01.赤い瞳 sideルディオス
爽やかな鳥のさえずりが遠くから聞こえる。
朝の気配を察して、薄く瞼を開いた。
窓から差し込む薄明かりの様子から、まだ日の出前なのだろう。
何度か瞬きを繰り返し、視界にまとわりつく前髪をかき上げた。
直後、思いのままに動く体に思わず嘆息する。
「やっぱダメか……」
指に絡みつく髪を解き、ベッドの上で両腕を投げ出す。
すっかり見慣れた天井を眺めながら、はあぁぁぁ……と、渾身の溜息を吐き出した。
今日もジーニアスは出てこない。
相変わらず意識の内側に引きこもったままだ。
ジーニアスから一方的に体の所有権を押し付けられ、もう一ヶ月が過ぎた。
最初のうちは、朝になればジーニアスとして覚醒していたが、ここしばらくは目が覚めても俺のままだ。
これまで何度もジーニアスとの入れ替わりを試みてはみたが、どうにもうまくいかない。
難なく入れ替われていた時が不思議に思えるくらいだ。
いったい、今のジーニアスはどういう状態なのか。
以前の俺のように、意識だけの存在として内側から俺と同じ光景を見ているのか。
それとも、意識すらない状態で眠り続けているのか。
考えたところで答えが出るわけもなく、そのうち出てくるだろうという希望的観測を持ちながら今まで過ごしてきた。
だが、身近に感じていたジーニアスの気配が、日を追うごとにだんだんと薄れていっているように思える。
――このままじゃ、本当にジーニアスは消えちまうんじゃ……。
頭を過る不吉な予感を払拭するよう、瞼をきつく閉じた。
「くそっ!」
押し寄せる焦燥を拳に握りしめ、ベッドに叩きつけた。
ギリッと奥歯を噛みしめ、届くかも分からない問いかけを心の中で呟く。
――お前、どうすんだよ……?
当然、返答はない。
自分の片割れを見失い、真っ暗な深淵にただ一人だけ取り残されてしまったような……そんな寂寥感に心が支配されていく。
九歳で殺され、ジーニアスの中で覚醒して以来、俺はずっと弟を守るためだけに存在していた。
ジーニアスは、前公爵の手引きによりレスティエール帝国を脱したものの、身寄りもない土地に身一つで生きていかなければならなかった。
無法者の巣窟みたいな場所で、幾度となく身の危機に晒された。
そのたびに、俺が表立ってジーニアスを守ってきた。
生きるために、盗みをはたらくこともあった。
ジーニアスの体で犯罪に手を染めるのは抵抗があったが、そうでもしなきゃ生きていけなかった。
正義感なんてものを振りかざしたところで、飢えはしのげない。
日の当たる場所に出れば、一斉に注がれる憐憫の眼差し。
中には汚物でも見るように顔を顰める奴や、見て見ぬふりを決め込む奴、偽善的な笑顔でその場限りの施しを差し出す奴もいた。
皇宮で周囲の人間からもてはやされ、何不自由なく過ごしていた俺にとっては、何もかもが耐え難くて屈辱の連続だった。
そういう面では、ジーニアスの方が辛抱強かったと思う。
それでも、その屈辱的な日々に耐え続けてきたのは、これがジーニアスの体であり、命だったからだ。
ただ弟を守るため。
そのためだけに、必死に生きてきた。
ジーニアスだって、自分の中にいる俺の存在を心の支えにして生きてきた。
そうやって、俺たちは互いの存在に支えられ、守られながら生きてきたんだ。
それなのに……今は守るべき弟が、ここにいない。
じゃあ、俺は……。
――俺は、これからどうすればいいんだよ……?
