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27.大切なものを守る覚悟

「エマさん、調子はいかがですか?」


 私がエマさんのお部屋を訪ねると、エマさんはお茶を飲んでくつろいでいたようで、手にしていたティーカップを置き、淑やかに微笑んだ。


「おかげさまで、問題なく過ごせています。先ほど診察が終わり、ちょうどお茶を淹れてもらったところなのですが……」


 エマさんは頬に手を当てたまま、私の後方に控えるリディアをちらりと見る。


 すると、リディアはビシッと背筋を正し、


「それでは、マリエーヌ様のお茶もすぐにご用意いたしますね!」


 お任せください! と言わんばかりに宣言し、リディアはくるりと踵を返して颯爽と部屋から退室する。

 あっと言う間に専属侍女が去り、唖然としたまま立ち尽くしていると、品のある笑い声が聞こえてきた。


「フフッ……とても優秀な侍女ですね」


 どうやら先ほどのエマさんのリディアに対する目配せは、私の分のお茶も用意してほしいという意味だったようで。

 少し様子を見に来ただけなのに、気を遣わせてしまったみたいで申し訳ない。


 私は苦々しく笑いながら肩を竦める。


「ごめんなさい。すぐに失礼しようと思っていたのですが……」

「いえ、ちょうどマリエーヌ様にお話したい事がありましたから。マリエーヌ様こそ、お時間は大丈夫ですか?」

「はい。私もエマさんとお話がしたいと思っていました」


 時期的にも、エマさんのお腹の子はいつ産まれてもおかしくない。

 赤ちゃんが産まれれば毎日が慌ただしくなるだろうから、ゆっくり話ができるのは今だけかもしれない。


「どうぞ、こちらへお掛けください」


 エマさんの向かい側にある席を勧められ、そこに座らせていただく。


 すると、エマさんは「少し失礼します」と告げ、ゆったりとした動作で立ち上がり、壁際の机へと向かった。


 間もなくして席に戻ってきたエマさんは、テーブルの上に木箱を置いた。

 それは両手に載るくらいのサイズで、装飾も何もされていないシンプルな物。

 エマさんは、なんとも言えない眼差しを木箱に向け、一度キュッと唇を引き結び、開いた。


「マリエーヌ様にお願いがございます」


 真剣な眼差しと口調で告げられて、私は反射的に背筋を伸ばす。


 エマさんは木箱に手を添え、私の方へ少しだけ動かした。


「こちらをマリエーヌ様に預かって頂きたいのです」

「……それは構いませんが……」


 貴重品が入っているようには思えないけれど、大事な物ならば、アレクシア様にお願いして金庫に保管するなりした方が安全な気がする。


「もし差し支えなければ、中身が何かを訊いてもよろしいでしょうか?」


 私の問いに、エマさんはコクリと頷き、


「手紙です」

「手紙……ですか?」


 それをどうして私に……? と、その意図が掴めないままに首を傾げていると、エマさんは申し訳なさそうに笑みを零し、付け足した。


「これは、私から家族へ宛てた手紙です」


 その瞬間、エマさんが何を言わんとしているのかを察し、ゾワッと肌が粟立った。


 エマさんは笑みを消し去り、凛とした面持ちで私を見据える。


「マリエーヌ様。もし私の身に何かあった時、これを私の家族へ渡してほしいのです」


 凪いだ声で告げられて、思わず息を呑む。


 その言葉の意味を、私はすぐに理解した。


 つまり……この木箱の中に入っているのは、エマさんが家族へ宛てた遺書なのだと。


 ――出産は……本当に命懸けなんだわ……。


 頭では分かっていたつもりなのに、その事実を目の前に突きつけられた気がしてショックを隠せない。


 つい先ほどまで、元気な赤ちゃんが産まれてくると信じて疑わなかった。

 そこには当然のようにエマさんがいて、赤ちゃんを幸せそうに抱いている姿を想像していた。


 けれど……エマさんは、自分の居ない世界に残されるかもしれない家族の事を想い、手紙を用意していた。


 いったい、エマさんはどんな気持ちで、この手紙を書いたのだろう……。


「マリエーヌ様?」


 エマさんに声を掛けられハッと我に返る。


「あ……」


 気付けば、エマさんが心配そうに私を見つめていた。


 ――私が不安がっている場合じゃないわ……!


