30.出産
その夜――。
「マリエーヌ様! エマ様が産気づかれました!」
自室から寝室へ向かおうとした時、廊下を駆けてやってきた不寝番の侍女が私に呼び掛けた。
ついに、エマさんの出産の時が訪れた――。
エマさんの部屋に着くと、侍女たちが大量のお湯やタオルを運んで出産の準備を始めていた。
すでに勤務を終えていたリディアとアイシャも協力してお湯を運んでいる。
間もなくして産婆さんとお医者様が訪れ、すぐにエマさんの診察を始めた。
出産に立ち会うのは私とエマさんの子供たちと、この場にいる侍女のみ。
アレクシア様は、出産が終わるまでは自室で待機しているとの事だった。
エマさんは落ち着いた様子でベッドに横になっていたけれど、すぐにその顔が苦しげに歪み、痛みに耐えるようにシーツを握りしめる。
その様子を見ていた産婆さんが、まだ少し陣痛の間隔は長いけれど、三人目だからお産は早く進むはずだと教えてくれた。
出産までの流れは私もあらかじめ聞いているので、いつその時が来てもいいようにと気を引き締める。
定期的に訪れる陣痛に耐えるエマさんの腰辺りを、マグナス君が何度も手でさすっている。
こうすると少しだけ楽になるのだという。
マグナス君は、ランディ君が産まれる時にも立ち会った経験があるらしく、産婆さんもびっくりするほどの落ち着きを見せている。
――マグナス君、本当にしっかりしているわ……。
心強いその姿に感心しているうちに、少しずつ陣痛の間隔は短くなる。
産婆さんはいよいよ出番だとばかりに腕の袖をまくり上げ、周囲の空気が緊張感に包まれた。
準備を終えた侍女たちも、両手を組んで祈るように見守っている。
私はお産に立ち会うのはこれが初めて。
何度も深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
私がお産をするわけでもないのに、緊張で喉がカラカラだ。
握りしめる手の平も汗で湿っている。
ふと、手紙が入った木箱が脳裏に過るも、すぐに頭を振ってそれを払い退けた。
――大丈夫。あの手紙は、エマさん自身に返すものよ。
そう意志を固め、エマさんへと向き直る。
「うっ……ぐすっ……」
急にすすり泣く声が聞こえて、私は隣に居るランディ君に視線を向ける。
ランディ君は俯いたまま、カタカタと体を震わせながら小さく嗚咽を漏らしている。
「ランディ君?」
――初めて見るお産に不安になったのかしら……?
私はランディ君の前で膝を折り、顔を覗き込む。
その顔は蒼白で、まるで恐ろしい何かを見てしまったかのように震え上がっている。
さすがに様子がおかしい。
「大丈夫? どこか具合が悪いの?」
エマさんにまで声が届かないよう小声で問いかける。
けれどランディ君からの返答はない。
代わりに瞳から流れる涙の勢いが増し、口から零れる嗚咽が次第に大きくなっていく。
「……うっ……ひっく……ううっ……!」
「……ランディ?」
異変に気付いたエマさんが声を掛けると、ランディ君はしゃくり上げながら顔を上げた。
「お母さん……死んじゃうの……?」
ランディ君の言葉に、侍女たちが揃ってギョッとする。
エマさんも一瞬痛みを忘れたかのように驚きに目を見開いた。
けれどすぐに次の陣痛が来たらしく、「うっ……」と痛みに顔を歪ませる。
「何言ってんだ……。そんなわけないだろ」
微かな怒気を含んだマグナス君の声に、涙を流すランディ君の顔が強張る。
それまで落ち着いているように見えたマグナス君だけど、余裕のない苛立ちがその声から伝わってきた。
――そうよね……。マグナス君だって、全く不安がないわけじゃないわ。
それでも、エマさんが出産に集中できるよう気丈に振舞っていたのだろう。
そんな張り詰めた精神状態の中で、ランディ君の言葉はマグナス君の神経を逆撫でたのかもしれない。
二人の間に不穏な空気が漂い、エマさんも不安げに二人を見つめている。
「ランディ君、心配しなくても大丈夫よ。お医者さんも傍に付いてくれるから。今は赤ちゃんが無事に産まれてくるのを信じてお母さんを応援しよう。ね?」
少しでも雰囲気を和らげようと、明るい声で呼び掛ける。
けれど、悲しみに暮れていた顔が険しくなるだけで、更に雰囲気は険悪さを増す。
ランディ君の青い瞳が、睨むように私を見た。
「でもっ……死んじゃうかもしれないんでしょ?」
「ランディ!」
マグナス君の怒声に、ランディ君の体がビクッと跳ねる。
それでもランディ君は涙で潤む瞳をキッと尖らせると、マグナス君を睨み返した。
「兄ちゃんはお母さんが死んでもいいの⁉」
「なっ……いいわけがないだろ! 余計な事を言うな!」