追いすがるような問いかけも、心の中で虚しく反響するだけ。
茫然と天井を眺めるだけの、無駄な時間が流れていく。
カチッカチッと、秒針が時を刻む音が俺をいちいちせっついてくる。
どんなに打ちひしがれて、動けなくなったとしても、時の流れは止まらない。
どれほど切に願ったとしても、巻き戻ってはくれない。
ただひたむきに、前へ前へと進んでいく。
この世に生きる人々の寿命を削り続けながら。
――……着替えるか。
去りゆく時間に置いていかれないよう、なんとか気持ちを持ち直す。
ベッドから立ち上がり、着替えに取りかかった。
襟付きの白いシャツに袖を通し、ボタンを留めていく。
長い前髪がいつも以上に鬱陶しい。
舌打ちしながら手荒く前髪をかき上げた時、姿見に映る自分と目が合った。
自己主張が強いルビーのように煌めく真紅の瞳。
直後、鏡の中の自分が不快げに眉を顰める。
ジーニアスと引き離される要因となったこの瞳が、俺はずっと嫌いだった。
この赤い瞳がいかに崇高であるか、皆が口を揃えて称える一方で、俺は血の色みたいで気持ち悪いとすら思っていた。
それに比べてジーニアスの瞳は、凪いだ海を連想させるような深く澄んだ群青色で、精細な美しさを兼ね備えていた。
どうせなら、俺もジーニアスと同じ青い瞳がよかった。
そう何度思ったことか。
――まあ、もしそうなっていたとしたら、俺もジーニアスも不貞の子として、産まれた瞬間に殺されていただろうけどな。
実際、俺が産まれるよりも前にあったらしい。
赤い瞳を持たずして生まれた赤子を、自分の子ではないと疑った皇帝が皇妃もろとも殺害した例が。
出産中の不幸があったとして、その事実は公にされていない。
俺は一番上の兄からその話を聞いたことがあった。
兄は、当時の皇帝の遺した手記を読み、その事実を知ったらしい。
だからお前たちは運が良かったなと、軽い口調で言われた。
俺まで青い瞳だったら、二人とも殺されていただろうから、という意味だったんだろう。
――それなら兄上だって運が良かっただけだろ……。
そう、運が良かったんだ。
俺も兄たちも。
だって赤い瞳を持って生まれるかどうかなんて、確立の問題だ。
これまでの皇族がたまたま赤い瞳を継いだだけで、ジーニアスのように母親の瞳の色を継いだとしても、生物学的には何も不思議はない。
むしろジーニアスの存在こそが、『皇族は必ず赤い瞳を持って生まれる』なんていうくだらない概念を排除するための十分な理由になったはずだ。
それなのに、結果的に排除されたのは赤い瞳を持たないジーニアスの方だった。
ジーニアスだけじゃない。
不貞行為があったと決めつけられ殺された皇妃も。
存在することも許されず、生まれた瞬間に殺された皇子も。
この瞳にくだらない価値観を植え付けた人間たちのエゴにより、彼らだって犠牲になったんだ。
――何が皇族の証だ。馬鹿馬鹿しい。
姿見から視線を外し、前髪を括る紐を手に取る。
ふいに、扉の方で人の気配を察知した。
咄嗟に俺が振り返るのと、扉が開くのは同時だった。
ノックもせずに人の部屋に入ってくる不躾な奴は一人しかいない。
俺は思いっきり顔を顰めながらそいつを睨んだ。
「だから、ノックくらいしろって」
「それくらい気配で察しろ」
俺の苦言をあっさりと一蹴し、その人物、アレクシア・ウィルフォードはズカズカと部屋に入ってくる。
つくづく人の話を聞こうとしない自己中な野郎だ。
それはいつもの事だが、こんな早朝にこの男が現れるのは初めてだ。
――……今日は庭園に行かないのか?