 咄嗟に笑顔を取り繕うも、全くうまく笑えていないのが自分でも分かる。


 その時、コンコンコンッと扉がノックされた。


 それにエマさんが応じると、扉が開き、お茶の準備をしたリディアがテーブルワゴンを押して部屋に入ってきた。

 リディアは張り詰めた部屋の空気を読み取ったのか、私たちを見て一瞬だけ目を見張る。

 けれど、すぐに何事もなかったかのように私のお茶を淹れ始めた。


 私の好きなお茶の香りがふわりと鼻を掠め、自然と口元が綻ぶ。


「ありがとう、リディア」


 お茶に加えて焼き菓子まで用意してくれたリディアにお礼を告げる。


 リディアはニコッと明るく笑い、「何かありましたらいつでもお呼びください」と、元気よく一礼して部屋から退室した。


 いつもと変わらない笑顔に癒され、私は肩の力を抜く事ができた。

 すると、エマさんは申し訳なさそうに苦笑を漏らし、


「ごめんなさい。急にこんな事をお願いされても困りますよね。マリエーヌ様のご負担になるようでしたら、この件は忘れて頂いて構いませんので」


 言いながら、木箱を引っ込めようとするエマさんに、咄嗟に声を掛けた。


「いえ……お手紙、私が責任を持ってお預かりさせていただきます」


 エマさんが家族に宛てた大切な手紙。

 それを、エマさんは私を信頼して託そうとしてくれた。

 その気持ちを裏切りたくはない。


 私がはっきりと返事をすると、エマさんは軽く目を見張り、嬉しそうに微笑んだ。


「マリエーヌ様……ありがとうございます。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 頭を下げながら、エマさんは木箱を私の方へと差し出す。

 それをしかと受け取め、私はこの木箱の出番が無い事を切に願った。


 それからリディアが淹れてくれたお茶を飲んで一息つくと、今度は私が話を切り出した。


「あの、エマさん」

「はい?」


 ティーカップを手にしたまま、エマさんは軽く首を傾げる。


 私も、エマさんにずっと言わなければならないと思っていた事があった。


「出産を控えた大事な時期なのに、帝国を離れなければならなくなり申し訳ありませんでした」


 頭を下げて謝罪を述べると、エマさんは慌てた様子でティーカップを置き、焦った口調で言う。


「マリエーヌ様、違うのです。その件に関してマリエーヌ様が気に病む必要は全くございません。たとえマリエーヌ様の事情がなくとも、夫は同じ行動を取っていたでしょうから」


 ですから、どうかお顔を上げてくださいと懇願され、私は頭を上げる。


 エマさんは安堵したように胸を撫でおろし、微笑んだ。


「むしろ私の方がお礼を言わなければなりません。こうして私たちを安全な場所に連れて来ていただいて、毎日快適に過ごさせていただいているのですから」


 しみじみと告げる姿を見て、それが本心である事が分かり、少し心が軽くなる。


 エマさんは、どこか懐かしむように目を細め、口を開く。


「私の夫は、先代の公爵であるアレクセイ様に命を救われたのですよ」


 そう言うと、エマさんは大きなお腹を愛おしそうに撫でる。


 「この子も、アレクセイ様のおかげでここにいるのです」と、お腹の中にいる我が子にも伝えるように、エマさんは言った。


「当時、帝国軍の騎士団に所属していた夫は、アレクセイ様率いる侵攻部隊の一員として戦地の前線で戦っておりました。その時に、夫が敵兵に殺されかけたところをアレクセイ様が助けてくださったのです」

