25.兄弟喧嘩
「はぁ⁉」
大きな叫び声と同時にガタン‼ と、ジーニアス君が勢いよく椅子から立ち上がった。
見開いた瞳は真紅に色を染め、ワナワナと震えている。
「……え? ルディオス君……?」
――どうして今のタイミングで、またルディオス君に……?
それを問おうにも、どうやらその事に一番戸惑っているのはルディオス君本人のようで。
ルディオス君はその場に立ち尽くしたまま忙しく瞼を閉じたり開いたりを繰り返し、やがて苛立たしげに頭を掻きむしりながら声を荒げた。
「くそっ! なんでだよ! なんで戻らねぇんだよ! 俺は……こんなこと望んでねぇよ! おい! ジーニアス! 塞ぎ込んでんじゃねぇ!」
自分の中にいるであろうジーニアス君に必死に呼びかける姿を見て、事の重大さを認識する。
――ジーニアス君が、自分の意志でルディオス君に体を明け渡したってこと……?
そんな事は今までになかったはず。入れ替わるタイミングは、いつだってルディオス君が決めていたのだから。
だけど、どうやら今はそれができないでいるらしい。
――じゃあ……ジーニアス君はどうなるの……?
ルディオス君が表に出ている時、ジーニアス君の意識はないと言っていた。
だから今のルディオス君の呼び掛けも、きっとジーニアス君には届いていないはず。
「ルディオス皇子殿下……?」
唖然とした様子で、グレイソンさんが声を漏らす。
琥珀色の瞳が希望を見出したようにキラキラと輝き出し、グレイソンさんはずぃっとルディオス君に詰め寄った。
「ルディオス皇子殿下! あなただけでも――」
「うっせえ! 俺は行かねぇよ! 皇帝になるのはジーニアスだ! 俺はぜってぇにならねえからな! あと俺の赤い瞳を見せるとか勝手に話決めてんじゃねぇよ! 俺はやんねぇからな!」
嬉々として声を上げたグレイソンさんを一蹴し、ルディオス君は再び瞼を閉じて入れ替わりに集中する。
「そんな……。では、私は……いったいどうすれば……」
哀愁を帯びる声を震わせながら、グレイソンさんはその場に崩れ落ちる。
脱力するようにガックリと項垂れ、呆然と地を見つめだした。
一方でルディオス君は、依然として瞼を閉じながらギリギリと歯噛みしている。
苛立ちと焦燥がこれでもかというほど伝わってきて、とても声を掛けられる雰囲気ではない。
そんな二人を見比べながら、私は助けを求めるようにアレクシア様を見上げた。
アレクシア様は無表情のまま、呆れ果てるような深い溜息を吐き出す。
「本当にめんどくさい奴らだな……」
そう呟くと、アレクシア様は組んでいた足を下し、テーブルの上に置いていた紙をそっと私に手渡した。
そこには例の流星群について、つらつらと詳細が書かれている。
アレクシア様は無言のまま、たっぷりと期待の込められた瞳をキラキラと輝かせながら私を見つめている。
多分、これを一緒に見ようという意味で私に渡してきたのだろうけれど……。
――アレクシア様……。たった今、危機感が足りないというお叱りを受けたばかりなのですが……。
アレクシア様に手渡された紙を握りしめながら、私はしばらく途方に暮れていた。
その後、もはやそれどころではなくなったため、応接室での話し合いは一旦お開きとなった。
グレイソンさんは二日後の船でレスティエール帝国へ帰還するらしく、それまでの間はここに滞在するため、侍女に案内されて客室へと向かった。
トボトボと使用人の後を付いて歩くグレイソンさんの背中に、若干の既視感を覚える。
――偉い人に仕える人は苦労人が多いのかしら……?
