深い苦悩の色を滲ませている。
お目汚し――その言葉が引っかかった。
ガイゼンさんは、自分の左手を見苦しいものだと思っているのだろうか。
もしかしたら、これまでに左手が理由で、誰かに嫌なことを言われたりしたのかもしれない。
私の目に触れないよう、左手を隠そうとする様子からして、触れてほしくない部分なのは分かる。
けれど、これだけは確認させてほしい。
「あの……痛くはないのですか?」
私の問いに、ガイゼンさんは驚いたように目を見開くと、少し戸惑った様子を見せながらも、静かに頷いた。
「はい。今はもう、痛みはありません」
「そうですか。それなら安心しました」
手袋をしているから、左手がどのような状態か分からなかったけれど、痛みが無いというのなら安心した。
私は視線を前に戻し、後ろを歩く二人から離れすぎないように歩く。
厨房は一番奥側にあるので、もう少し先だ。
「ご不安ではありませんか?」
「え?」
ふいに隣から投げかけられた問いに、私は咄嗟に答えることができず、
「不安って……何に対してでしょうか?」
と、質問を質問で返すかたちになってしまう。
ガイゼンさんは、私と視線を合わせないまま、補足を付け足した。
「こんな……指を欠損しているような騎士が、ご自分の護衛騎士になるかもしれないということに、ご不安にはなられませんか?」
自分を卑下する言葉に、私は思わず唖然とする。
そんなこと、思うはずがない。
私がはっきりと否定するよりも先に、ガイゼンさんは口早に言葉を連ねる。
「申し訳ありません。この傷を隠すつもりはなかったのですが、今日は私が護衛騎士を務めることになっておりますゆえ、このことをお伝えしてご不安にさせてしまうわけにはいかないと。そう判断いたしました。ですから、私ではご不安とあれば、正式な護衛騎士を任命する際には私以外の人間を――」
「いいえ」
一息で言い切ろうとしたガイゼンさんの言葉を絶ち切るように、私は声を張り上げた。
これ以上、自分を傷つけるような言葉を彼に言わせたくない。
ガイゼンさんは、恐る恐るというように私へと顔を向け、ようやく私と目を合わせてくれた。
戸惑いの色を浮かべるその瞳に、私はにっこりと微笑みかける。
「ガイゼンさんに対して全く不安は感じていませんし、他の方に護衛騎士をお願いするつもりもありません。私は、護衛騎士を任命するなら、ぜひガイゼンさんにお願いしたいと思っています」
「……!」
私がきっぱりと言い切ると、ガイゼンさんは大きく目を見開いて固まった。
これまでの発言から、ガイゼンさんにとって、その左手が大きなコンプレックスとなっているのはよく分かった。
だけど、それよりも重要なのは、アレクシア様がガイゼンさんを私の護衛騎士の候補に挙げたということ。
その意味を、今一度理解してほしい。
「左手の傷がどのような影響を及ぼすのか、私にはよく分かりません。当然、不便なことはあると思います。ですが、アレクシア様はガイゼンさんを、私の護衛騎士として一番に指名されたのですよね。それだけアレクシア様がガイゼンさんの実力を認めているということですから、不安になんて思うはずがありません」
「……」
左手を隠す右手が、ピクッと揺れる。
こんな言葉で、ガイゼンさんの心に刻まれている左手に対するコンプレックスを取り除けるとは思っていない。
それでも、もっと自信を持ってほしい。
自分を否定して一番傷つくのは、自分自身なのだから。
「それに、アレクシア様はガイゼンさんを信頼していると思います」
「え……?」
ガイゼンさんは意表を突かれたような顔となるも、すぐに神妙な面持ちへと切り替えた。
「ですが、私をマリエーヌ様に紹介した時、アレクシア様はマリエーヌ様に私を信頼しない方がいいと……」
