21.レスティエール帝国からの来訪者
二週間後、アレクシア様が言っていた来客者が訪れる日となった。
入国制限が厳しいこの地では、国外の人間が入国する際、細かな手続きが必要らしい。
それもあって、アレクシア様は朝食を終えてすぐ来客者の乗る船が到着する港へと向かった。
私はいつものように自室で読書や刺繍をして過ごした後、アレクシア様たちが戻って来る時間を見越して応接室に向かう。
私が応接室に入ると、ローテーブルを挟むように置かれたソファの片側にジーニアス君が座っていた。
私とジーニアス君は、ここでアレクシア様が連れて来るお客様の話を聞く事になっている。
「ジーニアス君」
私が呼びかけると、ジーニアス君はこちらを一瞥し、すぐに目を伏せた。
なぜか分からないけれど、最近ジーニアス君に避けられている気がする。
顔を合わせるとすぐにどこかへ行ってしまうし、会話もまともにできていない。
温泉宿でお手伝いをしていた時は、少しは仲良くなれたと思っていたのだけど……。
少々の気まずさを覚えながらも、それを払拭するように笑顔で訊ねた。
「隣、いいかしら?」
「……」
ジーニアス君は私を見る事なく無言のまま立ち上がり、ソファから離れる。
真っすぐ壁際へと向かい、壁と背合わせにして置かれている椅子に腰掛けた。
――……そんなに私と一緒に座るのが嫌なのかしら……?
密かにショックを受ける私を見て、ジーニアス君は呆れるような溜息を吐き出した。
ギシッと背もたれに上半身を預け、チラッとこちらに視線を送る。
「……あなたが隣に座ってると、あの人に殺されそうだから」
不満げな声ではあるけれど、落ち込んでいる私へのフォローにも聞こえる。
――嫌われているわけではないのかしら……?
そう思うと、少しホッとした。
ソファに腰掛けると、ふかふかとした座面と背もたれが体によく馴染んだ。
とても座り心地が良い。新調したばかりなのか、新品独特の素材の香りが漂ってくる。
それに比べ、ジーニアス君が座る椅子は、繊細な木彫りが施されたお洒落な椅子ではあるけれど、座面は布張りもされておらず、座り心地はあまり良くは無さそう。
人が座るためというより、装飾を目的として作られた物かもしれない。
ジーニアス君が先にソファに座っていたのに、後から来た私が特等席を奪ってしまったようで、なんだか後ろめたい。
「ジーニアス君、場所変わる?」
「……」
ジーニアス君は無言のまま、伏せていた目を半分ほど開き、
「ないから」
きっぱり断ると、腕と足を組みながら溜息交じりに告げる。
「あなたをこんな硬い椅子に座らせてたら、それこそ僕の首が飛びそうなんだけど」
「……」
――……やっぱり硬いのね……。
それを気の毒に思いながらも、ジーニアス君の気持ちを汲み、有難くソファに座らせていただく。
横長のローテーブルを挟んで対面側には、私が座るソファと同じ物が置かれている。
そこに座る予定の人物はもうすぐ到着するけれど……。
「今日来る人って、誰なのかしら? ジーニアス君は知ってる?」
「……さあ」
どうやらジーニアス君も誰が来るかは聞いていないらしい。
アレクシア様は私たちの計画に協力してくれる人だと言っていたけれど……。
――こんな危険な計画に賛同してくれる人なんて、本当に居るのかしら……?
