02.この命を使うのは sideルディオス
「ならば、もうお前の母親を守る必要はないな」
さも当然のように、この男はそう言った。
口を開けたまま唖然とする俺を、血の色に染まった瞳が悠々と見下ろす。
「もともとそういう約束だったはずだ。お前が僕に協力する代わりに、お前の母親を守ると。だが、ジーニアスは消え、お前も皇帝になる気がないと言うのなら、この計画におけるお前の役割はない。むしろ邪魔なだけだ。お前の母親に付けている護衛も全て引き上げさせ、こちらに回した方がマシだ」
「……‼」
ようやく意味を理解した。
この男は、使い道のなくなった俺だけでなく、母さんの事も見限ろうとしているのだと。
いかにも、利己的で効率重視なこの男らしい判断だと思う。
だが、短い期間とはいえ、あんなにも心を砕いて親切にしてくれた母さんを、こうもあっさりと切り捨てられるものなのか……⁉
カッと頭に血が上り、アレクシアを睨みつけるも、怒り任せに罵りはしない。
母さんの身を案ずるなら、下手に刺激するべきではない、と。
それだけは冷静に判断できた。
やり場のない怒りを噛み殺し、睨みを利かせてしまいそうになる視線を地に落とす。
「……もう少しだけ待ってほしい。ジーニアスが戻ってくれば、ちゃんと約束通り協力するから」
ジーニアスだって、母さんの命が危なくなるって分かれば、さすがに腹を括るはずだ。
そう思って懇願したが、返ってきた言葉は辛辣だった。
「もう十分待った。これ以上待つつもりはない」
「……! じゃあ、せめて母さんだけは守ってくれよ! 母さんに何かあったらマリエーヌさんだって悲しむだろ!」
「マリエーヌの耳に届けばな」
すげなく言い放たれた。
つまり、マリエーヌさんの耳に届かなければ、母さんがどうなろうとも関係ない、と言いたいのだろう。
――くそっ! この外道が!
喉元まで出かかった暴言を、ギリギリのところで呑みくだす。
そんな俺を冷ややかな眼差しで見下ろしながら、アレクシアは抑揚のない声で告げた。
「ルディオス。お前に最後のチャンスを与えてやる。お前が僕に協力し、皇帝になるのなら、お前の母親の身の安全は保証してやろう。だが、これを断るなら僕たちの関係はこの場をもって解消する。母親の所に駐在している護衛も即座に引き上げる」
あまりにも一方的な取引を持ち掛けられ、唖然とする。
この男と初めて対峙したあの日、協力するという話を持ち掛けたのは俺の方だった。
あの時は、対等な立場でこの男と交渉していたはずだ。
――それが、どうしてこんなことに……。
グルグルとこれまでの記憶を巡らせているうちに、気付いた。
俺は、最初からこの男を見くびっていたことに。
――そうだ。マリエーヌさんといる時の優しげな笑顔に騙されたんだ。
この男がマリエーヌさんに向ける眼差しは、一目で分かるほど慈愛に満ちていた。
すぐには信じられない光景ではあったが、それが演技だとは到底思えなかった。
数多の悪名を轟かせ、人々から恐れられていたこの男にも、心から愛する人物ができた。
それにより、人を慈しむ心が芽生えたのかもしれない。
そう思ってしまった。
だから、母さんを任せても問題ないだろうと。
自分の判断ミスに今更気付いたところで、もはやどうすることもできない。
過ぎたことを悔やむより、今、俺が考えるべきは母さんの身の安全だ。