「……そうだったのですね」


 ――確か、自軍のやり方に不満を持ち、戦いを放棄したところを狙われたのよね……。


 お義父様の手記にはジェイクさんの事も少しだけ書かれていた。

 けれど、今はあえて知らないふりをする。


「マリエーヌ様は、帝国が大陸を統一するに至った経緯をご存じですか?」


 突然の質問に、私は読んでいた歴史書の記憶を探る。


「確か、統率の取れていない北部の連合国内で起きている紛争により、犠牲になっている人々を助けるため……ですよね?」


 だけど、私はもうこれが事実ではない事に薄々勘づいている。


 歴史書には、帝国が大陸統一を成し遂げた事により、大陸全土に平和がもたらされ、多くの命が救われたと記述されていたけれど……。


 ――グレイソンさんから聞いた話と矛盾しているのよね……。


 地元住民の反発が強く、今も騎士団が抑え込んでいる状態なのだと。


 平和をもたらしたというよりも、むしろ……。


「確かに、帝国民の多くはそういう認識でしょうね」


 そう言うと、エマさんは悩ましげに息を吐き、私を見据える。


「ですが、現実は違います。北部に住む人たちから見れば、そんな大義名分を掲げて一方的に攻め込んできた帝国こそが、悪以外の何者でもなかったのです」


 やっぱり……と、静かに納得する。


 皇室の都合よく捻じ曲げられた真実がここにもあった。

 エマさんがそれを知っているのは、ジェイクさんから聞いたからなのだろう。


「夫が向かった戦地には、戦い方も知らない一般兵も多くいたそうです。彼らは自国で暮らす家族を守るため、自ら武器を取って立ち上がった人たちでした。その中には、女性や成人前の子供も見受けられたそうです」

「子供まで……?」


 その状況を想像し、ゾッと背筋が凍る。


 レスティエール帝国は世界有数の軍事力を誇る国としても知られている。

 そんな国の代表格とも言える騎士と、まともな訓練も受けていない人たちが戦っていた。

 結果なんて分かりきっていたはずなのに……。


 そうせざるを得ない状況にまで、彼らは追い詰められていたのだろう。


 自分の国と、家族を守るために。


 ――もしも私が帝国民ではなく、彼らと同じ地に生まれていたとしたら……私も同じように武器を取り、戦地に立っていたのかしら……。


「夫は、そんな人たちを前にして、戦闘を放棄しました」


 どこか物寂しげに告げたエマさんに、私は控えめに頷く。


「それは……仕方ないと思います。ジェイクさんは、とても優しい人ですから……」


 私としては、ジェイクさんへの賛辞を込めての言葉だった。


 けれど、エマさんは落胆するように息を吐き出すと、投げやりとも思える笑みを浮かべた。


「そうですね……。本来ならば、それが正しい行動として称賛されるべきでしょう。夫は昔から正義感の強い人でしたから」


 どこか棘のあるような言葉と語気に、私は思わず首を傾げる。


 次の瞬間、エマさんの顔から一切の笑みが消えた。


「ですが、戦場ではそんな道理は意味を成しません。相手に情けをかけた時点で、自分が殺されるのですから」


 冷たく言い放たれた言葉に、思わず息を呑んだ。


 それはなんて理不尽な話だろう。


 けれど、それが実際の戦場で起きている現実。


 胸の内側に潜めていた不安が、再び膨れ上がる。


 美しいと思っていたこの世界が、とてつもなく悍ましいもののように思えた。


「あの時、夫が彼らに情けをかけて殺されていたとしても、別の誰かが彼らを殺したでしょう。これほど無意味な死があるでしょうか」


 その時の心境を思い出したのか、エマさんの瞳が怒りに揺らぎ、涙に沈んだ。


「家族のために、必ず生きて帰ると約束してくれたのに……。あの時の夫は、目を逸らしたくなるような惨状を前にして、私との約束を見失ってしまったのでしょう」


 当時、エマさんはマグナス君を妊娠中で、ジェイクさんは子供にとって誇れる父親になると意気込んでいたらしい。

 「そんな誇りを守るために、死んでは意味がないでしょうに……」と、エマさんは恨み節を付け足した。


 エマさんは昂ぶる気持ちを沈めるようにお茶を一口飲み、潤んだ唇の端を少しだけ上げる。


「アレクセイ様が助けてくださったおかげで夫は命拾いし、息子との対面も果たせました。更には騎士としての戦意を喪失していた夫を補佐官に指名してくださり、私たちが路頭に迷う事もなくなりました。それに、新しい命も授かる事ができました」


