26.危機感の欠如 sideグレイソン
「あの、ウィルフォード卿は、なぜマリエーヌ様をあの場に同席させたのですか?」
「……」
私の問いに、執務机の書類に目を通していたウィルフォード卿は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、
「マリエーヌが知りたがっていたからだ」
こちらを睨みながら、低く冷淡な声で答える。
マリエーヌ様が隣に居る時とはまるで別人だ。
とはいえ、どちらかというと、こちらの方が本来のウィルフォード卿の姿ではある。
昨日、ジーニアス皇子殿下に会うためにここを訪れた私は、ウィルフォード卿からジーニアス皇子殿下だけでなく、マリエーヌ様にも事情が分かるようにと説明を求められたのだが……。
「ですが……話を聞いて、怖がられていらっしゃいましたよね?」
特に、皇帝を殺害する話を聞いた時の反応は、まるで人が死ぬなんて聞いていない、というものだった。
正直、今更何を……? と、こちらの方が戸惑った。
「お前が皇帝を殺すなどと言うからだ」
「それは! ……事実ではありませんか。トンプソン卿も、皇帝を殺害する事を前提で考えていらっしゃいましたし、この計画の最大の目的ではありませんか。これまでの所業を考えても、あの男を生かしてはおけません。殺せる時に殺さなくては、私たちの方が危ういのです。それなのに、あれくらいで怖気づくようでは、ジーニアス皇子殿下の言う通り、少々危機感が足り……な……」
最後まで言い終えるまでもなく、ウィルフォード卿に殺気立つ眼差しを向けられ、声が詰まる。
ウィルフォード卿は小さく息を吐き、少し沈んだ声で告げた。
「マリエーヌの反応も当然だ。僕が彼女の不安を煽らないようにしていたからな。マリエーヌは何も悪くない」
「……そういう事ですか」
どおりでマリエーヌ様の反応が、どれも初めて聞いたというようなものだったのか。
横暴な皇帝を排し、皇子の生き残りを新たな皇帝として立てる。
といえば聞こえはいいかもしれない。皇帝を殺害して新たな皇帝と挿げ替えると言われるよりは、よほど平和的に聞こえる。
――この様子だと、自分たちが殺される可能性がある事も、かなり緩和して伝えているのだろう。
「今、ジーニアス皇子殿下の気持ちが分かりました……」
先の未来が見えないまま、命の危機を感じながら緊張感のある日々を過ごしている時に、この計画の当事者で危機感の足りない人間が周りにいれば苛立つのも当然だろう。
「そこまで考えていらっしゃったなら、最後まで何も知らないままの方がよろしかったのではないでしょうか?」
「言っただろう。マリエーヌが知りたがったからだと。彼女の望みを叶えるのは僕の仕事だ」
「……まさか……御自分では話しづらい内容を、私の口からマリエーヌ様に聞かせるため……?」
「……」
――沈黙は、肯定という事か……?
薄々分かってはいたが……この方はどこまでもマリエーヌ様主義のようだ。
――マリエーヌ様の視界に映るものは、全て綺麗な物でなければならないとでも思っているのか……?
そんな甘い考えは、すぐにでも捨て去るべきだ。
それこそ平和的な手段を選ぶ余裕などない。
皇帝を殺害できる隙があれば、迷わず殺害する。
皇帝の殺害に失敗すれば次は警備を強化される。匿われでもしたら厄介だ。
チャンスは一度きり……確実に仕留める機会を狙わなければならない。
しかし、皇帝を殺害するだけであれば、こちらがただの犯罪者として裁きを受けるはめになる。
それを避けるため、ジーニアス皇子殿下が正当な後継である事を示しておく必要がある。
帝国を破滅に導く偽りの皇帝を廃し、未来を繋げる新たな皇帝を誕生させる。
その大義名分こそが今回の計画で最も重要だ。
現在、前公爵殺害の容疑をかけられ指名手配中のウィルフォード卿とトンプソン卿も、邪魔者を排したい皇帝により罪を被せられたとすれば容疑は晴れ、公爵位も取り戻せる。
ジーニアス皇子殿下さえ皇帝の座に着けば、有能な官僚を再編成し、不足な部分を補えばいい。
ウィルフォード卿が公爵として彼を支えれば、更に盤石の体制となるだろう。
しかし、ジーニアス皇子殿下があの状態では……先が読めない。
いや、ルディオス皇子殿下という方がいいのか……?
