16.その想いを何と呼ぶのか
アレクシア視点に戻ります
暖炉の火が灯された寝室。
僕とマリエーヌは二人掛けのソファに座り、父親が遺していた手記を読んだ。
それは母親との出会いから始まり、この別荘に旅行へ来た時までの二十五年間。
父親にとって印象深かったという出来事が綴られていた。
『君が僕を助ける理由が分からず、差し出される食事に毒が盛られるのはいつだろうかと常に疑っていた。君は人に毒を盛るような人間ではないというのに、僕は何を勘繰っていたのだろうか。重たい鍋ごと持って来る君を見て、効率の悪い女だとも思っていたが、あれは少しでも温かい料理を用意しようとした君の気遣いだったのだろうな』
母親との出会いでは、敵兵である自分を献身的に看病する母親の優しさを理解できなかった当時の心境と、それを振り返っての想いも書き綴られていた。
それは僕の知る父親の姿からはとても考えられないほど、人間味のある内容に思えた。
『公爵邸に来てからの君はやつれていく一方だった。いったい何に不満があるというのか。あんな細い体で子が産めるとは思えない。子を産めぬ妻など不要。さっさと見放すべきだと思っていた。あの時、君が花を好むのだと知らなければ、僕は君を公爵邸から追い出していただろう。君の居場所など、他には何処にもないというのに……。こんな僕を君は軽蔑するだろう。だが、改修された中庭を見た時の君の笑顔は今も忘れない。あの笑顔をもう一度見たいと思ったが、君を笑わせられるのはいつだって息子たちだった。やはり愛し合う者同士には敵わないな』
母親と息子の間で交わされるささやかな愛情表現。
それを羨望の眼差しで見つめる父親の姿が想像できた。
誰からも愛されなかった自分は、誰も愛する事ができない。
ゆえに、誰も愛せない自分は、誰からも愛される事がないのだと、父親は手記の中で綴っていた。
その考え方にはひどく共感を覚える。
マリエーヌと出会う前の僕も、同じように考えていた。
だが、この世には無償の愛を与えてくれる存在がいる。
僕にとっては、それがマリエーヌだった。
そして父親にとっては、母親がそうだったのだろう。
この手記を読む限り、父親は、そんな母親からの愛情に気付けなかったようだが……。
更に読み進めていくと、マリエーヌについて書かれている箇所に辿り着いた。
父親が見たという不可思議な夢。
その内容を母親に詳しく伝えようとしたのだろう。
その時の状況が事細かに綴られている。
それを読みながら、僕は思わず息を呑んだ。
「アレクシア様……これって……」
隣で一緒に手記を読んでいたマリエーヌも、信じられない様子で目を見開いている。
そこには僕が前世での記憶を取り戻し、必死になってマリエーヌを捜していた時と全く同じ内容が書かれていた。
「……予知夢というものを聞いた事があるが……そういう類のものだろうか……」
そう見解を述べてみたものの、すぐに頭を捻る。
高熱でふらつく僕の様子や口にした言葉、マリエーヌの様子や周囲の反応も、その全てが実際の状況と合致している。
これほど完璧な予知夢があるのだろうか……?
しかも父親は、自分の未来ではなく僕の未来を見た事になる。
――もし自分の未来を予知できていたのなら、少なくとも母親の死は防げていただろうに……。
だが、父親はその夢を見た事により、僕が誰かを愛する未来について考えるようになったらしい。
そして、いつかその未来が訪れた時に、自分たちと同じ悲劇を生まないよう道を残した。
その結果、僕たちは今、こうして皇帝の目から逃れられている。
そう思うと、僕たちの身に起きた奇跡の痕跡……とも思えた。
とはいえ、この事象について考えたところで何も分かるはずがない。
考える事は中断し、先を読み進めた。
『アレクシアが愛する者と共に生きる未来を築くため、その手掛かりとなる有益な情報を集めた。公爵邸の執務机、この手記と同じ場所にその情報を隠している。いつか、アレクシアの愛する者が現われた場合に、君からアレクシアにそのありかを教えてやってほしい』
父親が密かに集めていた情報、国籍の取得、皇子の生存についてはここに記されていない。
誰の目に触れるかも分からないこの手帳に、情報の詳細を書き残すのは危険だと判断したようだ。
その情報の在りかだけを母親から僕に伝えるつもりだったらしいが、まさかそちらを先に見つけるとは父親も想定していなかっただろう。
手記の後半には、レイモンドとの関係が拗れた事を憂い、関係を修復しようにもどうすればよいのか分からないと葛藤する辛辣な思いが綴られていた。
息子との関係が変わり、自らも塞ぎ込もうとする母親を中庭へ誘ったり贈り物をするなどして、父親なりに母親を元気づけようと奔走していたようだ。
最後のページは、母親との旅行を満喫する父親の心情、そして母親への感謝の言葉で締めくくられていた。