 そう言いながら、エマさんはお腹をゆるやかに撫でる。

 もしその時にジェイクさんが殺されていたとしたら、ランディ君だって生まれる事はなかった。


「私たち家族は、アレクセイ様に返しきれないほどの御恩があるのです。ウィルフォード卿とは利害が一致しているため互いに手を組んでいると言う方が正しいでしょう」

「……エマさんはそれでいいのですか? もしジェイクさんが捕まったら……」


 ――極刑は免れない。


 帝国に残っているジェイクさんは、敵地の真っ只中に居るようなもの。

 そんな中で、協力者になり得る人物との接触を図っている。

 今のジェイクさんは、まさに死と隣り合わせの状況。


 そう思うと、不吉な想像ばかりが頭を過り、血の気が引いていく感覚に襲われる。


 けれど、エマさんは落ち着いた様子で淑やかに微笑んだ。


「今の夫の命があるのはアレクセイ様のおかげですから。夫があの方のために動くのは当然なのですよ。ですから私も、夫の行動を支持します。……それに、今度こそ約束を守ると誓ってくれましたから」


 すると、エマさんはスッと背筋を伸ばして胸を張った。


「私も、こんな手紙を用意しておりますが、死ぬつもりなんてこれっぽっちもないのですよ。息子たちとこの子と一緒に、夫と再会できると信じておりますから」


 自信に満ちたその姿が、今の私には眩しく思えた。

 けれど、エマさんだって不安を抱えていないわけではない。

 この手紙の存在がそれを証明している。


 それでも、笑顔で虚勢を張り続けなければならないのは、母親としての矜持(きょうじ)なのかもしれない。


 エマさんの揺るがない信念と覚悟。それを目の当たりにして、私は自分の浅はかさを思い知らされる。


「エマさんはとてもお強いですね……」


 ――それに比べて私は……。


 意気消沈する私を見て、エマさんは反省するように肩を竦めた。


「申し訳ありません。マリエーヌ様を不安にさせてしまうつもりは無かったのですが……つい、おしゃべりが過ぎてしまったようです」

「いえ。お話が聞けてよかったです。お恥ずかしいことに……ジーニアス君にも言われた通り、私は今まで危機感が足りていなかったようで……。何の覚悟もできていなかった事を、今になって痛感していて……」


 分かっているようで、分かっていなかった。


 出産という、新たな生命の誕生を祝福すべき場で、亡くなる人がいる事を。


 戦争という、己の大義を掲げて戦いが繰り広げられる戦場で、何の罪のない人々の命が無情にも奪われていた事を。


 そして今、謀反を企てる私たちの計画の中でも、失われる命があるのかもしれないという事を。


 私がガックリと肩を落とすと、エマさんはフフッと顔を綻ばせる。


「当然です。マリエーヌ様が心身ともに健やかに過ごせる事を、ウィルフォード卿は第一に考えていらっしゃいますから。マリエーヌ様にまで不安が及ばないよう手を尽くされたのでしょう」


 そう言われて、確かに……と、深く納得してしまった。


 逃避行中の身でありながらも、こんなにも悠長に過ごせていられたのは、アレクシア様がこれまでと変わりなく接してくださっていたから。

 私の部屋を公爵邸の自室と同じように整えてくれたのも、少しでも私が安心できるようにと配慮してくださったのだろう。


「怖くなりましたか?」


 ふいに問われ、思わず息を呑んだ。


 目の前のエマさんは、いつもと変わらない微笑を浮かべている。

 けれど、何かを試されているようにも思えて、言葉に詰まった。


「……」


 長い沈黙。

 それは限りなく肯定に近い返事だという事にまで、頭が回らなかった。


 次第に空気が重くなり、後ろめたさに目を逸らす。


 まさに今、エマさんの夫であるジェイクさんが、命の危険に晒されながらも、この計画を遂行するために奔走しているというのに……安全な場所にいる私が、恐怖に脅えているなんて……。


 やがて、エマさんは穏やかな声でそれを告げた。


「マリエーヌ様がこの計画に躊躇されるお気持ちもよく分かります。ですが……」


 エマさんは膨らんだお腹を抱きしめるように手を組み、真剣な眼差しを私に向けた。


「マリエーヌ様は、北部で起きている内戦の事は御存じでしょうか?」


 それは、グレイソンさんが言っていた、地元住民との争いの事だろう。


 私はこくりと頷く。


「帝国は、大陸統一の正当性を貫き通すため、この事実を伏せるでしょう。あの皇帝を排さない限りは、帝国の方針は変わりません。この計画には、私たちだけでなく多くの人々の命運も懸かっているのです。……そのための犠牲はあるかもしれませんが……それ以上に、救われる命もあるのです」


 この計画が及ぼす大きな影響力を、私は改めて思い知った。


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