19.別荘の裏手で
私とリディアが別荘の外へ出ると、カンッカンッと木を鳴らすような音が聞こえてきた。
別荘の裏手には広く開けた平地があり、晴れた日の午前中はそこでアレクシア様がジーニアス君に剣術の稽古をつけている。
二人が使用するのは木製の剣で、聞こえているのは二人が木剣を打ち合っている音。
閑静な場所なのもあり、鳴り響く音がよく聞こえる。
しばらくして、子供たちを呼ぶために部屋へ戻っていたエマさんが、一人で屋敷から出てきた。
「マグナスは少し遅れてから来るそうです。ランディはお部屋にいなかったので、いつもの場所にいるのだと思います」
ランディ君は、剣の稽古をする二人の様子をいつも遠くから見学している。
なんでもランディ君の将来の夢は『父さんのような強い騎士になること』らしく、時には自分用の木剣を手にして素振りに励んでいる。
私たちが昼食を摂ろうと思っている場所は二人が訓練している所の近くなので、ランディ君も同じ場所にいるのならちょうどよい。
「では、私たちも参りましょうか」
緩やかにそよぐ風を受けながら、私たちは音が聞こえてくる裏手へと向かった。
石畳の上を歩くエマさんが躓いて転んでしまう事がないよう、私はなるべくエマさんに寄り添うようにして歩いた。
その後ろを、サンドイッチの入ったバスケットを持つリディアがついて歩いている。
「なんだか今日はいつもより賑やかですね」
おっとりとした声でエマさんが言う。
確かに、今日は木剣を打ち合う音がいつもよりも多い気がしていた。
時折、音と音が重なって二重に響く時もある。
「そうですね。もしかしたら……」
その先を言いかけた時、木剣を構えるランディ君の後ろ姿が見えた。
ランディ君の正面には、同じように木剣を構える人物がいる。
すると、ランディ君が素早く動いた。
「隙あり!」
「痛ぁっ!」
ランディ君の渾身の一振りが対峙する相手の手を弾き、その手に握られていた木剣がカランッと音を立てて地に落ちた。
「やったぁ! これで僕の全勝だね!」
ランディ君は嬉しそうに両手を上げてピョンピョンと飛び跳ねる。
その先では、手の甲を押さえながら膝を抱えて悶絶するレイモンド様の姿。
それを見て、エマさんの顔がサァッと青ざめる。
「まあ……。レイモンド様になんて事を……」
「あ! お母さーん!」
そんなエマさんの心境など露知らず、私たちに気付いたランディ君は太陽のような笑顔を輝かせる。
エマさんと同じ淡い金色の髪を揺らし、ランディ君は嬉しそうにこちらへ駆け付けると、薄紫色の瞳を輝かせながら声高らかに告げた。
「僕ね! レイモンドおじさんと三回勝負して全勝したんだ!」
えっへん! と、ランディ君はエマさんの前で胸を張る。
けれど、エマさんは苦々しく笑うだけで何も言わない。
それよりも、レイモンド様の怪我の具合が気になっているようで、ランディ君の後方で痛みに打ち震えるレイモンド様の様子をはらはらとしながら伺っている。
そんなエマさんの反応を見て、ランディ君は得意げだった笑みを消し、何か悪い事をしてしまったのかと不安げに眉を寄せた。
そこへ、私の後ろに控えていたリディアがスッと前へ出る。
「それは凄いですね! ランディ君はとてもお強いのですね!」
リディアからの賛辞を受け、ランディ君は「えへへ……」と嬉しそうに顔を綻ばせた。
しゃがみ込んでいたレイモンド様がのっそりと立ち上がると、赤くなった手の甲をさすりながらこちらへやってきた。
リディアのすぐ傍で立ち止まると、さりげなく手を下ろし、余裕のある笑みを見せる。
「さすがに、子供相手に本気を出すわけにはいかないからな」
「嘘ですね」
すかさず放たれたリディアの指摘に、レイモンド様の口から「うっ……」と小さな呻きが漏れる。
リディアは相手の嘘にも敏感だから、きっと図星だったのだろう。
しょぼんと項垂れるレイモンド様をフォローするように、エマさんが遠慮がちに口を開いた。
「ランディは三歳の頃から夫に稽古をつけてもらっていましたから……。大人でも日頃から鍛えている人でないと、ランディにはそう勝てないのですよ」
「そうですね。日頃から鍛えていない人だと勝つのは難しそうですね」
「うぐっ……」
うんうんと納得するように頷くリディアの横で、レイモンド様が再び呻く。
