17.自分の存在意義 sideレイモンド
両親の死の真相を知り、すっかり落ち込んでいるレイモンド視点です。
公爵家の男子として生まれたのにも拘わらず、早々に後継者候補から外された僕は、過酷な教育からは逃れられたものの、先に待ち受けていたのは厳しい現実だった。
誰からも期待されず、優秀な兄と比較されては好奇の視線に晒され、見下げられ……そこから生まれた劣等感は幾度となく僕を苦しめた。
自分の存在価値を見出せず、卑屈な思想に呑まれた僕は、母親から注がれる愛さえも信じられなくなった。
満たされない心の空白は、少しずつ広がりを見せていくようで。
隙間だらけの僕の心はほんの些細な事で傷つき零れ落ちる。
そんな傷だらけの僕の心は、兄に教えられた、ブルーロザリアという花の存在により救われた。
それは、母親が僕を愛していたという、確かな証。
母親から愛されていたと自覚してからは、すぐに卑屈な思想へと向かう悪い癖は徐々に薄れていった。
自分自身に対しても、少しずつ自信が持てるようになった。
それなのに……。
――父さんも母さんも……僕のせいで死んだのか……?
その悲愴な事実が、母親の愛により修復しつつあった僕の心を粉々に砕いていく音がした――。
「レイモンド様」
微かに聞こえてきたリディア嬢の声により、意識がゆっくりと覚醒していく
視界に映る部屋の中は、窓からの日差しですっかり明るくなっていた。
――ああ……もう朝か……。
眠っていたのか、ただぼんやりとしていただけなのかもよく分からない。
虚ろげな意識を持て余しながら、僕は横たわるベッドの上から扉へと視線を向ける。
再びコンコンコンッというノック音。次いで、リディア嬢の声が扉越しに聞こえた。
「レイモンド様、起きてらっしゃいますか? お食事の準備が整いましたが、いかがなされますか?」
リディア嬢がわざわざ食事の声かけに来るのは初めてだ。それほど長い時間、寝過ごしてしまったのだろうか……。
だが、体にのしかかる疲労感は全く抜けていない。
毎日寝ているはずなのに、日に日に疲れが蓄積していくようだ。何もやる気が起きない。
はぁ……と重たい溜息を吐き出し、寝返りを打って扉に背を向ける。
――僕の事は放っておいてくれ……。
それを口にするのも億劫で、心の中で呼び掛ける。
両親の死の真相を知り、打ちひしがれていた僕は、気付けばここへ連れて来られていた。
聞いた話によると、兄さんは皇子を利用して謀反を企てているのだとか。
当然、そんな危険な計画に協力するつもりはない。とはいえ計画を知られた以上、僕を帝国へは帰せないと判断したのだろうか。
だが、これでよかったのかもしれない。
こんな状態で自領へ戻ったところで、どうせ使いものにならない。
留守を任せている僕の補佐は優秀だ。
彼がいればなんとかなるだろう。
もういっそのこと、爵位も領地も何もかも譲って彼が領主となった方が良いとさえ思える。
――僕の代わりなんていくらでもいるさ。
責任も思考も、何もかも放り捨てて現実から逃避しようとした時、
「失礼いたします」
その声と共にガチャッと扉が開く音がした。
反射的に振り返ると、「あ……」と口を開けたリディア嬢と目が合った。
――しまった……。鍵を掛け忘れて……。
それを後悔したところでもう遅い。
すぐさま自分の状態を確認し、頭を抱えたくなった。
髪の毛は無造作に乱れ、着崩れた寝間着からは肩と胸元が露わになっている。
とても嫁入り前の女性に見せられるような姿ではない。
それなのに、そんな僕の姿をリディア嬢は何とも言えない顔でジッと見つめている。
せめて視線を逸らすくらいしてほしいのだが……。
とりあえず乱れた寝間着を手早く整える。
すると、それまで硬直していたリディア嬢が動き出し、苦々しく笑いながら肩を竦めた。
「えっと……お返事がなかったので、不測の事態が起きたのかもしれないと思い、念のために確認させていただきました。とりあえずご無事なようで安心いたしました」
「……」
――心配されるような価値なんて、僕にはない。