カッとなったマグナス君がランディ君を叱り飛ばすも、その声が届かなかったかのようにランディ君は口を尖らせる。
「こんな事なら、お兄ちゃんになりたいなんて言うんじゃなかった……。僕、弟も妹もいらない」
「お前……!」
「待って!」
今にもランディ君に殴りかかりそうなマグナス君を見て、咄嗟に二人の間に割って入る。
まだ幼い二人に厳しい事を言いたくないけれど、これ以上は許容できない。
何よりも、二人の保護者が動けない今、私がその役割を担わなければならない。
「二人とも落ち着いて。今は兄弟喧嘩をしている場合じゃないでしょう。エマさんが出産に集中できないわ」
強い口調で二人を諭すと、マグナス君はハッとしたように目を見開きエマさんへと向き直る。
エマさんが安堵したように小さく微笑むと、マグナス君は力が抜けるように肩を落とした。
さっきより小さく見える背中から、反省している様子が伝わってくる。
冷静さを取り戻したマグナス君を見て、私はランディ君へと向き直る。
「ランディ君も、不安な気持ちは分かるけれど、言って良い事と悪い事があるのは分かるでしょ? 少なくとも、今の言葉は良くないわ」
「……」
ランディ君はぐっと口を引き結ぶも、その瞳からはしとしとと涙が流れている。
お産が進めば、更に痛みは増してエマさんの苦痛も大きくなる。
すでに不安定になっているランディ君をこのまま出産に立ち会わせていいのだろうか……そう思い悩んでいたのは私だけではなかったようで。
「申し訳ありません、マリエーヌ様。ランディをお願いしてもよろしいでしょうか?」
硬い表情となったマグナス君が私に願い出た。
ランディ君を部屋の外へ連れて行ってほしいという意味なのは分かる。
けれど、その申し出にすぐには頷けなかった。
私は出産に立ち会えないジェイクさんの代わりにエマさんの出産に付き添うと決めていた。
だからこそ、今この場を離れるのは自分の役割を放棄しているようで抵抗がある。
けれど、そんな私の迷いはマグナス君の言葉により振り払われた。
「母には僕が付くので大丈夫です。父からは、母の事も任されているので」
真っすぐ向けられた青い瞳には、父親の代わりを果たそうとする断固たる決意が込められている。
つい先ほどまで、冷静さを失い声を荒げていた姿とは違う。
汚名返上とばかりに自分の責任を果たそうとする眼差しを前にして、私は自分の役割をマグナス君に託す事にした。
「分かったわ。エマさんの事、お願いするわね」
「はい、お任せください。ランディをよろしくお願いいたします」
それからエマさんに視線を向けると、エマさんは申し訳なさげに小さく笑って軽く頭を下げた。
「ランディをお願いします」と聞こえてきそうな姿に、私も頷いて応じる。
「ランディ君、行きましょう」
私は俯いたまま泣き続けているランディ君の手を引き、部屋から退室した。
扉を閉めてもエマさんの呻き声は微かに漏れる。
ここではランディ君の気持ちは落ち着きそうにないので、私は廊下を歩いた先にあるバルコニーへとランディ君を誘った。
ランディ君はうんともすんとも口にせず、私に手を引かれるままに歩いている。
バルコニーへ出ると、ゆるやかな夜風が肌を撫でた。
木々の葉が擦れる音が響き、やがて静けさが訪れる。
照明は無くとも、弧を描く三日月と星々の煌めきがその役割を担っている。
「ランディ君、大丈夫?」
先ほど厳しく注意してしまった手前、できるだけ優しく声を掛けた。
「うっ……ひっく……ううっ……おかあさん……」
それでもランディ君は私の顔を見る余裕もなく泣き続けている。
悲しげに眉を顰めながら母親を恋しがる姿に、私まで切なさに胸が痛む。
早く無事に出産を終えたエマさんの姿を見せて安心させてあげたい。
「ランディ君、大丈夫よ。先生だって、正常にお産は進んでいると言っていたわ」
「うっ……で、でも……お母さん、死んじゃうかもしれないんでしょ……?」
その言葉に、再び声が詰まる。
確かにお産は命懸けなのだと私も自覚しているけれど……。
――やっぱりおかしいわ。なんでこんなに不安がっているの……?
「ランディ君、どうしてそう思うの? 今までずっとお兄ちゃんになるって喜んでいたじゃない」
すると、ランディ君はようやくこちらを見てくれた。
涙で濡れた顔は切なげに歪み、肩をしゃくり上げながら途切れ途切れに声を絞り出す。
「だって、僕……見ちゃったんだ……。お母さんが……てが……み……うっ……うう……うわああああああぁぁん!」
ついに大声を上げて泣き出したランディ君を見ながら、私はサーッと血の気が引いていくのを感じた。
――今、手紙って言った……?




