31.対照的な存在
ランディ君がいつ、どこでその手紙を見たのかは分からない。
けれど、ランディ君が見てしまったのは、エマさんが自分の死を想定して書いた遺書の事だろう。
今朝、落ち込んで見えたのもそれが原因だったのかもしれない。
「ランディ! お前、どうしたんだ?」
ランディ君の泣き声が聞こえたのか、ルディオス君がバルコニーにやってきた。
ルディオス君を見た瞬間、ランディ君は駆け出し、その体にしがみついた。
「ルディオス兄ちゃん! お母さんが……ううっ……」
「⁉ 出産中に何かあったのか⁉」
焦るような声で問われ、私は首を振って否定する。
「いえ、何も……。エマさんが陣痛に苦しむのを見て、不安になってしまったみたいなの」
「……ああ、そういう事か」
まだ何が起きたわけではないと知り、ルディオス君は安堵するように肩を落とす。
それから、ルディオス君の体にしがみついたまま泣き続けるランディ君に声を掛けた。
「おい、ランディ。落ち着けよ」
言いながら、宥めるようにポンポンと背中を叩く。
しばらく泣き続けていたランディ君は、ルディオス君の温もりに安心したのか、やがてぽつりと言葉を零した。
「手紙が……お母さんが……」
「手紙?」
ルディオス君は首を傾げるも、私は今度こそ確信する。
――やっぱり、エマさんの遺書の事ね……。エマさんに断りもなくルディオス君に遺書の存在を知られるのは気が引けるけれど、もう仕方ないわ。
私はランディ君の傍まで歩み寄り、視線を合わせて問いかけた。
「ランディ君。手紙って、木箱に入っていたものかしら?」
ランディ君は、ルディオス君の服に顔を埋めたまま、ゆっくりと頷いた。
神妙な顔で首を傾げるルディオス君に、私は説明する。
「エマさんは不測の事態を考えて、家族へ宛てた手紙を書いていたの。それをランディ君がみつけて読んでしまったみたいね」
すると、ランディ君は顔を少しだけこちらに向け、懸命に声を絞り出す。
「封筒に……僕の名前が書いてあったから……何が書いてあるのか……気になって……」
七歳といえば、好奇心旺盛な時期なのだろう。普段のランディ君を見ていてもそれがよく分かる。
そんな時に、もし自分に宛てた手紙が隠されているのを見つけたら、我慢できずに読んでしまうのも頷ける。
少し悪い事をしているようなドキドキ感と、期待に胸を膨らませながら読んだに違いない。
それなのに、その手紙が母親の遺書だと知った時のショックは相当なものだったはず。
それがランディ君の中で『出産=死』というイメージを強く結び付けてしまったのかもしれない。
「……ああ、なるほどな。それでお前は急に怖くなっちまったってわけか」
ルディオス君も、手紙がどのようなものだったのかを察したようで、しぶしぶと頷いた。
私はとにかくランディ君を落ち着かせようと、声を掛ける。
「ランディ君。大丈夫だから――」
「大丈夫なら、どうしてお母さんはあんな手紙を書いたの⁉」
弾かれたように顔を上げて、ランディ君は乱暴に声を荒げた。
その気迫に圧倒され、私は反射的に身を引く。
こちらを睨みつけるランディ君に、私は戸惑いながら告げた。
「どうしてって……それは……」
――もしもの時を考えたからで……。
ハッと息を呑み、私はそれ以上何も言えなくなった。
「大丈夫。でも、もしもの事があるから……」なんて、矛盾している。
大丈夫だという保証なんてない。
そんな保証があれば、最初からエマさんは遺書なんて残していないのだから。
『大丈夫』と繰り返す私の無責任な言葉に、ランディ君は強く反発したのだろう。
それに対する怒りが勝ったからか、ランディ君の涙は止まっていた。
耳が痛いほどの沈黙が流れ――。
「ランディ。お前、そんな事も分かんねぇのか?」
その沈黙を破ったのはルディオス君だった。
それまで怒りに満ちていたランディ君の顔が、一転してキョトンとなる。
「ルディオス兄ちゃんには分かるの?」
「ああ。簡単な事だぜ」
自信満々に告げると、ランディ君が答えを求めるようにルディオス君を注視する。
「お前を愛しているからだろ」
「……」
ルディオス君の出した答えに、ランディ君は目を瞬かせる。
「それは知ってるけど……。僕が知りたいのはそういう事じゃなくて……。大丈夫じゃないんでしょ? 出産って……お母さんが死んじゃうかもしれないんでしょ⁉ さっきだって、あんなに苦しそうにしてたし……」
「ああ、そりゃしんどいだろ。人の体から人が出てくんだから。そうやってお前だって生まれてきたんだ。それが分かったんなら、もっと母親に感謝しろよな」
さらりと告げ、ルディオス君はポンポンとランディ君の頭を叩く。
ランディ君は少しムスッとしながら口を尖らせる。
自分の望んだ回答じゃない事が不満なのだろう。
確かに、ルディオス君の解答は微妙に論点から外れているけれど、あんなに取り乱していたランディ君が少しずつ落ち着きを取り戻している。
狙ってやっているのだとしたら、ルディオス君も相当な策士だと思う。
それまでの興奮は収まったものの、納得いかない様子のランディ君を見て、ルディオス君は軽く息を吐く。
それからランディ君の前で膝を突き、視線を合わせて語りかけた。