公爵が行方を晦ます直前に滞在していた宿として、皇帝が目を付けている可能性もある。
それに、体の具合も心配だ。
また無理をして倒れたりしたら……。
――とにかく、母さんを一人にするのは危険だ。
この男が母さんを守らないというのなら、俺が戻って母さんを守るしかない。
とはいえ、俺だけでは母さんの所へ戻ることもできない。
船に乗るにしても、この男の協力が必要だ。
「この関係を解消したら、俺は母さんのところへ戻れるのか?」
「さあな。とりあえず僕たちの計画が終わるまでは拘束させてもらう。お前はこちら側の情報を知り過ぎているからな。全てが終われば母親のもとへ帰してやってもいい。それまで母親が無事でいられたら、だが」
「‼」
あまりにも勝手な言い分だった。
それでは護衛が居なくなり、無防備になった母さんを俺が守ることもできない。
――……ああ、そういうことかよ。
ようやく、この男の真の意図を理解した。
この男は最初から、母さんの命を利用して、俺を都合のいい駒として使おうとしていたのだと。
「ふざけんなよ……」
腹の底で煮え返るような怒りが、俺の声を震わせる。
必死に堰き止めていた怒りが、俺の中で猛烈に爆ぜた。
「あんた、最初からこうするつもりだったんだな! 母さんを守るふりをしながら、人質として利用することしか考えていなかったんだろ! 俺らの意思とは関係なく、自分の都合のいいよう動かすために!」
もう自分を抑える余裕もない。
怒りのままに非情な男を正面から罵倒した。
男は涼しい顔のまま、俺に向けた目を僅かに眇める。
「お前は馬鹿か? 母親の身柄をこちらに引き渡したのはお前だ。お前がこちらの意にそぐわない行動を取れば、そういう手段にでることくらい容易に想像できただろう。それに、この手段を選ばせたのはお前だ。お前が先に当初の約束を反故にしたのだから」
「……! だからって……こんなやり方……」
「甘ったれるな。これでも十分お前と女将に配慮してやったつもりだ。むしろここまでこの手段を使わなかった事を感謝すべきだ」
淡々と正論を言い募られ、反論する余地もない。
ジリジリと追い詰められるような感覚に、もう後がないのが分かる。
最初から俺に選択肢なんてない。
母さんを守るためには、この男の駒として、俺が皇帝になるしか……。
そう観念しかけた瞬間、かつてその座を目指し、邁進していた日々の記憶が脳裏に過った。
ぐらりと視界が回るような眩暈を覚え、こめかみを押さえる。
――やめろ……出てくるな……。
遠い昔に諦め、捨て払った欲望が、再び芽生える気配がした。
ジーニアスの内側で目覚め、何度も葛藤を繰り返し、抑え込んできたそれは――。
もう一度、ルディオスとして生きられるかもしれないという、淡い期待。
弟の体の中で、そんな欲を抱いてしまう自分自身に嫌悪感で吐き気がした。
俺が死んだのは自業自得だ。
だから俺が守るべきはジーニアスの命と未来だ。
俺が余計な欲をかくな。
ジーニアスのためだけに存在しろ。
これはジーニアスの身体だ。
勘違いするな。
二度と、そんな期待を抱くんじゃねぇ。
俺はもう――死んでるんだ。
激しい自己嫌悪に駆られながら、何度も何度も自分に言い聞かせた。
そうしてやっと、諦められた。
自分の死を素直に受け入れられるようになった。
そう思っていたのに……。
――まだ俺は、諦めきれていなかったのかよ……?