そんな感想を抱きながらグレイソンさんを見送り、応接室に残っているルディオス君へと視線を向ける。彼は椅子に座ったまま、頭を抱えて項垂れていた。
このまま放っておくわけにもいかず、扉の前で立ち尽くしていると、「とりあえず、座ろうか」とアレクシア様に促され、ソファに戻る。
「俺のせいだ……」
沈んだ声で呟くと、ルディオス君は少しだけ顔を上げた。
すぐ目前にある自身の手の平を、憂いの滲んだ赤い瞳が見つめる。
「俺が……あいつの居場所を奪っちまったから……」
後悔の念に駆られるように、泣きそうな声を零す。
やがて、ギリッと歯を食いしばったかと思うと、「くそっ!」と吐き捨て太ももに拳を叩きつけた。
「ルディオス君……」
呼びかけたものの、なんて声を掛けてあげればよいのか分からない。
すると、アレクシア様が呆れるように溜息を吐いた。
「で、どうするつもりだ?」
問われたルディオス君は、苛立たしげにアレクシア様を睨みつけ、
「どうもこうも……前に言ったじゃねぇか! この体はジーニアスのものだ! 俺がジーニアスに成り代わるつもりはねぇんだよ!」
応接室の中に、悲痛にも思える叫びが響き渡る。
――そうよね……。そのつもりがあるのなら、とうにそうしていたはずだものね……。
これまで二人の人格の入れ替わりはルディオス君が主体となり行われていた。
つまり、悪い言い方になるけれど、彼はいつでもジーニアス君の体を自分のものとする事ができた。
ジーニアス君の人生を、自分の人生として歩む事も……。
だけど、自由に動ける体を手にしながら、ルディオス君は不用意に表に出る事はなかった。
必要な時に現れ、ただひたむきに弟を守り続けていたのだ。
それなのに……。
「そのジーニアスが居なくなった今、お前がその体の主になるしかないだろう」
「……!」
ルディオス君はショックを受けたように大きく息を呑んだ。
次第にその顔色が真っ青に染まり、あどけなさの残る顔が悲しげに歪む。
けれど、すぐに全ての感情を払うように激しく首を振った。
「違う! ジーニアスは……居なくなってなんかねぇよ! ちゃんとここに居るはずなんだよ! 今はただ自分の殻に閉じこもってるだけで……あいつが居なくなるはずがねぇだろ!」
自身の胸元をきつく握りしめ、自分にもそう言い聞かせるように声を荒げる。
その時、キィ……と扉が開き、
「ジーニアス兄ちゃん……居なくなっちゃったの……?」
その声と共に、今にも泣き出しそうな顔のランディ君が姿を現した。
「! ランディ……お前……」
弾かれたようにルディオス君が顔を上げ、椅子から立ち上がった。
扉の前に立つランディ君は、瞳に涙を溜めながらも、それが零れないように顔を顰めて必死に耐えている。
けれど、何度か瞬きした後、留まっていた涙がポロポロと零れだした。
くしゃりと顔を歪ませて、ランディ君はズボンを握りしめながら声を絞り出す。
「僕が前にジーニアス兄ちゃんとルディオス兄ちゃんを間違えちゃったから……? ジーニアス兄ちゃん、やっぱり僕の事が嫌いなのかなぁ……?」
「ランディ君……」
一ヶ月ほど前に、ランディ君はジーニアス君を見て『ルディオス兄ちゃん!』と、間違えて声を掛けてしまった。
それに対し、ジーニアス君はひどく傷ついたような顔でランディ君を見た後、次第にその表情が怒りに震え始めた。
すぐにルディオス君が現れ『お前、名前間違えんなよな~』と、焦りの交じった笑みを浮かべながらその場をなんとか取りなしたけれど、ジーニアス君を怒らせてしまったのだとランディ君は落ち込み、それ以来、ジーニアス君の時は近寄らないよう距離を取るようになっていた。
――やっぱり、ずっと気にしていたのね……。
すると、ルディオス君がランディ君の前まで歩み寄り、目線を合わせるようにしゃがんだ。
しとしとと泣くランディ君をあやすように、少しぎこちない口調で声を掛ける。
「あー……違うんだ。ランディ、お前のせいじゃねぇよ。あれだ……あれ。少し兄弟喧嘩しちまってな。お前だって、マグナスと喧嘩する事があるだろ?」
「……うん」
「それと一緒だ。あいつの機嫌が直ればすぐに戻ってくるからよ。お前は心配すんな」
軽い口調でそう言うと、ルディオス君はランディ君の頭をポンポンと叩く。
ランディ君は少しキョトンとした後、
「そっかぁ」
と、安堵するように表情を和らげ、服の袖でゴシゴシと涙を拭った。
それからズッと鼻を啜り、ニカッと笑う。
「ルディオス兄ちゃんとジーニアス兄ちゃん、早く仲直りできるといいね!」
「……ああ。そうだな」
力が抜けたように頷くと、ルディオス君はランディ君の顎を掴み、グイッと持ち上げた。
呆気に取られるランディ君の顔を見ながら意地悪げに笑う。
「あーもー……おまえ顔が鼻水でベタベタじゃねぇか。ほら、顔洗いに行くぞ」
「うん!」
ルディオス君に手を引かれ、ランディ君は嬉しそうに去って行く。
――ルディオス君、大丈夫かしら……?