「ランディ。お前の気持ちは分からなくもねぇけど、そもそも人がいつ死ぬかなんて誰にもわかんねぇんだよ。お前は忘れてるかもしんねぇけど、俺だって本当は死んでるんだからな。それも九歳の時にだぜ」
「!」
ランディ君はハッとしたように顔を上げた。
私も時々、その事実を忘れかける。
だってルディオス君は、今もここに……ジーニアス君の体の中に、確かに存在するのだから。
ルディオス君はランディ君としっかり視線を交わし、口を開いた。
「俺の母親も、俺が三歳の時に死んだらしい。複雑な事情があったから、俺は生まれて以来、母親と会う事もできなかった。だから、母親との思い出が俺にはない」
「……え?」
ルディオス君の話を聞いて、ランディ君はショックを受けたように固まった。
けれどルディオス君は慰めの言葉をかける事もなく、真剣な眼差しのまま先を続ける。
「両親が生きている今の現状を、当たり前だと思うな。理不尽な死なんて、この世のどこにでも溢れてるんだ。酷な事を言うかもしんねぇけど、お前だって明日、生きてる保証なんてねぇんだよ」
「……僕も、死んじゃうの……?」
怯えるような問いかけに、それでもルディオス君はゆっくりと頷く。
「ああ、いつかはな。それがいつになるかってだけで、皆いつかは死ぬんだよ。生きている限り、必ずな」
「……」
深刻げな顔で黙り込んだランディ君に、ふとルディオス君が笑みを零した。
今までの重厚感のある声とは打って変わり、いつもの軽い口調で告げる。
「だから、その時が来るまでに自分がどんな風に生きるのか、ちゃんと考えて行動しろよ。自分だけじゃなく、相手に対してもだ。伝えたい事、してあげたい事があるなら、できるうちにしとかねぇと。いつその時が来ても、後悔のないようにな」
「……後悔のないように……」
その言葉を噛みしめるように、ランディ君が呟く。
「俺はもう、どうする事もできねぇけど……お前はまだ間に合うだろ」
そう言いながら、ルディオス君はランディ君の頭にポンッと手を置いた。
ルディオス君から告げられる言葉だからこそ、重みが違う。
ある日突然、命を奪われたルディオス君は、いったいどれほどの未練を残しているのだろう。
意識だけの存在となり、この世に縛られ続けているからこそ、その未練が今も彼を苦しめ続けているのではないかと思わずにはいられない。
これまでそういう素振りを見せていなかったから分からなかったけれど……。
今もランディ君を励ます姿の裏に隠された、彼が抱えている後悔の数々を想像し、胸が苦しくなった。
ランディ君は依然として黙ったままだけど、少しぎこちなく視線が泳いでいる。
もじもじとするような、どうすべきかと迷うような姿に、私は声を掛けた。
「ランディ君」
「!」
私の声に反応して、ランディ君は弾かれるように顔を上げた。
私と目が合うと、少し気まずげに視線を彷徨わせ、やがてこちらへと戻ってくる。
泣き腫らした目で、ジッと私を見つめる。
――よかった。話は聞いてくれそうね。
緊張気味のランディ君を安心させるように微笑みかけ、手紙には書かれていなかったであろうエマさんの想いを伝える。
「確かにエマさんはあの手紙を書いたけれど、死ぬつもりは少しも無いってはっきり言っていたわ。必ず生きて家族みんなでお父さんと再会するって」
「お父さん……」
ずっと会えていない父親の姿を思い出したからか、ランディ君の瞳に新たな涙が浮かぶ。
そういう素振りをあまり見せていなかったけれど、ここに父親がいない事にも寂しさを募らせていたのだろう。
「だから今は、無事に赤ちゃんが産まれてくる事を信じるべきだと思うの」
「……うん」
素直に頷いて、ランディ君はゴシゴシと服の袖で涙を拭う。
それから気まずげに私を見上げ、まるでいたずらを反省する子供のような顔で口を開いた。
「さっきはごめんなさい。マリエーヌ様は何も悪くないのに……怒っちゃって……」
まさか謝罪が飛び出すとは思わなくて、思わず呆気に取られる。
誰から言われるまでもなく、悪いと思った事を自分で謝れるランディ君は、きっと良いお兄ちゃんになると思う。
私はニッコリと微笑みかけ、首を横に振った。
「いいのよ。私だって、ランディ君と同じ立場だったら不安でたまらなくなっていたと思うわ」
それでもまだ暗い顔をしているランディ君に、ルディオス君が活を入れる。
「それよりランディ。お前ここでめそめそ泣いてる場合じゃねぇだろ。兄貴になるんだろ? そんな情けねぇ姿、見せていいのか?」
その言葉に、ランディ君はハッとしたように顔を上げた。
その瞳が強い意志を宿したかのようにキラリと煌めく。
「僕、お母さんのところに戻る! お母さんと赤ちゃんを応援しなくちゃ!」
すっかりお兄ちゃんの顔になったランディ君は、意気揚々と駆け出した。
その後を追うように私もバルコニーから出ようとして、足を止めた。
振り返り、ルディオス君に声を掛ける。
「ルディオス君は行かないの?」
「ああ。俺はいい」
ルディオス君は私から顔を逸らし、遠くを見据えた。
月明りに照らされた横顔は、虚しげな笑みを浮かべている。
「ちゃんと祝福できるか、分かんねぇからな……」
その呟きは、夜風にかき消されそうなほど、弱々しい声だった――。