「あの、食事はどうされますか?」
「……必要ない」
つい素っ気なく返事をすると、リディア嬢は軽く目を見張った。
「ですが、昨日もあまり食べられていなかったですよね? 食欲がないのであれば、食べやすい食事をお願いしましょうか?」
不貞腐れた態度を取る僕に対しても、リディア嬢は体調を気遣い配慮してくれる。
だが、その優しさが僕の卑屈さを更に加速させた。
「必要ない。何もいらない」
「そうですか。でしたら、気が向いた時に食べられそうな軽食を――」
「必要ないと言っているだろう!」
自分の声の大きさに、思わずハッと我に返る。
顔を上げると、リディア嬢が委縮するように身を竦める姿が見えた。
「……すまない」
すぐに謝罪を述べるも、自分に対する嫌悪感が膨れ上がる。
――こんなのただの八つ当たりだ。リディア嬢は僕を心配してくれているだけなのに……。
「必要ないのは僕の方なんだ」
「……え?」
僕の呟きに、リディア嬢はキョトンとしたような声を出す。
「僕なんて……いなければよかったんだ」
「…………」
長い沈黙が流れる中で、少しずつ頭が冷えていく。
――こんな事を言ったところで、余計に困らせるだけじゃないか……。
すまない、今のは忘れてくれと、僕が発言を取り消すよりも先にリディア嬢が口を開いた。
「それは……どうしてそう思われるのですか……?」
不思議そうに僕を見つめ、軽く首を傾げる。
僕の気持ちに歩み寄ろうとするリディア嬢の姿に、どうしようもなく縋りたい気持ちに駆られた。
「両親が死んだのは僕のせいなんだ」
「え?」
再びキョトンとするリディア嬢に、もう一度分かりやすく告げた。
「僕を守るために、僕の両親は殺されたんだ」
「……ええぇ⁉」
今度は大袈裟に思えるほどの驚愕の声が部屋の中に響き渡る。
「だから僕なんて……最初からいなければよかったんだ……」
「…………はい?」
全く理解できないとばかりに表情が抜け落ち、リディア嬢はコテンと首を傾げた。
「えっと……今の話のどこにレイモンド様がいなければよいという結論に至るものがあったのか、よく分からないのですが……」
神妙な面持ちで考え込むリディア嬢に、僕は両親が殺されるに至った経緯を説明する。
その流れで公爵家の後継者に課せられる教育についても軽く触れた。
「だから僕がいなければ、両親は――」
「そんなの皇帝が悪いに決まってるじゃないですか!」
僕の言葉をかき消すように怒声を上げたリディア嬢に、僕は思わず唖然とする。
リディア嬢は胸元で拳をぎゅっと握りしめると、怒りの形相でワナワナと震え出した。
「公爵様からお話をお聞きした時にも思いましたが、皇帝って本当にとんでもないクソ野郎なんですね……。自分の子供を殺したり、人を思いのままに操ろうとしたり、レイモンド様のご両親に関しても、ただ命令に背いただけでそんな酷い仕打ちをするなんて……許せません。……ねばいいのに」
ドス黒く淀んだオーラのようなものを纏わせながら、ブツブツと物騒な事まで言い始めた。
ここがレスティエール帝国であれば、間違いなく不敬罪で連行されていただろう。
だが、僕のために怒ってくれているのだと思うと、少しだけ胸がスッとした。
そんな風に僕も考えられたのなら、少しは気持ちも晴れただろう。
「だが、公爵家の後継者教育は皇室により定められた規則でもあるんだ。本来なら、それを拒否するなどありえないし、あってはならない。それなのに父さんは……」
「では、それを拒否したレイモンド様のお父様が悪いのですか?」
ズバッと問われ、一瞬言葉に詰まる。
「いや……。父さんは……母さんの気持ちを優先し、僕を教育から守ろうとしただけだ」
「そうですよね。親が子を守ろうとするのは当然です。それに対して勝手に憤慨して手を下した皇帝がやっぱり悪ですよ」
澄んだ眼差しでそう言い切ると、リディア嬢は頷きながら自分の言葉に納得している。
しかし、僕はまだ納得できない。
「だが、僕がいなければ、父さんがそんな事を申し出る必要もなかった」