そこへランディ君が身を乗り出し、意気揚々と話しかけてきた。
「僕ね、小さい時は兄ちゃんと一緒に父さんから剣を習ってたんだ。でも、兄ちゃんは勉強が忙しくて剣を習うのをやめちゃったから、打ち合う相手がいなくて寂しかったんだ。だからレイモンドおじさんが相手してくれて嬉しかったんだけど、まさかこんなに弱いとは思わなかった」
「ランディ!」
エマさんの一喝に、ランディ君はビクッと背筋を伸ばす。
レイモンド様はランディ君の追い打ちによりその場に崩れ落ちるも、地に手を着いた四つん這いの状態でなんとか耐えている。
その姿を見ながら、つい二ヶ月ほど前まで落ち込んでいたレイモンド様が、また塞ぎ込んでしまわないかとちょっとだけ心配になった。
――でも、リディアがいるからきっと大丈夫よね。
あの時、リディアが決死の覚悟でレイモンド様を励まし、お義父様が遺してくれた手帳の存在もあって、レイモンド様は立ち直る事ができた。
その時についた嘘の影響でリディアは二日ほど寝込んでいたけれど、三日目にはすっかり元気になり仕事にも復帰した。
それからレイモンド様の謝罪を受け、二人は和解。
そしてこの件をきっかけに、レイモンド様のリディアに対する態度が明らかに変わった。
リディアに会うたびに体調を気遣い、荷物を運んでいるのを見れば代わりに持とうとしたり……。
特にリディアを見つめている時の眼差しは、アレクシア様が私に向けるものとよく似ている。
もはやレイモンド様がリディアに想いを寄せているというのは誰の目にも明らかだ。
――あとはリディアの気持ち次第なのよね……。
すると、レイモンド様は勢いよく立ち上がり、少しムッとした様子でリディアに告げた。
「僕だって、ちょうど鍛えなければならないと思っていたところだ。これから何があるか分からないからな。兄さんにも稽古をつけてもらう事になっている」
その話を、私もアレクシア様から伺っていた。
だからここに来る時も、もしかしたらレイモンド様がいるのかもと思った。
立ち直ってからのレイモンド様は、自領関連で連絡事項を取りまとめたりと、ここしばらく忙しくしていたけれど、それもひと段落したのだろう。
「それなら、まずはランディ君に勝てるくらい強くならないといけませんね」
「そんなもの目標のうちにも入らない」
「ですが、目標を立てるのは大事ですよ?」
「……そうだな」
レイモンド様は僅かに目を伏せ、軽く顎を撫でると、真っすぐリディアを見据えた。
「君を守れるくらいには強くなってみせる」
「…………え?」
レイモンド様の言葉に、リディアはポカンと口を開けて固まった。
まるで騎士の告白のようなレイモンド様のセリフに、私は大きく息を呑みながら口元に手を当てる。
くっつきそうでくっつかない、もどかしい二人の関係に焦れていた私にとっては、まさに歓喜の瞬間。
叫びたいほどの興奮を誰かと分かち合いたくて、私はエマさんに視線を移す。
エマさんも「まぁ……」と小さく声を漏らし、キラキラとした期待の眼差しで二人を見守っていた。
レイモンド様の発言に文句を言いたげなランディ君の口は、エマさんの両手によりしっかりと塞がれている。
一方で、今もまだポカンと口を開けたままのリディアの顔が、徐々に赤く染まりだした。
気まずげに視線を逸らしながら、しどろもどろに口を開く。
「そ……それは……どういう意味で――」
「マリエーヌ!」
リディアの言葉は、アレクシア様の声によりかき消されてしまった。
先の方では、満面の笑みを煌めかせながらアレクシア様が手を振りながらこちらへ駆けてくる。
次の瞬間、リディアはササッと素早く動き、私の斜め後ろの定位置へと戻った。
真っ赤な顔をパタパタと手で仰ぎ、必死に熱を逃がしている。
決定的な瞬間にまでは至らず、少し惜しい気持ちになりながらも、私は駆け付けてきたアレクシア様へと向き直った。
「マリエーヌ。僕を迎えに来てくれたのか?」
いそいそと嬉しそうに声を掛けられると同時に、サッと私のすぐ横にバスケットが現れた。
私の専属侍女はとても優秀だと思う。
それを受け取り、アレクシア様の前に持ち上げた。
「今日は皆さんと一緒にお外で昼食を食べようと思いまして、サンドイッチを作ってきたのです」
「サンドイッチ? ……もしかして、マリエーヌが作ってくれたのか……?」