「で、どうするんだ?」
こちらの心情など微塵も興味がないというように、冷めきった声で促される。
その声で我に返り、頭を振って余計な思考を振り払った。
――どうするかって……そんなの、いちいち聞かなくても分かってるだろうが。
そんな悪態を心の中で吐き捨てながら、むしゃくしゃする頭をガシガシと掻きむしる。
「どうするもなにも……。あんたの言う通りにするしか……」
そこで、はたと閃いた。
この状況を形勢逆転できる唯一の方法を。
――そうだ。この男にだって、弱点があるじゃねぇか。
それもすぐ近く――俺の手の届く場所に。
数秒の沈黙を置いて、俺はニィッと唇の端を吊り上げた。
「あんた……そんな余裕ぶってていいのかよ?」
自分でも分かった。
今の俺は、すげえ悪人ヅラになってるだろうと。
だが、そんなのどうでもいい。
こうなったら、どうにかしてこの男に一矢報いてやらないと気が済まない。
相変わらず澄ました顔を崩さない男に、俺は悪人ヅラのまま告げた。
「俺だって、あんたの弱点は知ってんだ。あんたが母さんの命を使って俺を脅そうっていうなら、俺だってマリエーヌさんの命を――」
刹那、ヒュッと風を切る音が聞こえ、俺の声が掻き消えた。
気付けば、俺の目と鼻の先に男の顔が迫っていた。
瞳孔が開ききった赤い瞳が俺をしかと捕えている。
その奥にひしめく混沌とした殺意。
その禍々しさに思わず息を呑んだ。
「なんだ?」
地を這うような重低音が、身体の内側を振動させる。
更には喉を刺すような痛みに加え、尖った何かが頸動脈を圧迫しているせいか、呼吸ができない。
かろうじて視線だけを動かし、自分の置かれている状況を確認しようとした時、視界の端で黒色の細長い筒状の何かが落ちているのが見えた。
――あれは……万年筆のキャップ……?
つまり今、俺の喉に突き立てられているのは、この男がいつも持ち歩いている万年筆のペン先。
自分や皇帝に仇なす貴族たちを暗殺するために用いたという、毒仕込みの――。
「……っ!」
咄嗟に後ろへ回避しようとしたが、素早く襟元を掴まれ引き戻される。
刹那、足を強く踏みつけられ激痛が走る。
「いっ!」
「マリエーヌが、なんだと?」
ギシギシと、足の骨が軋む感覚に加え、空気を凍らせるほどの冷気が俺の身体に纏わりつく。
喉元では、鋭く尖ったペン先が急所を的確に捉えている。
少しでも動けば、ペン先はいとも簡単に薄い皮膚を貫くだろう。
身動き一つできず、言葉を発することもできない。
それでも、喉元に控えるペン先は、徐々に奥へと押し込まれていく。
――コイツ……本当に俺を殺す気か⁉
命の危機に瀕した俺は、潔く両手を挙げて降参の意を示す。
ピタリとペン先の動きが止まり、ようやく掴まれていた襟元を解放された。
自由の身になった安堵感からか、足に力が入らない。
よろよろと後ずさり、そのまま後ろに控えていたベッドにぶつかり、ストンと腰を落とした。
途端、ドッと疲労感が押し寄せ、鉄の塊でも背負わされたかのように体が重くなる。
今になって、ドクドクと早鐘を打ち始めた鼓動に、頭がクラクラとする。
「言動には気を付けろ。二度目はない」
そう言い捨てると、男は万年筆のキャップを閉め胸ポケットに収めた。
俺はしばらくの間、言葉を失ったまま茫然としていた。
本気で殺されると思った。
今、生きているのが不思議に思えるくらいに。
一瞬で距離を詰められ、歴然とした力の差で死命を制された。
たとえこの男の弱点を分かっていたとしても、その人物に手を出を出そうとすれば、こちらが先に殺される。
そんな気は、もはや微塵も残っていないが。
悔しい……。
こんなにも歴然とした力の差を見せつけられて。
羨ましい……。
大切な人を守る力を持っているこの男が。
火照っていた体の熱が急速に冷えていく。
おかげで頭も冷え、冷静になれた。
分かっていた。
俺の答えは、最初から一つしかないのだと。
「……あんたの言う通りにすれば、母さんは守ってくれるんだな」
「ああ。そういう約束だ」
「……分かったよ」