「そうだとしても、レイモンド様は悪くありません。それだけは分かります」
迷いのない真っすぐな言葉。
その清々しさを前にして、再び卑屈な思想が僕を陰らせた。
「……まさか君に慰められるとはな……」
「はい?」
リディア嬢の首がコテンと折り曲がる。
まるでとぼけるような彼女の姿に、思わず自嘲の笑みが零れる。
「ふっ……そう気を遣わずとも、いつものように本音を言えばいいだろう。その通りだと。僕がいなければ両親は死なないで済んだと」
「は?」
ピクッと目尻が動き、リディア嬢の顔が不快に歪む。
猫のような瞳を更に吊り上げ、リディア嬢は口を尖らせた。
「レイモンド様は、私が嘘をつけない体質だというのはご存知ですよね? それなのに私が嘘を言っているとおっしゃるのですか?」
「ああ、そうだ。さすがに君でも、こんな落ちぶれた人間に追い打ちをかけるような事は言えないだろうからな」
「そう思っていないから言わないだけです」
「ふっ……。そう言うしかないだろうな」
「………」
眉根を寄せ、リディア嬢は不服そうに僕をじっとりと睨む。
やがてその口からわざとらしい溜息が吐き出され、小さく舌打ちする音が聞こえた。
正直者の彼女らしく苛立っているのが分かる。その調子で本音をぶつければ良いものを。
「あら、リディア?」
開いていた扉の先から義姉さんが顔を覗かせた。
不思議そうに目を瞬かせながら、義姉さんは僕とリディア嬢を交互に見比べる。
直後、ハッと目を見張り口元に手を当てた。
「えっと……ごめんなさい。お邪魔だったわよね?」
この状況をどう勘違いしたのか、義姉さんは頬を赤らめながらこの場から離れようとする。
「マリエーヌ様」
それをリディア嬢が呼び止めると、義姉さんはピタッと足を止めた。
リディア嬢は僕に背を向け、姿勢を正して義姉さんと向き合う。
「急な申し出で大変恐縮なのですが、本日、お休みを頂いてもよろしいでしょうか?」
「え?」
突然の休暇申請に、義姉さんはキョトンとした顔で聞き返す。
僕も、なぜリディア嬢が突然休暇を申し出たのか分からない。
――これ以上、僕と話をしたくないという事か……?
そう思うと、リディア嬢に見放された気がして気持ちが一気に沈み込む。
「え……ええ……。それは構わないけれど……」
戸惑いながらも、義姉さんはリディア嬢の休暇を了承した。
「申し訳ございません。それと、場合によっては明日も同じように休暇を頂いてしまうかもしれません」
これには義姉さんも深刻そうに眉を顰める。
「そうよね……。急に慣れない土地に来たのだから、具合も悪くなるわよね。いいわ。この機会にゆっくり休んでちょうだい」
「ありがとうございます」
どうやら義姉さんは、リディア嬢の体調が良くないと思っているらしい。
先ほどの様子から見てもそうは思えないのだが……。
すると、リディア嬢は義姉さんの後方を覗き込み、こちらの様子を伺っていた侍女に視線を移す。
「アイシャ」
「え?」
突如、名を呼ばれた深紫色の髪の侍女はビクッと肩を揺らし、目を瞬かせる。
「今すぐアレを持ってきてください」
「え? アレって……? ……リディア……あなたまさか⁉」
何か思い当たるものがあるらしく、侍女の顔がサァッと青ざめる。
それを見て、リディア嬢は大きく頷いた。
「今すぐお願いします」
念を押すように言うと、リディア嬢は再び僕へと向き直り、こちらに歩きだす。
それと同時に何かを託された侍女はすぐに廊下を駆け出した。
それを見て、義姉さんは「え? え?」と困惑しながら立ち尽くしている。
僕も状況がよく分からない。
そうこうしているうちに、ベッドに座る僕のすぐ前にリディア嬢が立ち塞がった。
ムッと口を引き結び、力強い眼光でこちらを見下ろす姿を前に、自然と背筋が伸びる。
「レイモンド様は、ご両親が亡くなられた事をそんなに自分のせいにしたいのですか?」
面と向かって問われ、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
――僕が、自分のせいにしたがっているだと……?