突然の訪問を訝しく思いながら、窓から見える庭園を一瞥する。
いつもなら、この男はこの時間、庭園で花を摘んでいる。
それも、妻であるマリエーヌさんに贈る花束を用意するためにだ。
この部屋の窓からは庭園がよく見えるのもあって、何度かその姿を見かけたことがある。
……が、はっきり言って、気持ち悪くて見ていられなかった。
鼻歌でも口ずさみそうなほどの薄気味悪い微笑。
恍惚とした瞳は花々へと向けられ、まるで会話でもしているかのように時折動く唇。
フフッと急に笑い出したかと思えば、うっとりとした眼差しで遠くを見つめ出したり。
とにかく全身に鳥肌が立つほど不気味だった。
――嫌なもん思い出しちまったな……。
その光景を思い出しただけでもゾッと悪寒が走り、粟立つ肌をさすった。
アレクシアは俺から少し離れた位置で立ち止まると、悠々と腕を組み、俺を見下ろす。
身長差があるから仕方がないとはいえ、威圧的な態度で見下ろされるのは気分が悪い。
当の本人には、相手を不快にさせている自覚なんて無いんだろうが。
なんとなくムカついて、俺も溜息交じりに腕を組み、不遜な態度で応対する。
「なんだよ。こんな時間に。俺に何か用があんのか?」
薄目で睨みながら口をとがらせたが、男は表情の一つも変えない。
俺と同じ赤い瞳は、相変わらず俺を見下している。
――やっぱり嫌いだ。この瞳。
俺の中で抑え込んでいた苛立ちが更に膨れ上がるのを感じる。
「……っつうか、今日は愛する妻のための花束ってのを用意しなくていいのか? 毎朝楽しそうに花を摘んでたじゃねぇか。あれはもうやめたのか?」
「この後に行く。マリエーヌには、できる限り鮮度の良い花束を贈りたいからな」
皮肉を口にしたつもりが、真面目腐った顔で即答された。
――結局行くのかよ……。
思わず失笑が零れ、げんなりとする。
冷酷無慈悲な殺人鬼。隻眼の死神。
なんて二つ名で世を震撼させた男が、今は愛する妻のために毎朝足繫く庭園に通い花を摘んでるとか……訳が分かんねぇよ。
「ははっ。相変わらずめでてえ頭してんな、あんたらは。特別な日ってわけでもねぇのに、毎日毎日花束を贈られて、さすがにマリエーヌさんも飽き飽きしてんじゃねぇの? ま、お人好しなあの人のことだから文句の一つも口にしねぇんだろうけど――」
「特別な日だ」
鼓膜を震わすほどの重量のある声が、俺の言葉を遮った。
一瞬で空気が変わったのを感じ取り、思わず身構える。
――……さすがに煽り過ぎたか?
だが、こちらを見据える赤い瞳は、物静かに俺を見据えていた。
寸分の濁りもない真っすぐな眼差しを向けられて、なんとなく後ろめたい気持ちに駆られた俺は、浮かべていた薄ら笑いを消す。
すると、先ほどとは打って変わり、囁きにも似た静かな声が、沈黙の中に響いた。
「僕にとって、マリエーヌと共に過ごせる日々は、毎日が特別だ」
「……」
――惚気かよ……。
そう突っ返してやろうと思ったが、言葉が出なかった。
不覚にも想像してしまった。
もしも今、ここにジーニアスがいたのなら、と。
そしたら、その言葉の意味が理解できた。
もしもジーニアスと共に生きられる世界線があったなら――俺にとっても、毎日が特別な日だと言えるような気がしたからだ。
俺に向けられている赤い瞳が、どことなく俺を哀れんでいるようにも見えて、咄嗟に目を逸らした。
「ははっ……意味分かんねぇ」
素っ気なく吐き捨てながらも、正直、羨ましいと思った。
自分にとってかけがえのない大切な人と、そんな風に毎日を尊びながら生きていられるこの男が。
――余計なこと言うんじゃなかったな……。
心の底から後悔した。
そのせいで聞きたくもない惚気を聞かされて、自分との境遇の違いを思い知らされて……気分は最悪だ。
不幸のどん底に沈んでいる時ほど、幸せを体現している人間の言葉は余計に傷を抉ってくる。
感傷に浸りそうになる気持ちを噛み殺しながら、うざったい前髪をかきあげた。
「で、俺に何か用か?」
訊きながら、後ろに流した前髪を頭上で一括りにする。
用事があるならさっさと終わらせて、早くこの男を視界から消してしまいたい。
「お前はどうするつもりだ?」
「は?」
質問を質問で返されて、こちらも聞き返す。なんだこれ。言葉が通じないのか?
「どうするって、何がだよ」
「お前は本当に、皇帝になるつもりがないのか?」
――またその話かよ。
うんざりとしながら、わざとらしく溜息を吐き出した。
「何度も言ってんじゃねぇか。俺は皇帝になるつもりはねぇって」
「そうか」
意外にもあっさりと引き下がられて、拍子抜けする。
呆気に取られながらアレクシアを見ると、まるで俺への興味を失ったかのようにそっぽを向いていた。
「ならば、もうお前の母親を守る必要はないな」
「…………は?」
なんでここで母さんの話が出てくるのか、すぐには理解できなかった。