アレクシア様は大きく目を見開いて驚きを露わにすると、小刻みに手を震わせながら両手でバスケットを受け取った。
「はい。エマさんの発案で、私も一緒に作らせていただきました」
「僕のために……?」
「え?」
うっすらと頬を赤らめながら、期待の込められた眼差しを向けられて、私は返答に戸惑う。
当然、アレクシア様にも食べていただきたいと思って作ったのもあるけれど……。
「えっと……皆さんと一緒に食べようと思いまして……」
「僕の事を思って……?」
「……」
アレクシア様からの並々ならぬ圧を感じ、返答に悩んでいると、リディアが横からそぉっと顔を寄せ、
「マリエーヌ様。私が言うのもなんですが、ここは嘘でも旦那様のためだと伝えるのが最善かと思われます」
そう耳打ちするリディアの背後では、エマさんもそれに同意するようコクリと頷く。
二人に視線で了承を伝え、私はアレクシア様にニッコリと微笑みかけた。
「はい。アレクシア様のためにお作りしました」
「マリエーヌ……!」
アレクシア様は衝撃を受けたように大きく目を見開き、その瞳に薄っすらと涙を滲ませる。
「ありがとう……僕のために……」
感動に打ち震えながら、アレクシア様はバスケットを大事そうに抱きしめた。
――こんなに喜んでくれるなんて……。
その姿を見ていると、こちらの方が嬉しさに胸が熱くなり、同時になんだか面映ゆい気持ちにもなる。
けれど、公爵様の後方に佇んでいたジーニアス君がものすごく嫌そうな顔でこちらを見ているのに気付き、緩んでいた口元をキュッと引き締めた。
「あの、ジーニアス君もよかったら一緒に……」
「僕はいい」
プイッと素っ気なく顔を逸らし、ジーニアス君は足早に去っていく。
けれど、その足が突然ピタッと止まった。
直後、猫背気味だった背中がスッと伸びる。
「んじゃ、俺がジーニアスの代わりに食ってやるよ」
途端に口調が軽やかになり、こちらへ振り返ったジーニアス君の瞳は、先ほどまでの澄んだ青色から燃えるような赤色へと変貌していた。
「ルディオス兄ちゃんだぁ!」
歓喜の声を上げたランディ君が、ルディオス君の人格となったジーニアス君の体に飛びついた。
「よぉ、ランディ。久しぶりだな……つっても、一週間ぶりくらいか?」
ルディオス君はニィッと笑いながらランディ君の頭をガシガシと撫でる。
ジーニアス君の中には、すでに亡くなっている双子の兄、ルディオス君の人格が存在しているらしい。
――人格が変わると同時に瞳の色も変わるなんて、何度も見ても不思議よね。
深い青色の瞳がジーニアス君で、アレクシア様と同じ赤い瞳がルディオス君。
以前までは、長い前髪で隠すように瞳が覆われていたけれど、今は前髪を頭上で一括りにしているため、瞳の色の変化が分かりやすい。
おかげでどちらの人格が現れているかも把握しやすくなった。
ジーニアス君と入れ替わるタイミングはルディオス君次第らしいけれど、感情の昂ぶりによっては意図せず入れ替わってしまう事もあるらしい。
それと、ルディオス君の意識は常にジーニアス君の内側にあるらしく、ジーニアス君の行動を把握できる。
けれど、ルディオス君が表に出ている時はジーニアス君の意識はないらしく、ルディオス君が何をしていたかをジーニアス君は知る事ができないのだという。
どうしても伝えなければならない事がある時は、ルディオス君が書き置きを残す場合もあるらしい。
同じ体の中にいるのに、直接的な意思疎通が二人の間で交わせないのがなんとももどかしい。
「ルディオス兄ちゃん、僕とも剣の稽古してくれる?」
「おう、いいぜ。でもその前に、まずは飯にしようぜ」
寡黙であまり人を寄せ付けたがらないジーニアス君と違い、ルディオス君は言葉遣いは少々荒っぽいけれど、人懐っこい性格で面倒見も良い。
初めてルディオス君と挨拶を交わした時は、アキさんにそっくりだという印象を受けた。
ランディ君は、そんなルディオス君によく懐いている。
「お前はいらないんじゃないのか」
アレクシア様が不服そうに言うと、ルディオス君は呆れ顔となり反論する。
「ジーニアスはいらなくても俺はいるんだよ。……ったく……誰のせいで食欲失せたと思ってんだよ……」
後半、ぼそりと小さく呟かれた事に関しては、私も心の中でごめんなさいと謝罪した。




