06.奇跡の差
アレクシア様とルディオス君が馬車で出発するのを見届けた後、私は今日一日護衛騎士を務めることになったガイゼンさんと共に自室へと戻った。
「では、私はここにおりますので、何かあればお声がけください」
どうやらガイゼンさんは私の部屋には入らず、扉の前で周囲への警戒に当たるらしい。
二人きりになり、少し緊張していた私は、それを聞いて密かに安堵した。
さっきは護衛騎士なのだから近くにいても構わないと言ったけれど、アレクシア様以外の男性と部屋で二人きりというのは、やっぱり落ち着かない。
リディアが一緒に居てくれたらよかったのだけど、彼女はあの後、別の仕事が残っているからと、そちらを片付けに向かった。
人手不足なのは騎士様だけでなく、使用人も同じ。
少ない人数できりもりしている彼女たちにまで迷惑をかけるわけにはいかない。
私はガイゼンさんに「では、よろしくお願いします」と声を掛け、部屋の扉を閉める。
それから窓際へと向かい、少しだけ窓を開けた。
途端、部屋に吹き込んだ風がふわりと顔を撫でる。暖かくて気持ちいい。
私は軽く深呼吸をして、窓から見える庭園をぼんやりと眺めた。
いつもならこの時間は、一ヶ月前に生まれたエマさんの娘、シェリーちゃんの様子を見に行くのだけど、今は少しだけ一人になりたかった。
景観良く整えられた庭園は、今日も色鮮やかな花々によって彩られ、日光を浴びて気持ちよさそうに綻んでいるように見える。
ここへ来たばかりの時は、まだ花の数も種類もそれほど多くはなかったけれど、日を重ねるにつれて少しずつ増えていき、今は公爵邸の中庭に負けないほどの規模になった。
それに連動するように、アレクシア様から贈られる花束も、少しずつバリエーションが増えていった。
視線を落とすと、すぐ傍に置かれていた花瓶が視界に入る。
その花瓶に生けられているのは、今朝、アレクシア様から贈られたカーネーション。
カーネーションは、花の色によって花言葉が違うらしく、アレクシア様が贈ってくれたのは、『純粋な愛情』という花言葉を持つオレンジ色と、『深い感謝』のピンク色。
常に花言葉を意識して選んでいるわけではないけれど、今日は私へのメッセージを花言葉に込めて選んだのだと言っていた。
愛情も、感謝の気持ちも、いつだって惜しみない言葉で伝えてくれているのに。
それでもまだ足りないというように、アレクシア様は溢れんばかりの想いを私に注いでくれる。
毎朝の花束だって、もう一年以上続いている。
毎朝花束を用意するのは、多忙なアレクシア様の負担になっているのではないかと思い、前に一度、花束を断ろうとしたことがあった。
だけどアレクシア様は、『微塵も負担になっていない』とはっきり言うと、私に毎朝花束を贈る理由を教えてくれた。
それは、前世で私が、アレクシア様のもとに毎日一輪ずつ花を届けていたから。
そのお礼も兼ねて、花束を贈り続けているのだという。
だとしても、私がアレクシア様に届けていたのは、たった一輪だけ。
それに対して、アレクシア様は毎朝花束にするための花を選び、丁寧に包んで仕上げてくれている。
その工程と時間を考えると、さすがに不相応な気がした。
「そんな大それたことはしていませんので……」
そう私が口にすると、アレクシア様は首を横に振り、
「君が僕に贈ってくれた花は、君が思う以上に、僕にとっては大きな意味があったんだ」
そう告げて、その意味を私に教えてくれた。
「僕の体では、君に会いに行くことができなかったから、君の姿が見えなくなると、ひどく不安な気持ちに駆られた。君という光を失った世界が暗転するような……自分でも情けなくなるくらい、心細かった。そんな時、いつも僕を勇気づけてくれたのが、君が贈ってくれた花々だった。君との繋がりを感じさせる存在がすぐ傍にある。その灯が、孤独な僕の世界を照らし続けてくれていたんだ」
どこか懐かしむような眼差しを遠くに向けながら、アレクシア様は嬉しそうに語った。
そんなアレクシア様の姿を前に、私自身も、前世でのことを思い出していた。
毎朝、一輪だけ。
そう自分の中で決めて、勝手に花を摘み取っていいかも分からない中庭で、一際目を惹くお花を選んでアレクシア様のお部屋へ持っていった。
部屋で過ごすことの多いアレクシア様が、少しでも外の世界を感じられますようにと、その花に願いを込めて――。
私にとっても、公爵邸の中庭に咲いていた花々は、特別な存在だった。
一人だけで過ごしていた公爵邸の自室は、何の色味もなく、飾り気のない場所で。
まるで白黒の世界に閉じ込められているようだった。
そんな窮屈な世界の中で、唯一変化をもたらしてくれたのは、窓から見える中庭の風景。