「おい」
「はい!」
苛立たしげな声が聞こえ、物思いに耽っていた私は思わず大きな返事をしてしまう。
ウィルフォード卿はジッとこちらを見つめたまま、僕に訊ねた。
「お前が聞いたという祖父の話だが、今までに僕たち以外の誰かに話したか?」
「……いえ。トンプソン卿にはお話しましたが……それだけです。そう易々と話せる内容ではありませんので……」
「……そうか。ならいい」
軽く頷くと、ウィルフォード卿は卓上の紙にペンを走らせる。
「ジェイクと会う予定はあるのか?」
「はい。明後日の夜にトンプソン卿と落ち合う予定ですが、何かご報告する事はございますか?」
「ああ。これを渡せ」
アレクシア様は先ほど書き込んでいた紙を封筒に入れ、私に差し出す。
それを受け取って、私は懐の内ポケットへ収めた。
――何が書かれているかは分からないが、これは確実にトンプソン卿にお届けしなければ……。
すると、ウィルフォード卿は吐き捨てるような溜息を吐き、ジロリと私を睨んだ。
「ジーニアスもお前も、人の事ばかりとやかく言うが……お前こそしっかり周囲を警戒しろ。油断するな」
「……はい。重々承知しております」
その言葉に、多少の反発を覚えたのは言うまでもない。
◇◇◇
「色々とお話を聞かせていただきありがとうございました。どうか、お気を付けてお帰りください」
翌日の昼過ぎ、マリエーヌ様から別れの挨拶を受け、屋敷を発った。
笑顔ではあるが、どこか不安そうではある。
私の話を聞いてからなのか、時折物思いに耽る姿も見られた。
――ウィルフォード卿が良からぬ事を考えなければいいが……。
マリエーヌ様の一挙一動がウィルフォード卿にどのような影響を及ぼすか分からない。
それこそ『誰も殺さないでください』などとお願いされれば、ウィルフォード卿と前公爵の仇討ちを目的とするトンプソン卿の間にも亀裂が生じる。
――だからこそ、いっそ何も知らない方が良かったのではないか……。
まさか、こんなに重い気持ちでレスティエール帝国へ帰還する事になるとは思わなかった。
船は翌日の夕暮れにレスティエール帝国の港に到着した。
疲れていたわりにあまり眠れず、体が重たい。少し酔いもあるようだ。
地に降り立った今も船に揺られているような感覚にゆられながら、重い足取りで進む。
港近くの宿で部屋を借り、荷物を置いて身軽な服装に着替えた。
それからウィルフォード卿から預かった手紙を持ち、使い古びたフード付きのマントを手にして宿を出る。
大通りから路地裏へ入ると、行く手を阻むようにだんだんと道幅が狭くなっていく。
――相変わらずここは不気味だな……。
人一人通るのがやっとというほどの狭い路地裏を抜け、古びた家が並ぶ集合地帯に出た。
ここは貧民区とも呼ばれる場所で治安も悪い。
何かが腐敗したような悪臭も酷い。
あまり長居したくない場所だ。
マントを羽織り、フードを深く被ると、変な輩に絡まれないうちに早足で先へと進む。
やがて目的地である、外壁の塗装が剥げた家の前に到着した。
周囲を見回し誰もいない事を確認すると、扉の前に立つ。
打ち合わせ通りの回数、扉を叩いた。
二回、五回、三回、最後に二回。
シン……と静寂に包まれ、扉が開く様子はない。中に人がいる気配もないのだが……。
――留守か……?
となると、この場所に長く居座るのもよくない。
明日、また出直そうと踵を返した時――風を切る音と共に背後から体を掴まれた。
「……⁉」
すぐさま口元に濡れた布のようなものが押し当てられ、鼻を付くような薬品の匂いが口腔内にまで広がる。
――しまっ……。
『油断するな』
ウィルフォード卿の声が脳裏に蘇る。
遠のく意識が落ちるのは一瞬だった――。
◇◇◇
「うっ……」
目を覚ますと、私の体はベッドの上に寝かされた状態だった。
――ここはどこだ……? 私は何を……?
