18.それは新しい人格ですか……?
「公爵様。初めまして。私はマリエーヌの妹のスザンナと申します」
スザンナは立ち上がると、さっきまで私に対して見せていた横柄な態度を一転させ、淑女らしく丁寧なお辞儀を公爵様にしてみせた。
公爵様はそれを感情の無い冷めた瞳で見ている。
「……ああ。お前の事は知っている」
「え?」
公爵様の言葉に、スザンナは驚いた様子で顔を持ち上げた後、うっすらと笑みを浮かべた。
「あ……もしかして公爵様、私の事を御存じでいらっしゃるのですか!? とても光栄です!」
スザンナは嬉しそうな声を上げて喜んでいるけれど、今の公爵様の声は明らかにいつもの声よりも低くて、とても友好的な相手に向ける声色では無いと思う。
それに結婚相手の事については事前調査は済んでいるだろうし、スザンナの存在を知っていてもおかしくないのに。
それでもスザンナは今も公爵様に惚ける様な眼差しを送りながら可愛らしく身をフリフリしている。
お花畑の中に居る様な彼女の能天気さと、氷山の上に立っている様な冷気を放つ公爵様の姿の温度差に見ているこちらがヒヤヒヤさせられる。
スザンナはおもむろに豊かな胸を強調させる様に公爵様の前に立つと、大きな瞳を潤わせながら上目遣いで見上げた。
「公爵様、あの……よろしければ今からお二人でお話ししませんか? その……公爵様が知らないお姉様の話とか聞きたくありませんか? きっと有意義な時間が過ごせると思うのですけど……」
「ほう……?」
スザンナの誘う様な言葉に、公爵様は興味ありげに目を細めた。
公爵様の意外な反応に、私は少しだけ胸の奥がツキンと痛んだ。
嫌な思い出が蘇る。
幼い頃、私を好きだと言ってくれた男の子が、次の日には私を無視してスザンナにベッタリとくっついていた事を。
さっきまで自信を持って公爵様に愛されていると思っていた気持ちが少しだけ揺るぎ出す。
「マリエーヌ。申し訳ないが、今日は先に食堂へ行っていてもらえるか? もしかしたら遅くなるかもしれないから、リディアと一緒に食べるといい。たまには二人でゆっくり食事を楽しんでくれ」
沈む気持ちに追い打ちをかける様な公爵様の言葉に、私は唖然としながら公爵様を見つめた。
公爵様はいつもと変わらない、穏やかな笑みを私に向けている。
公爵様が私との食事よりもスザンナの話を優先するなんて……。
いつもの公爵様ならきっとありえない。
何よりも私との時間を優先する人だから――。
でも……。
私はちらりとスザンナへ視線を移す。
彼女は「ほらね?」と私に向けて勝ち誇るかの様に笑みを返した。
スザンナは公爵様を誘惑する気だ。
もし、公爵様がその誘惑にのってしまったら……?
ありえない……ありえない事なのは分かっているけれど、一度沈んでしまった気持ちは、そう簡単には浮上しない。
胸の中を埋め尽くそうとする不安を奥歯で噛み殺して、私は精一杯の作り笑顔を公爵様に向けた。
「分かりました。どうか私の事は気になさらずに、お二人はごゆっくりと会話をお楽しみください」
そう告げると私は素っ気なく顔を背け、踵を返して扉の方へと歩いていく。
八つ当たりをする様な嫌な言い方をしてしまった自分の幼稚さに泣きそうになる。
あんな態度を取ってしまって、公爵様に嫌われたらどうしよう。
次々と襲いかかってくる不安な気持ちを胸に抱き、ドアノブに手を伸ばしたその時――。
「マリエーヌ」
いつの間にか、私のすぐ後ろに来ていた公爵様の声が私のすぐ耳元で聞こえた。
いつも嬉しそうに呼んでくれる声とは違う、少し低くて真剣な声。
公爵様の顔は私からは見えないのに、真剣に見つめてくる公爵様の表情が鮮明に想像出来て、ドキドキと心臓が暴れ出す。
声だけでこんなにドキドキするのに、振り返って本物の公爵様の姿を見てしまったら一体私はどうなってしまうのだろうか……。
私は振り返る事も出来ず、公爵様に背を向けたまま、顔を伏せた。
次の瞬間、私の顔の横を公爵様の手が通り抜け、トン……とまだ閉じたままの扉に置かれた。
公爵様と扉に挟まれ、すぐ後ろには公爵様の息遣いを感じる。
触れるか触れないかのギリギリの距離なのに、その存在をとても近くに感じてしまう。
耳元に公爵様の吐息を受け、耳の先が熱を帯び始め、伝染する様に体が火照りだす。
「マリエーヌ。君が今、何を考えているかは分からないが、何も心配する事は無い。僕の気持ちが君以外に向けられる事なんて絶対にありえないから。僕が愛しているのは君一人だけだ。それはこの先もずっと永遠に変わらない」
再び耳元で囁かれる甘い言葉に、胸がドキドキと高鳴る。
どうしよう。公爵様にもこの音が聞こえてないかしら?
「マリエーヌ、こっちを見てくれないか」
え……!?
こちらとしてはもういっぱいいっぱいなのだけど……
心臓がドキドキしすぎて体からはみ出してしまいそう。
「マリエーヌ。お願いだ。こっちを見て」
訴えかける様な声と共に更に公爵様の体が近付き、後ろから抱き締められている様な感覚になる。
公爵様、今日はなんだかいつもよりもすごく積極的なのだけど……!
本当に最近の公爵様はどうしてしまったのだろうか。
もしかしてもう一つの人格が現れてしまった、なんて事はないのかしら……?
そんな事を頭の中で討論していても公爵様が引いてくれる様子は無く、覚悟を決めた私は力を振り絞って公爵様の方を振り返った。
予想以上に近い距離に居て、思わず後ずさろうとしたけれど、扉に挟まれて失敗に終わった。
いつになく真剣な瞳で私を真っすぐ見つめる公爵様。
その瞳は私の本心を探るかの様にも見える。
それなのに公爵様が何を考えているのかは私には全く分からない。
戸惑う私に、公爵様の恐ろしい程整った顔がゆっくりと近付いてくる。
え……?
こ、これはまさか……まさかキ……!?
思わず目を閉じてしまった時、私の肩の辺りの髪の毛が摘まれた気がして、目をうっすらあけた。
公爵様はすぐ私の口元の近くで私の髪の束を手に取り、それに口づけていた。
少しだけ……ほんの少しだけ、期待外れの様な感覚に戸惑いながらも、今もまだ私の髪に口づけしたままの公爵様の瞳がパチリと開き、私と目が合うと嬉しそうに目を細められた。
「本当はその唇にしたかったんだが……今日はこれで我慢しておくよ」
そう告げると、公爵様はゆっくりと私から離れて行った。
熱くなる顔を伏せたまま、応接室から出た私はドアを閉めるのも忘れて廊下を歩き出した。
先程までの不安など、一瞬で吹き飛んでしまった。
頭の中は公爵様の事で一杯だ。
体が尋常じゃなく熱い。
全身が心臓にでもなったかの様に脈打っている。
公爵様が私に甘い言葉を言って下さるのはいつもの事だけど、今みたいに真剣な声で言われるのはあの日以来かもしれない。公爵様がお変わりになられたあの時の――。
その事を想い出しながら、少しでも顔の熱をどうにかしようと両手で頬を触れば、その熱で冷たかった手も一瞬で熱くなった。