それは何の変化もない日常を繰り返すだけの私にとって、数少ない娯楽の一つだった。
毎日競うように開花し、美しい姿を綻ばせる花々。
その甘い香りに誘われて、ひらひらと舞う蝶の群れ。
強風に煽られようとも、粘り強く立ち上がる勇ましい植物たち。
いずれ花は散り、青々とした葉は色を失い枯れ落ちる。
それでも、儚くも力強い生命力に満ち溢れた生き様に、私は憧れさえ抱いていた。
遠目から見てもこれだけ美しいのだから、その中央から見る景色はどんなものだろうと、想像を膨らませた。
けれど、勝手に中庭へ入っていいのかも分からなくて、そこに行く勇気はなかった。
すぐ近くにあるはずなのに、とても遠い場所。
公爵夫人という肩書きをもってしても、私にはその世界へ足を踏み入れる資格がないように思えた。
『体の調子が良くなったら中庭に散歩へ行きましょう』
アレクシア様のお世話をするようになり、そんな誘い言葉が口をついて出たのも、私自身が中庭に行ってみたいという下心が少しだけあった。
だけどそれよりも早く、中庭へ向かう機会が訪れた。
アレクシア様のお部屋を掃除している時、使用されていない花瓶を見つけたのだ。
――公爵様のお部屋に飾るためなら、一輪だけ摘んできてもいいかしら……。
迷いながらも、私の胸は期待で膨らんでいた。
だって、あんなにも恋焦がれていた中庭へ向かう理由ができたのだから。
その翌朝、私は初めてあの中庭に足を踏み入れた。
壮観だった。
俯いてばかりいた自分の顔が自然と上向きになり、夢中になって辺りを見渡した。
誰にも見られていないのに、堂々と咲き誇る花々の気高さに、私は圧倒されっぱなしで……。
目が覚めるような感覚だった。
ほんの少しだけ、足を踏み出すことができたなら、こんなにも世界は変わる。
自分の世界を狭めていたのは、他でもない。自分自身だったのだと。
――早く、公爵様をここへお連れしたい。
もしかしたら、公爵様にとってはなんてことない景色なのかもしれない。
だけど、今の公爵様の世界は、かつての私と同じ。
自室の中だけに縛られている。
だからこそ、公爵様もここへ来れば、狭まりつつある自分の世界が、きっと広がるはず。
たとえ体は動かなくとも、私が公爵様を連れてくることはできるのだから。
光を失った瞳だって、ここへ来ればきっと、輝きを取り戻せるはず。
だから、大丈夫。
誰も味方がいなくても。
私たちの未来が想像できなくても。
きっと大丈夫。
私も、公爵様も。
この世界で、生きていける――。
堂々と咲き誇る花々たちに背を押されるように、あの時の私は、しっかりと未来を向くことができた。
――あの時は、中庭に足を伸ばしただけで世界が広がったと感激していたけれど、今は海を渡って異国の地にいるなんて……ずいぶんと遠くまで来てしまったわね。
その理由を思うと、少々複雑ではあるけれど。
私は、オレンジ色のカーネーションの花をそっと撫でる。
前世での出来事がなければ、アレクシア様が私を愛することはなかった。
だから、以前のアレクシア様を知っているルディオス君が、アレクシア様が私を好きになった理由を知りたがるのも理解できる。
それこそ、アレクシア様が変貌した理由が二重人格を発症したからだと信じていた頃の私のように……不安なのだ。
いつ、もとの冷たいアレクシア様に戻ってしまうのだろうかと。
――アレクシア様は、前世について、どこまで話をするつもりなのかしら……。
ルディオス君が知りたがっているのは、アレクシア様が私を好きになった理由。
それを要約するならば、前世で馬車の事故により体が不自由になったアレクシア様の身の回りの世話を 私がするようになり、そこから少しずつ関係を築いていった……と、それで十分な気はする。
だけど、使用人からの虐待、スザンナやレイモンド様とのこと、私たちの末路まで。
踏み込んだ話をするのであれば、アレクシア様の精神的苦痛も計り知れない。
それでも、唯一救いだったのは、その話をする場に私も同席すると言ってくれたこと。
アレクシア様が辛い思いをする可能性があるのなら、私はアレクシア様の傍に居たい。
辛い時、すぐ傍に誰かが居てくれる心強さを、私も知っているから。
それに、私たちの話を聞いた後のルディオス君の反応も気になる。
私たちと同様に、ルディオス君の身にも奇跡は起きた。
だけど、私たちに起きた奇跡とは、歴然とした差がある。
だって私たちは奇跡によって、死ぬ事自体を回避したのだから。
――この奇跡の差を、ルディオス君はどう受け止めるのかしら……。
ズキン……と、胸が痛む。
その時、コンコンコンと、軽やかなノック音が耳に飛びこんだ。
続いて、扉越しにガイゼンさんの声が聞こえてくる。
「マリエーヌ様。トンプソン夫人がいらっしゃいました」