そんなつもりはない。
ただ……。
「僕は事実を言っているだけだ」
そう。それが事実なのだから仕方がない。
それを否定されたところで、気を遣われているような気になり余計に惨めになるだけだ。
「私も事実しか言っておりません。ご両親の事でレイモンド様が責任を感じる事は何もない、と」
リディア嬢は毅然とした態度を一切崩さない。
その姿に僕の方が気圧される。
それでも、長年に渡り染み付いた卑屈な思考はそう簡単に拭えない。
リディア嬢の言葉も素直に受け入れられない。
信じたいのに、信じれない。
その焦燥が、僕の声を荒げた。
「だからそれが……僕に気を遣っていると言っているんだ!」
こんな当たり散らすような事を言いたいわけじゃない。
言えば言うほど、まるで自傷行為のように心がズタズタになっていく。
それなのに、今はどんな慰めも受け入れられる気がしない。
それすらも傷口に塩を塗られるようで、ただ痛みが酷くなるだけだ。
それならもういっその事、その通りだと言ってくれた方がマシだ。
「分かりました。でしたら、レイモンド様のご要望にお応えしましょう」
「なに……?」
思わぬ言葉に唖然とする僕の前で、リディア嬢はスゥッと大きく息を吸い込み――。
「私もレイモンド様のご両親が亡くなったのはレイモンド様のせいだと思います。レイモンド様さえいなければ死なずに済んだのですから。レイモンド様なんていなければよかったですね」
真っすぐ僕を見据えたまま、なんとも彼女らしい言葉でそれを言い切った。
「……」
何も、言葉が出なかった。
しん……と鎮まり返る部屋の中で、瞬きするのも忘れてしまったかのように、僕はただ動けずにいた。
静かに刻み続ける心臓の鼓動。
それを聞きながら、焦点の定まらない視線を地に落とす。
リディア嬢は僕の要望通り、一切の気遣いを捨てた本音を僕に伝えてくれたのだ。
それを望んでいたのは僕のはずなのに……。
――どうして僕は……こんなにも打ちひしがれているのだろう。
分かっていた事だ。
自分がいなければ両親は死ななかったと。
だから慰めなどいらない。惨めになるだけだからと。
それなのに……いざ彼女の口から僕がいなければよかったと聞いて、絶望の淵へと一気に叩き落されたような気になった。
もう、この世に僕の居場所など存在しないのだと、突き付けられた気がした。
ガックリと肩を落とし両手で顔を覆う。
こんな酷い顔を彼女に見られたくない。
「やはり……君もそう思っていたんだな……」
「……」
「僕のせいで両親は死んだのだと……」
「……」
「僕さえいなければよかったと……」
「……」
僕はいったい、何を期待しているのだろう。
この期に及んで否定してほしいと思っているのだろうか……?
だが、彼女からは何の返答もない。
それが答えだ。
ふいに目頭が熱くなり、じわりと何かが瞳に溜まる。
――やはり僕は、必要のない人間なんだ……。
ずっと昔から、何度打ち消そうとしても居座り続ける僕の思想。
事あるごとに僕を苦しめる呪いのような言葉が、冷たい雨のようにしとしとと僕の心に降り注ぐ。
――僕なんて、生まれてこなければよかった……。
直後、ドサッ……と、何かが倒れる音がした。
「リディア⁉」
義姉さんの悲鳴のような声が聞こえ、ハッと我に返る。
その視線の先ではリディア嬢が床に横たわっていた。
「リディア嬢⁉」
ベッドから飛び降り、リディア嬢の体を抱き起こす。
その顔は真っ赤に染まり、苦しげに呻いている。
それに体も熱い。
本当に具合が悪かったのか?
リディア嬢の汗ばむ額に義姉さんが手を当て、眉根を寄せる。
「ひどい熱だわ。それにこれ……蕁麻疹……?」
見れば、リディア嬢の首元、両手足が赤く染まり、ブツブツとした赤い斑点がそこかしこに見られる。
いったい彼女の身に何が起きているんだ……?