「ねえ」
「え?」
突然話しかけられ、思わず声が上擦った。
ジーニアス君から私に話しかけてくるなんて珍しい。
――これは、仲良くなるチャンスなのでは……⁉
密かな期待を抱きながらジーニアス君へと視線を送る。
けれど、目が合った瞬間、思わず身を引いた。
こちらへ向けられた青い瞳は鋭く尖り、何かを探るようにジッと私を見澄ましている。
まるで今から尋問でも始まるかのような緊張感が漂い、自然と体が強張った。
「あの人とあなたの間で、何があったの?」
「……!」
その問いに、ドキッと心臓が跳ね、思わず息を呑んだ。
そんな私の反応を見て、ジーニアス君は僅かに目をすがめる。
夜空のように澄んだ瞳が真っすぐ私を捉えたまま、誤魔化そうとしても無駄だというようにジーニアス君は続けた。
「あの人のあなたに対する執着、どう見ても異常でしょ。僕はあの人と直接会った事はなかったけど、兄さんから聞いていた人物とはまるで別人だし。最初はわざとそういう振りをしているのかと思ったけど、そうでもないんでしょ。それにあの人がおかしくなるのはあなたが絡む時だけだ」
「……」
ジーニアス君が抱いている疑問は、きっと誰もが密かに思っている事だと思う。
そもそも最初は皆、アレクシア様が二重人格を発症したと信じ込んでいた。
それまでのアレクシア様を知る人ほど、突然私を愛するようになった変貌ぶりを信じられなかっただろうし。
後に、アレクシア様自身が二重人格ではないとはっきり否定した事で、その思い違いは解消された。
けれど「じゃあどうして?」という疑問については誰も口にしない。
いや、もしかしたら私の知らないところでそういう話はあったのかもしれない。
それでも、答えを深く追求しないのは、理由は重要ではないと思っているからなのだろう。
アレクシア様が私を愛するようになったという事実だけは、疑う余地のないものだから……。
「何があったら、あの人がそこまで変わるの?」
けれど、ジーニアス君にとっては、その理由こそが重要なのだろう。
アレクシア様の私に対する想いがどれほど強固なものなのか。
何がそこまでアレクシア様を駆り立てるのか。
その愛が、決して覆らないという確信がほしいはず。
私への想いが消えた瞬間に、アレクシア様は再び皇帝側の人間となり得るのだから。
でも……私たちの間に起きた奇跡の話は、そう易々と口にできるものではない。
「ごめんなさい。私だけの判断で話せるような内容ではないの」
「……」
ジーニアス君は不服そうに顔を顰め、期待外れだというような溜息を吐き出す。
もう用はないとばかりにフイッと顔を逸らされ、それ以上何も言わなくなった。
ジーニアス君との間に更に分厚い壁ができてしまったようで、私も小さく肩を落とす。
言えるものなら、私も言いたい。
その身にルディオス君の人格を宿すジーニアス君なら、私たちに起きた奇跡を信じてくれるはず。
だけど、それを知ったジーニアス君は、果たしてどう考えるだろうか。
私たちは過去に回帰できたのに、なぜ自分たちはそうならなかったのか。
不公平だと。
そう悲嘆に暮れるジーニアス君の姿を想像すると、どうするのが正解なのか分からない。
――一度、アレクシア様に相談した方が良さそうね……。
どちらにしろ、このままジーニアス君と信頼関係を築けないのはよくない。
今後の計画にも支障をきたすかもしれないし……。
何よりも、心の支えでもあったアキさんと離れたジーニアス君が、少しでも気の休まる環境を整えてあげたい。
それを口にすれば、余計なお世話だと怒られそうだけど、ここに来てからのジーニアス君はずっと気が張り詰めているように見えるから……。
その時、ガチャッと扉が開き、
「マリエーヌ。待たせたな」
颯爽と部屋に入ってきたアレクシア様を見て、咄嗟に立ち上がる。
「いえ、アレクシア様もお疲れ様でした」
労いの言葉を掛けると、アレクシア様の表情がふわっと綻んだ。
いつも通りの笑顔を見れたおかげで、先ほどまでの緊張感から解放される。
胸を撫でおろす私を見て、アレクシア様は何か勘付いたようで。
「マリエーヌ。何かあったのか? まさか――」
アレクシア様の鋭い視線がジーニアス君へと向かう。
睨まれた本人は気付かないふりをしているのか、アレクシア様と目も合わそうとしない。
私は咄嗟にアレクシア様の前に立ち、パタパタと両手を振って話題を逸らす。
「いえ、特に何もございません! それよりもそちらのお方は……?」
私はアレクシア様の後方に佇むスーツ姿の男性へと視線を向けた。
アレクシア様よりも少しだけ小柄で、歳は二十代半ばくらいだろうか。
焦げ茶色の短髪は綺麗に刈り揃えられ、端正な顔立ちがはっきりと分かる。
愛想の良い微笑みを浮かべる男性は、清潔感のある爽やかな好青年という印象を受けた。
「ああ、紹介しよう」
アレクシア様が横に移動し、その人物を紹介しようとした時、ガタッ! と音を立ててジーニアス君が立ち上がった。
「なっ……! なんでお前がここにいんだよ!」
荒い口調で声を上げたのは……。
――ルディオス君⁉
来客者の男性を睨みつける瞳は赤く変貌し、ルディオス君の人格が現れた事を示している。
どうして急にルディオス君が現れたのかは分からないけれど、その様子からして、ルディオス君は相手が誰なのか知っているのだろう。
――もしかして、危険な人なの……?