直前の記憶が思い出せない。
朦朧とする意識の中、視線だけを動かし辺りを見回す。
「お目覚めですか」
突然、聞き覚えのある声がした。
「……トンプソン卿⁉」
咄嗟に飛び起きるも、激しい眩暈に襲われ頭を押さえる。
声がした方へと視線を向けると、少し離れた先にある机の席でトンプソン卿は手紙のような物を読んでいる。
――手紙……そうだ。私も預かっているのを渡さなければ……。
その存在を思い出し、手紙を入れていた内ポケットに手を突っ込む……が、ない。
ウィルフォード卿から預かった手紙が……ない‼
「ああ、勝手に取って読んじゃいました」
トンプソン卿は、全く悪びれていない声でそう言いながら、手にしている紙をヒラヒラと揺らす。
どうやら私が気絶している間に、勝手に内ポケットから抜き取ったらしい。
血の気が引いていた体の中に、ドッと血流が流れ込み、へなへなとベッドに脱力する。
――よかった……。
紛失したり、敵に奪われたりしたわけではないと分かり、心の底から安堵した。
だが、勝手に人の服の中を漁るのはどうかと思うが……。
その自分勝手な行動は主譲りか。
それともこの男本来の気質なのか。
――いや、今はそれよりも……私は確か……誰かに……。
「あの……これは一体どういう状況でしょうか? 私は先ほど誰かに襲われた気がするのですが」
「ええ」
トンプソン卿は手紙を手にしたままゆっくりと立ち上がると、コツコツと靴を鳴らし、火の灯る暖炉の前まで歩く。
昔、彼を見た時は髪を束ねていたが、今は髪を解いている。
肩まで伸びた漆黒の髪が、暖炉からの温風によりフワリと揺らいだ。
トンプソン卿は、手にしていた手紙を暖炉の中に放ると、こちらに振り返り、ニコッと愛想の良い笑みを浮かべる。
「それについてはご心配なく。こちらで抜かりなく処理しましたので」
言葉の軽やかさとは裏腹に、その意味を察した私はサッと青ざめる。
しかし、自分が助けられたのには変わりない。
でなければ今頃、私の方が彼らと同じ末路を辿っていただろう。
「そうですか……。申し訳ありません……。私の注意不足でした」
「全くです。一度だけならまだしも、二度も同じミスをするなんて……」
トンプソン卿はハァ……と失望するような溜め息を吐き出し、「使えないですねぇ」と、小さく呟く。
ぎりぎり私に聴こえるくらいの加減はわざとだろうか。
だが、それを気にするよりも、聞き捨てならない内容があった。
「あの、二度も……とは……?」
「ああ、あなたがここを発つ時にも、監視が付けられていたのですよ」
「……え⁉」
――そんな……。では……まさか……あの場所を知られた⁉
「そちらはアレクシア様が処理したようです。余計な手間を持ち込むなと、ご立腹でしたよ」
言いながら、トンプソン卿は暖炉を一瞥する。
――手紙にはそんな事まで書かれていたのか……。
「そう……ですか……。たびたび申し訳ありませんでした……」
あの場所が皇帝に知られるという最悪な状況にまで至らなかった事には安堵する。
とはいえ、酷い失態を犯してしまったのは事実だ。
まだ目を付けられていないなんて、どの口が言うのか。自分の言動を恥じるしかない。
「しかし、どうして私に監視が……。勘付かれないよう、言動には十分気を付けていたはずなのですが……」
すると、トンプソン卿は目を眇め、どこか冷めた声で私に訊ねる。
「では、宰相にはなんと言って休暇を?」
「……国外の友人の結婚式に行くと伝えました。……まさか、それがいけなかったのですか?」
国外に私の友人が多い事は父上も知っている。特に怪しむような理由ではないと思うのだが……。
「アレクシア様の報告によると、あなたは嘘を吐く時、瞬きの回数が増えるらしいですよ」
「……!」
――そう……なのか?