「あっ……もう⁉」
そこへ先ほどリディア嬢から指示を受けていた侍女が部屋に飛び込んできた。
その手には水のような液体が入ったコップが握られており、侍女はそれを零さないよう気を付けながら足早にこちらへとやってくる。
「リディア、これ……飲める? 薬はもう溶かしてあるから」
侍女がディア嬢の口元にコップを近付けると、薄目でそれを確認したリディア嬢がゆっくりと口を開いた。
飲みやすいように頭を支えると、侍女がリディア嬢の口にコップをつけ、ゆっくりと少しずつそれを飲ませていく。
皆に見守られながらそれを全て飲み干すと、リディア嬢の体から力が抜けた。
その口からヒューヒューと苦しげな呼吸音が漏れる。
まだ苦しそうではあるが、薬が効くのを待つしかなさそうだ。
不安そうにリディア嬢の様子を見ていた義姉さんが、神妙な面持ちで侍女に問いかける。
「アイシャ。リディアはどうしたの?」
「アレルギー反応です。リディアは嘘を吐くと、激しいアレルギー反応を起こしてしまうんです」
「アレルギー……? 嘘で……?」
驚きに目を見張り、義姉さんはリディア嬢を心配そうに見つめる。
侍女は苦渋の色を顔に滲ませ、リディア嬢を見つめたまま粛々と語り始めた。
「以前、私が仕えていた主人は癇癪が酷くて、使用人に対する当たりが激しかったのです。私も何度も鞭で叩かれて……それが耐えられなくなり、ある日屋敷を飛び出して寮へ逃げたのです。ですが、怒った主人が私を探しに寮まで押しかけて……。その時、主人がリディアに私が居ないかと訊ねたのです。リディアは嘘を吐けない侍女として知られていたので……。でも、リディアは居ないと嘘をついたのです。それで主人は納得して帰ったのですが……その直後、今と同じように倒れて……」
それを語る侍女の瞳に溜まっていた涙がポツッと床に落ちた。
気持ちを沈めるように息を吐き、侍女は涙声を震わせる。
「リディアにとって、嘘をつく事は命の危険を伴うほどの行為なのです。それなのに、あの時のリディアは命を懸けて私を守ってくれたのです」
「そう……そんな事があったのね……。ありがとう、アイシャ。思い出すのも辛かったでしょう」
義姉さんが侍女を労うようにそっと背中を撫でると、侍女は堰を切ったように涙を流し始めた。
そこへ男性の使用人が現われ、義姉さんに話しかける。
「マリエーヌ様。リディアを部屋までお運びします」
侍女がすでに話をしていたのだろう。
状況を把握しているらしい使用人は、僕の腕からリディア嬢を受け取ろうとこちらへ手を伸ばす。
それを、僕は反射的に身を引いて拒否した。
「いや、僕が運ぶ」
「レイモンド様」
僕がリディア嬢を抱きかかえて立ち上がると、すぐに義姉さんから呼び止められた。
義姉さんもその場から立ち上がり、ジッと僕を見つめる。
いつも優しげな新緑色の瞳が、今は厳しい眼差しとなり真っすぐ僕を見据えている。
「今のレイモンド様にリディアをお任せする事はできません」
いつもの義姉さんからは考えられないほどのゾッとするような冷めた声。
静かな怒りがその姿からも伝わり、背中を冷たい汗が伝った。
姉さんは僕から視線を外し、男性の使用人へと向ける。
「リディアをお願いします」
指示を出された使用人は、僕に構う事なくリディア嬢を僕の腕から抱き上げると、颯爽と部屋から立ち去った。
その後ろに続いて先ほどの侍女も退室する。
僕と義姉さんだけとなった部屋の中で、義姉さんは再び僕と向き合った。
リディア嬢をあのような状態にまで追い詰めた僕に対し、義姉さんは怒っているのだろう。
――どんな罵声を浴びせられようとも、受け入れるしかない。
そう覚悟を決めた時、怒りに揺らぐ義姉さんの瞳に、僅かに憂いが滲んだ。
「リディアは、嘘をつけないばかりに相手を傷つけてしまう事に、よく心を痛めています」
「……」
――そうだろうな……。彼女はとても優しい人だから。
「そんな彼女にとって、相手を傷付ける嘘を言わなければならない事がどれほど辛かった事か、よく考えてください。そして彼女が命を懸けてまで伝えようとした事を、レイモンド様はしっかりと受け止めてください」
「……ああ。分かった」
義姉さんの言葉は、決して僕を責めるようなものではない。
だが、今の僕にはその言葉が何よりも刺さった。
本音が伝わらないのなら、嘘で伝えるしかない。
彼女が僕に伝えたかったのは、あの嘘とは真逆の言葉だった。
それをずっと僕に教えてくれていたのに、僕が信じなかったから……。
「もしもまた同じような事があれば、私が許しません」
追い打ちをかけるような義姉さんの言葉が更に心を抉る。
だが、自業自得だ。
両親の死とは違い、リディア嬢の不調については全て僕に落ち度がある。