見た目からの好印象と、アレクシア様が連れて来た人だからとすっかり警戒心を解いていたけれど、ルディオス君の反応に釣られて私も自然と身構えた。
もう一度、来客者の姿をしっかりと見据え――思わずギョッとする。
鮮やかな琥珀色の瞳が、溢れんばかりの涙で満たされていた。
「ああ……本当に……こんな奇跡が……」
ギリギリまで溜まっていた涙がついに決壊し、滝のように溢れ出した。
これにはルディオス君も「は……?」と、大きく目を見開き唖然としている。
男性は涙を流しながら、おぼつかない足取りでルディオス君の前まで歩み寄り、機敏な動きでその場に跪いた。
「ルディオス皇子殿下。ご無事で何よりです」
涙で湿った声を震わせながら、男性は粛々と告げた。
ルディオス君は困惑した様子で男性を見下ろした後、何か言いたげにアレクシア様へと視線を移す。
「その男はお前が知る人物ではない。息子の方だ」
アレクシア様の言葉に、ルディオス君は目を瞬かせる。
「息子……? ……確かに、やけに若いとは思ったけど……って、息子だとしても何でコイツがここにいんだよ」
「協力者だからだ」
「はぁ? コイツが?」
ルディオス君は怪訝そうに顔を顰め、目の前で跪く男性を見下ろす。
男性は小刻みに体を震わせたまま首を垂れ続けている。
「あ、あの……」
一人だけ状況が飲み込めず、私がおずおずと声を掛けると、アレクシア様は険しかった表情をすぐに和らげた。
赤い瞳が優しく細められ、私を安心させるような穏やかな声で告げられる。
「すまない、マリエーヌ。すぐに説明する」
直後、その瞳が鋭く尖りルディオス君を睨みつける。
「ルディオス。お前はジーニアスの中に戻れ。お前が表に出ているとジーニアスが話を聞けないだろう」
「……いいけど、本当にコイツ信用できんのか?」
口を尖らせるルディオス君に、アレクシア様は軽く鼻を鳴らし、男性を見下ろす。
「信用できるかはともかくとして、少なくともこの男が僕たちに危害を加える事はない。これを見れば分かるだろ」
「……」
ルディオス君は怪訝そうに眉を顰めて男性を見下ろした後、諦めたように溜息を吐き出した。
瞼を閉じ……再び開いたその瞳は、澄んだ青色に染まっていた。
ジーニアス君はパチパチと目を瞬かせると、目の前で跪く男性に気付きギョッとする。
「……何この状況……誰なの……」
訝しげに男性を見下ろしながら、ジーニアス君はじりじりと後ずさる。
――そうよね……。急に目の前で知らない人が跪いていたらビックリするわよね……。
ジーニアス君の異変に気付いてか、跪いていた男性もパッと顔を上げた。
「……これは驚きました。本当に瞳の色が……」
「え……この人何で泣いてるの……」
互いに顔を見合わせたまま、男性は驚きに目を見開き、ジーニアス君は不気味そうに顔を歪める。
そんな二人を見て、アレクシア様は呆れ果てるように深い溜息を吐き出した。
「お前たち兄弟は本当にややこしいな……」
やれやれと言わんばかりにぼやくと、アレクシア様は跪く男性に立つよう促した。