俺が承諾すると、アレクシアは最初から答えは分かっていたというように、さっさと踵を返す。
「朝食を終えたら執務室に来い」
そう言い残し、アレクシアは足早に部屋を去った。
一人だけとなった部屋の中は、すっかり明るくなっていた。
俺は背中からベッドに倒れ、脱力する。
起床したばかりだというのに、すでに疲労困憊だ。
瞼を閉じ、一度頭の中を整理する。
――俺が、皇帝に……か。
今まで頑なに拒絶し続けてきたのに、結局このザマだ。
歯向かう気力さえ失っている自分自身に、思わず失笑が零れる。
――結局、お前が望んだとおりになるのかよ……。
俺がジーニアスを皇帝にさせようとしたように、ジーニアスもまた、俺が皇帝になる事を望んでいた。
そのためなら、自分は消えても構わないとすら考えていた。
だからジーニアスは、この計画に協力することを躊躇わなかった。
俺の本当の目的が、ジーニアスを皇帝にすることだとも気付かずに。
だが、俺の目論見は思わぬかたちで頓挫された。
あの日、アレクシアの言葉に打ちのめされたジーニアスは、自暴自棄に陥り、生きる意志を完全に手放した。
その瞬間、ずっと繋がっていた糸が切り離されたような感覚と共に、俺はジーニアスと入れ替わっていた。
どうしてそんな事になってしまったのか。
その答えは、なんとなく分かっている。
恐らく、ジーニアスが生きようとする意志よりも、俺が生きたいと思う気持ちの方が上回ってしまったからだろう。
ここに来てから、俺が表に出る時間が極端に増えた。
アレクシアの手により強制的に表に引っ張り出されたり、ランディのこともあって一日に何度も入れ替わりを繰り返すようになった。
それに、この別荘にいる人間は全員、俺の存在を知っている。
だから瞳の色で人格を判別し、名前を呼んでくれた。
誰かに自分の名前を呼ばれるたび、胸の内側をくすぐられるような高揚感を覚えていた。
俺を、一人の人間として尊重してくれていることが、堪らなく嬉しかった。
他愛のない会話。
向けられる笑顔。
ちょっとした触れ合い。
そんな些細で、何でもないやりとりが、楽しかった。
そうした日々を過ごすうちに、あと少し、もう少しだけと、いつしか表に出ている時間を惜しむようになり、時には自分が死んでいることを忘れそうになるくらい夢中になってランディと遊んでいたこともある。
俺でいる時間が増えていることに、ジーニアスは不満を抱かなかった。
ただ一つだけ、俺がランディと仲良くしていることだけは気に入らなかったようだが。
それも当然だ。
俺だって、もしもジーニアスが兄のように慕う相手が現れていたら、今度こそ自分の存在意義を見失っていただろう。
――俺が、お前の居場所を奪っちまったんだよな……。
俺になついているランディを突き放すこともできず、心地良い環境に甘んじていた。
あれほど欲をかくなと自分を戒めていたのにも拘わらず、甲斐性がない自分に心底嫌気が差す。
重々しい溜息を吐き出し、思考を切り離した。
過ぎた事を悔やむよりも、やるべきことがある。
ジーニアスの事を諦めたわけじゃないが、母さんを守るためにも、今は俺が動くしかない。
「やってやろうじゃねぇか……」
唸るような声が喉を鳴らす。
ほとばしる闘志が全身を駆け巡るのを感じながら、俺はゆっくりと起き上がった。
胸の内側が火を灯したように熱くなり、ドクン、ドクンと次第に大きくなる心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。
右手で触れると、その感触が直に伝わってきた。
激しく主張を繰り返す振動。
一度は途絶えたはずの生命の鼓動が、俺の手の平を何度も打ちつける。
――生きているんだな……この体は……。
途端、目頭がじわりと熱くなり、視界が滲んでいく。
いつの間に、俺の欲はこんなにも膨れ上がっていたのだろうか。
――ジーニアス。本当に、いいのか……? 俺が、この命をもらっても……。
弟のためにと守り続けた弟の命の鼓動に触れながら、そんな期待に胸を膨らませている自分が、ひどく情けなくて、愚かで、滑稽に思えた。