ランディ君のおかげで気を持ち直したように見えるけれど、きっと内心は気が気でないはず。
だけど、今は私も頭の中がグチャグチャとしていて深く考えられない。
心配事が一気に増えたからか、ドッと疲労感に襲われた。
脱力するように背もたれに体を預け、大きな溜息を吐き出してしまう。
「マリエーヌ。昼食までまだ時間があるから、少し休むといい」
「……そうですね。お言葉に甘えさせていただきます」
アレクシア様に促されて、私は昼食までのあいだ、自室で少し休ませてもらった。
昼食後、ルディオス君は参加しなかったけれど、もう一度グレイソンさんとアレクシア様と話をした。
その結果、アレクシア様が言っていたように、ひとまずは一ヶ月はここを動かず、様子を見る事に決まった。
グレイソンさんは非常に苦い顔になり、
「仕方ないですね。皇子殿下があの状態ではどうする事もできませんから……」
と、消沈しながらも納得してくれた。
◇◇◇
翌日の朝、朝食を摂るためにアレクシア様と共に食堂へ向かうと、ルディオス君がすでに席に着いていた。
瞳の色は確認できないけれど、片足の膝を折り、もう片足の上に乗せる座り方はルディオス君独特の座り方。
ルディオス君は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、ブツブツと何か呟いている。
「ったく……あいつ、いつまで拗ねてんだよ……。こっちの気持ちも少しは考えろっての……聞いてんのか? おい」
ピリピリとした苛立ちが伝わってくるけれど、私はなるべく自然体な笑顔で挨拶をする。
「おはよう、ルディオス君」
「……ああ。おはよう……ございます」
ルディオス君は一瞬驚いたように目を見張ると、ぎこちなく視線を逸らしながら挨拶を返す。
――そういえば、ルディオス君とこういう挨拶をするのは初めてだわ……。
慣れていない挨拶を交わしたからか、ルディオス君は少し照れくさそうにしながら口を尖らせている。
ジーニアス君の中に居る事が多いルディオス君にとって、アキさん以外の人と挨拶を交わす機会は今までなかったのかもしれない。
そんな初々しい反応に和みながら、私とアレクシア様も席に着く。
ここへ来るまで、もしかしたら……と思ったけれど、やはり今もルディオス君のままらしい。
「やっぱり、あれからジーニアス君とは入れ替われていないの?」
「いや……朝起きた時はジーニアスに戻ってたんだ。それなのに、あいつまたすぐに俺に体を渡しやがった。それからは昨日と同じ。どうやってもジーニアスに体を渡せねぇんだ」
そう言うと、はぁ……と、重い溜息を吐き出す。
その時、ガラガラと音を奏でながらテーブルワゴンに載った朝食が運ばれてきた。
ルディオス君と、私とアレクシア様の分も用意してくれている。
使用人の手によりテーブルの上に料理が置かれていく中、アレクシア様が口を開いた。
「やはりお前がジーニアスに成り代わるしかないんじゃないのか?」
「だからならねぇって」
きっぱりと否定して、ルディオス君は椅子の背もたれに体を預けたまま、ズズッとずり落ちそうなほど体を滑らす。
そして茫然とした眼差しで天を仰ぎ、独り言のように呟いた。
「あーあ……せめてあいつと話ができればいいんだけどなぁ……」
コト、コト……と、お皿を置く音が、静かな食堂に響く。
やがてその音が途絶え、食事を並べ終えた使用人は速やかに食堂から退室した。
「マリエーヌ、食べよう」
なんとなく食べだしづらい空気の中、先んじてアレクシア様がフォークを手に取った。
私も、ぼんやりとしているルディオス君に声を掛ける。
「ルディオス君。ジーニアス君の事も心配だけど、食事をしてからまた考えましょう」
「ん……」
返事らしい声を漏らすと、ルディオス君は椅子に座り直し、パンを掴む。
けれど、パンを手にしたまま、再び物思いに耽るように動きが止まった。
――これは……重症ね……。
ここに来てから、何度かジーニアス君が食事を拒否する事があった。
けれど、そういう時は決まってルディオス君が現れて、ジーニアス君の代わりに食事をしっかりと摂っていた。
そうやってルディオス君はジーニアス君の健康面にも配慮していた。
それなのに……今のルディオス君を見ていると、少し心配になる。
――どうにかして、ジーニアス君と意思疎通が取れればいいのだけど……。
それに、今の状態ではこの先の事も見通しが立たない。
このままジーニアス君が戻らなくて、ルディオス君が皇帝になる事を拒絶し続けたら……。
――この計画は、頓挫する……?
そう思い至った瞬間、微かに、それを期待するような気持ちが湧いた。
けれど、その期待はすぐに罪悪感へとすり替わる。
すでに多くの人たちがこの計画のために動いている。ここに居る人たちだってそう。
そんな皆に対する裏切りのように思えて、すぐにその思考を捨て払った。
――計画が無くなってしまえばいい……なんて……思ってはいけないわ……。
もう今更、後戻りなんてできないのだから……。
「マリエーヌ。料理が冷める前に食べよう」
「あっ……はい」
再びアレクシア様に促され、私は咄嗟にフォークを手に取った。
サラダをそっと掬い上げ、口に含む。
甘酸っぱいドレッシングで絡められたサラダは、いつもより少し苦く感じた。