「失礼します」
こんな時にも礼儀正しく頭を下げ、義姉さんは部屋から退室する。
パタパタと廊下を駆けて行く様子から、リディア嬢の所へ向かうのだろう。
リディア嬢の容体は気になるが、今の僕には彼女のもとへ行く資格もない。
ふいに足の力が抜け、よろめくようにしてベッドへと腰を落とす。
静寂に包まれた部屋の中で、大きな溜息と共に頭を抱え込んだ。
これまでの自分の言動を思い起こせば激しい後悔に襲われる。
周りの人間まで巻き込んで、辺り散らして不快にさせて、傷付けて……本当に情けない。
だが、こんな僕でもリディア嬢は見放さず、必死に救おうとしてくれた。
全ての慰めを拒絶する僕に、命懸けで言葉を届けてくれたのだ。
なんて勇敢で優しい女性なのだろうか……。
「レイモンド」
唐突に名を呼ばれて顔を上げると、気だるげに腕を組んだ兄さんが扉の前に佇んでいた。
「兄さん……」
「酷い顔だな」
真顔で告げられ、思わず顔を顰める。
自分がどんな顔をしているかは分からないが、兄さんが言うならその通りなのだろう。
「義姉さんに叱られたよ」
嘲笑の笑みを滲ませて言うと、兄さんは得意げに鼻で笑った。
「そのようだな。マリエーヌは大切な者を守るためならば、時には苛烈な一面を見せる事もあるからな。それも彼女の尽きる事のない魅力の一つだ」
兄さんは薄っすらと頬を赤く染めて微笑み、うっとりと心酔するような眼差しを明後日の方角に向けた。
絶望の淵に沈む弟を前にして、よくそんな姿を見せられるものだと感心する。
そんな兄から目を逸らし、溜息交じりに呟く。
「あの優しい義姉さんを怒らせてしまうとは……本当に僕は駄目な人間だな……」
「今更気付いたのか」
軽く眉を上げた兄さんにあっさりと肯定され、ぐうの音も出ない。
兄さんが僕に気遣いなど見せるはずがない。
こんな事ならリディア嬢を巻き込まず、最初から兄さんにとことん打ちのめされるべきだった。
再三の後悔を溜息と共に吐き出し、投げやりに問いかけた。
「で……そんな駄目人間に何か用か?」
「ああ。これをお前にやろうと思ってな」
兄さんが胸元の内ポケットから取り出したのは古びた手帳だった。
「これは……?」
差し出された手帳を受け取り適当なページを開く。
手書きの文字が綴られたその筆跡には見覚えがあった。
僕がその人物の顔を思い出すよりも先に兄さんが口を開いた。
「父親の手記だ」
「⁉ 父さんの⁉」
確かに、これは父さんの字で間違いない。
書かれている内容は日記のようにも思える。
だが、兄さんと同様に卓越した記憶力を持っていた父さんが、日々の記録をわざわざ書き残す必要があったのだろうか?
「僕はもう読んだ。それはお前が持っておけ」
そう言い捨てると、兄さんは速やかに部屋から去った。
用が済んだらさっさと去るところは父さんとそっくりだ。
だが、わざわざこれを僕に渡しに来たという事は、何か意味があるに違いない。
僕は開いていたページを一度閉じ、最初の一ページ目をめくる。
『レイシアへ』と冒頭に綴られた文章を見れば、これが母さんのために書き残された物なのだと分かる。
幼い日に見た二人の姿を思い出し、自然と顔が綻んだ。
――父さんは、母さんの事ばかり見ていたからな……。
手記の中でも、書いてあるのは母さんの事ばかり。
それなのに、父さんは母さんへの恋心を自覚していなかったらしい。
鈍いにも程がある。
更に読み進めると、僕が生まれた時の事についても書かれていた。
その内容を目にして、僕は大きく息を呑んだ。
そこには、兄さんの教育を巡って父さんと母さんが対立し、父さんが母さんを殺そうとした事。
心臓の止まった母さんを、お腹の中にいた僕が体を叩いて蘇生させた事。
出産後も、母子ともに危険な状態の中、僕と母さんが共に支え合い命を繋いでいた事が書かれていた。
――早産で危険な状態だったとは聞いていたが……まさかこんな事が起きていたとは……。
手記の続きには、母さんを殺しかけた事に対する父さんの悲痛な後悔と、母さんへの謝罪も書き綴られている。
微かに歪んだ筆跡が父さんの悔恨を表しているようで、それを読んでいる僕まで胸が痛んだ。
そして次に書かれていた文章に、僕は思わず目を見開いた。
『あの時、レイモンドがいなければ、君は命を落としていただろう。レイモンドが居てくれて本当によかった。よくやったと褒めてやればよかったな』
「あ……」
途端に目頭が熱くなり、文字が滲んで読めなくなった。
零れ落ちそうになった雫が手記に落ちてしまわないよう、咄嗟に指先で拭い払う。
胸が熱くなり、喉の奥から何かがせり上がるような感覚を、必死に呑み込み抑え込んだ。
――……父さんが……僕の事を……?