「では……私の嘘に気付いた父上が、皇帝に……?」
私の行動を怪しんだ父上が皇帝に告発するのは当然だ。
だが、それを分かっていても、ショックを隠せない。
私の命よりも、あの男が治める帝国の存続を選ぶとは……。
父上に対する落胆の息を吐き、私はトンプソン卿に向き直る。
「しかしウィルフォード卿は、なぜ私のそんな癖を見抜いたのでしょうか……」
「それはあなたがアレクシア様に嘘を吐いたからではありませんか?」
当たり前のように言われて、思わず息を呑んだ。
――……ああ、あの時か……。
『お前が聞いた祖父の話だが、僕たち以外の誰かに話した事はあるのか?』
その問いに、私は誰にも話していないと答えた。
だが……本当は違う。
昔、一度だけ父上に話した。
しかし、父上は私の話を信じなかった。
死に際の老人の戯言だと一蹴し、忘れろと私に命じた。
父上も、あの時の祖父と同じ選択をしたのだ。
――あの時から、父上はすでに私を信用していなかったのかもしれないな……。
私も一度は皇帝の罪を呑み込もうとした。
だが、宰相の補佐を担うようになった私は、皇帝の横暴ぶりをこの目で見てきた。
気に入らない人間は次々と廃し、残っている官僚たちは皇帝に媚びへつらう者ばかり。
皆が皇帝の顔色を伺っている。
皇子の死についても、誰も口にしないが、あの男が関わっているのだと確信していた。
それでも、あの男が死なない限り、帝国は何も変わらない。
あの男がどれだけ法を犯そうとも、正当な裁きを受ける事もなく、あの座に居座り続けるのだから。
それどころか、あの男は自分の後継者を残す気もない。
自分が死んだ後の事は何も考えていないのだ。
四百年と続いた帝国が自分の死と共に崩壊しようとも、あの男にとってはもはやどうでもいい事なのだろう。
帝国の未来も、次期宰相となる自分の未来も、何も想像できなかった。
日々の執務も、全てが意味のないものに思えた。
そんな時に、トンプソン卿から皇子の存在を教えられ、一筋の希望が見えた。
だから居ても立ってもいられず、その存在を確認せずにはいられなかったのだ。
――迂闊だった……。
マリエーヌ様に何を言えた事か。
自分こそが危機感が足りていなかったというのに……。
ガックリと肩を落とす私を見て、やれやれ……と、トンプソン卿は軽い溜息を吐く。
「何はともあれ、これであなたも追われる身となりましたし、もう皇宮には戻れませんね。計画も練り直しが必要です。まあ、一ヶ月猶予ができましたし、想定していた事です」
特に深刻そうな様子もなく、あっさりとした口調で告げられた。
どうやら私は最初から信用されていなかったらしい。
「私はこれからどうすれば……」
「……とりあえず、身を潜める場所はこちらでご用意いたしましょう。迂闊なあなたにはしばらく引き籠っていただくとして、あとはそうですね……やる事がないのなら神にでも祈ってはいかがでしょう」
「神……ですか……」
「ええ。神……正確には、女神に、ですが」
含みのある笑みを浮かべながら、トンプソン卿は私に何か差し出した。
片手で持てるほどの木彫りの像。女性の背中には羽のような物が生え、神聖さを漂わせる姿は教会で目にした聖母像を彷彿とさせた。
聖母像に羽は生えていないが……雰囲気はよく似ている。
「取り扱いには十分注意してください。下手な扱いをすれば命にかかわりますので」
「……はい?」
女神像に、なぜそんな物騒な話が付いてくるのか全く意味が分からない。
まさか……。
「中に爆薬が……⁉ いざという時は、これで自爆しろということですか⁉」
――敵に掴まり、拷問を受け情報を吐くくらいなら、潔く死ねという意味か……。
やはりウィルフォード卿はそういう男なのだろう。
しかし、トンプソン卿は「うっ……」と小さく呻き声を漏らし、心底嫌そうに顔を顰める。
「まさか……。そんな物騒な物を仕込んだら、それこそ私がアレクシア様に殺されます」
どうやら取り扱いに注意というのは、丁重に扱えという意味だったようだ。
再び女神像に視線を落とし、どこか既視感を覚える。
――この女神様、最近どこかで見たような……。
私がその答えに辿り着くのは、もう少し先――女神様と再会した時だった。