あからさまにガイゼンさんの声が暗くなったので、私は小さく噴き出してしまった。
――ガイゼンさん……やっぱり気にしていたのね……。
「あれはアレクシア様の嫉妬心からの言葉なので、真に捉えなくて大丈夫です。アレクシア様は、ちゃんとガイゼンさんを信頼しています。たとえ候補とはいえ、信頼できない相手を私の護衛騎士にするはずがありませんから」
「……」
それでもガイゼンさんは、なおも信じられない様子で視線をあちこちに泳がせている。
けれど、灯りに照らされた瞳はキラキラとした輝きを放ち、その口元も緩むのを抑えきれないといった様子で必死に堪えているのが窺える。
少しずつ実感が湧いてきたのかもしれない。
私と目が合うと、ガイゼンさんは口角が上がった口元を隠すよう、サッと右手で覆った。
まるで左手を隠していたことさえ、忘れていたかのように。
「マリエーヌ様がそうおっしゃるのなら……そう……なのかもしれませんね……」
恥ずかしそうに、それでいて喜びを嚙みしめるように、ガイゼンは告げた。
アレクシア様からの信頼を得ていると知って、よほど嬉しいのだろう。
なんだか私まで嬉しくなってきた。
ふと、ガイゼンさんはばつが悪そうな顔となり、後ろめたいことを告白するような口ぶりで私に告げた。
「実は、マリエーヌ様の護衛騎士の候補に指名された時、一度辞退を願い出ました」
「え?」
驚き半分、ショック半分でポカンとする私に、ガイゼンさんは慌てたように弁解を口にした。
「マリエーヌ様の護衛騎士となれば、自然と距離が近くなりますから、この左手を嫌でも目にすることになります。ですから、『こんな見苦しいものをマリエーヌ様のお目に触れさせるわけにはいきません』とお断りしたのです」
「……!」
そんなことで……と、口にしかけた言葉を、私は咄嗟に呑み込んだ。
違う。ガイゼンさんにとっては、そんなことではないのだ。
きっと、ガイゼンさんはこれまでにも、左手を理由に多くのことを諦めてきたのだろう。
だけど、そうするほかなかったのかもしれない。
誰かから拒絶され、傷つく前に。自分から身を引いて諦めた方が、傷は浅くて済むから。
私だって、アレクシア様の人格が元に戻るかもしれないと思っていた時は、傷つくことを恐れて、先へ踏み込むことができなかった。
そうやって、深い傷をつくらないよう、自分を守ってきた。
ガイゼンさんは、少しだけ自虐的な笑みを浮かべると、控えめな息を漏らす。
「ですが、アレクシア様から叱責されました。こんな傷ごときでマリエーヌ様が相手の見方を変えるとでも言うのか、と。私の辞退理由はマリエーヌ様に対する侮辱だとおっしゃられたので、すぐに発言を撤回させていただきました」
それを聞いて、怒りを露わにするアレクシア様の様子がありありと想像でき、毒気を抜かれた私も笑いながら頷いた。
「ふふっ……。アレクシア様のおっしゃる通りです」
「……はい。本当に……」
――あ……笑った。
ほんの僅かだったけれど、漆黒の瞳が柔らかく弧を描いた。
初めて見たガイゼンさんの笑顔に、私は密かに感激する。
すると、ガイゼンさんはゆっくりと足を止めた。
ちょうど厨房に到着したのだ。
「では、お湯の準備をしてまいります」
「ああ、僕も一緒に行こう」
リディアとレイモンド様が揃って厨房の中へと入っていく。
私も二人に続いて厨房へ入ろうとした時、
「マリエーヌ様」
ガイゼンさんに呼び止められ、振り返る。
その先では、ガイゼンさんの真剣な眼差しが、真っすぐ私を見つめていた。
その様子から、何か大事なことを話そうとしているのだと察し、私はガイゼンさんの方に向き直る。
ガイゼンさんは一呼吸置き、静かに告げた。
「私は、三年前までレスティエール帝国騎士団に在籍しておりました」