かつて家族と共に過ごした日々が脳裏に蘇る。
幼い頃の僕は、いつも無表情の父さんはどことなく不機嫌なようにも見えて、あまり近寄らないようにしていた。
だが、母さんが話しかけると少しだけ表情が柔らかくなり、怒っているわけではないのだと安心した。
仕事が多忙なうえ、邸を留守にする事が多かった父さんと過ごした時間は決して多くはない。
それでも僕にとってはこの世にただ一人の父親であり、誰よりも尊敬していた。
だからこそ、認めてほしかった。
見てほしかった。
兄さんだけでなく、僕の事も……。
ここに綴られた文章は、僕が一番聞きたかった言葉だ。
それを誰よりも言ってほしかった人は、すでにこの世にはいない。
それなのに、こうして今、何年も前に綴られたであろう手記を通して伝えられるなんて……。
――まるで奇跡じゃないか……。
「ふうっ……く……」
堪えきれなかった嗚咽が零れ、瞳から流れた熱い雫が頬を伝う。
――僕は、ここにいてよかった。生まれてきた事に、ちゃんと意味はあったんだな……。
自分の出生を恨めしく思う時もあった。
もしも公爵家の男子として生まれていなければ……と、意味のない幻想を抱いた事も少なくはない。
だが、今は父さんと母さんの子として生まれて良かったと、心の底から思える。
――僕は幸せ者じゃないか……。
壊れかけの心が温かく満たされていくのを感じながら、父親の手記を胸に掻き抱く。
両親と歩いた中庭に漂う春の陽気にも似た温もりを抱きしめながら、僕はしばらくの間涙を流し続けた。
その手記を読んで、父さんも僕と同じ思いを抱いていたのだと知った。
僕が自分の存在意義を必死に見出そうとしていたように。
父さんもまた、父親としての存在意義を証明するために奔走していた。
息子に対する愛情が分からないままに葛藤し、悩み苦しみながら……。
たとえ愛を示す事ができずとも、僕たちの父親であろうと命まで懸けて家族を守ろうとした。
その想いこそが、父さんの愛情深さを証明するものだというのに……。
何よりも驚いたのは、父さんが夢で見たという兄さんの未来。
義姉さんを愛する兄さんの姿を、父さんは夢の中で目の当たりにしていた。
とても信じられない出来事だが、父さんはその夢に一筋の希望を見出した。
それをきっかけに、兄さんが愛する人と共に過ごす未来を築けるよう行動を起こしていた。
そして自分が決して目にする事のできない未来を、父さんは母さんに見届けてほしいと託した。
だが、その母さんも、すでにこの世にはいない。
――それなら……僕が母さんの代わりに、あの二人の未来を見届けよう。
父さんが託そうとした未来を、兄さんが切り拓く瞬間を。
兄さんが過ごせなかった家族の時間を、新しい家族と共に過ごす光景を。
そんな未来を実現するために、僕にできる事があるのなら助力は惜しまない。
――僕も、兄さんと共に闘おう。
その決意を胸に抱き、真っすぐ顔を上げた僕は、地にしかと足を踏みしめて立ち上がった。
ここまで読んで頂きありがとうございます!
次回、5月上旬頃より連載を再開いたします!
そして、コミカライズを連載しているWebサイト、コロナEXが3周年を迎えたそうです。
その企画のひとつであるPV数ランキングにて、きのなま公爵が新連載部門1位となりました…!
本当にたくさんの方に読んで頂き、誠にありがとうございます!
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