手記を一通り読み終えての感想は言うまでもない。
僕の父親は、母親の事をよほど愛していたのだろう。
まるで母親へのラブレターにも思えるこの手記を読みながら、なぜその想いに自身は気付かなかったのだと父親の鈍感さに呆れ果てた。
本人に自覚が無かっただけで、周囲の人間も、父親が母親へ向ける特別な感情に気付いていたのかもしれない。
その情報が皇帝の耳にまで届いていたのだとしたら、母親の殺害も最初から計画に織り込まれていたと考えられる。
母親を守りきれなかった父親の絶望を想像すると、かつての自分の心境が思い起こされた。
目の前で愛する者を失う辛さは、身を焼かれる苦しみよりも壮絶で耐え難いものだと知っている。
グッと拳を握り、マリエーヌへと視線を移す。
彼女はハンカチで目元を拭っていた。
「マリエーヌ。大丈夫か?」
問いかけると、マリエーヌは涙に濡れた瞳を僕に向け、潤んだ声で答えた。
「はい……申し訳ありません……」
マリエーヌは、レイモンドを後継者から外す際に父親が死刑宣告を受けていた事がよほどショックだったらしく、そこからは時折、涙ぐみながら手記を読んでいた。
マリエーヌは気持ちを落ち着かせるように息を吐き、僕の顔を見上げる。
「あの……アレクシア様は、大丈夫ですか?」
心配そうに僕を見つめる瞳に、軽く笑って答えた。
「ああ。僕は大丈夫だ」
こうして手記を読み終え、僕の知らない父親の想いを知った。
だが……だからと言って、何も変わらない。
僕があの男に抱く感情など何もない。
「……本当に……ですか……?」
マリエーヌは、少し唖然とした様子で目を見開きながら僕をジッと凝視する。
再度、僕はわだかまりの無い笑顔を見せながら答えた。
「ああ、特に何も思う事はないからな」
だから僕の事は気にしなくてもいい。
そう伝えようとして口を開き、思わず息を呑んだ。
どうしてか、マリエーヌがひどく傷付いたような顔をしていた。
「マリエーヌ……?」
暖炉の灯が淡く照らす頬に触れようとした時、
「アレクシア様は、お義父様の事を憎まれていたのではないのですか?」
ふいに問われて、伸ばしかけていた手を止めた。
行き先を失った手を強く握りしめて、自分の膝上へと戻す。
その拳に視線を落としたまま、僕は重い息を吐き出した。
「ああ……その事か」
手記の中には、僕が父親を殺そうとした時の事まで書かれていた。
できればその事はマリエーヌには知られたくなかった。
だが、仕方がない。
複雑な心境を苦々しく笑って濁しながら、浅はかだった過去の自分に思いを馳せる。
「確かに、一時は父親を憎いと思った時期があった。だが、その憎しみもそう長くは続かなかった。憎んだところで意味はないと理解したからな。僕が戦場で父親を殺そうとしたのも、憎しみとかそういう感情からではなくて、あくまでも公爵位を奪う目的のためだったんだ」
後継者教育を終えれば、僕が父親から学ぶものは何もない。
あとは父親が持つ爵位さえ手に入ればいい。そんな安直な考えだった。
だからと言って、僕が父親を殺害しようと目論んだ事には変わりない。
――こんな僕を、マリエーヌはどう思っただろうか……。
膨れ上がる不安を払拭するように、両手の拳をきつく握りしめたまま笑顔を繕う。
「僕はもう、ずいぶんと昔から父親に対する感情を何も持ち合わせていないんだ。父親に対して何も期待していないし、当時の父親の心情を知った今でさえも、何も感じない。僕にとって父親は、そういう存在なんだ」
「何も……?」
「ああ。だから僕の事は気にしなくても大丈夫だ」
先ほどから不安そうにしているマリエーヌを、早く安心させてあげたい。
そう思っているのに、僕が言葉を発するたび、その表情が沈んでいく。
一体、マリエーヌは何をそんなに悲しんでいるのだろうか。
この手記の存在がこんなにもマリエーヌを悲しませているのなら、いっそのこと暖炉の中に葬ってやりたい。
そんな考えまで頭を過った時、
「……アレクシア様。お義父様は貴方の事も気に掛けていたのですよ」
ふいに告げられて、思わず目を見張った。
「……ああ。そうらしいな……」
ぎこちなく頷きながらも、なんとなく後ろめたさを感じて視線を横に逸らす。
僕の未来を憂いながら、なんとか道を切り拓こうとした父親の行動。
それを、僕はどう受け止めればよいのか分からなかった。
一人だけ、家族という枠組みから弾かれて過ごした幼少期。
何度も生死の境を彷徨いながら過ごしていた日々。
そんな中で、父親から容赦なく振るわれた暴力の数々。
僕を見下ろす父親の殺気立った眼光に、何度も戦慄を覚えた。
冷酷で、残忍で……人の心など持ち合わせていない人間。
それが僕の知る父親の姿だ。
父親は僕に殺されると思っていたようだが……僕だって、いつか父親に殺されるのではないかと思っていた。
そんな父親が、僕の未来を案じていたのだと知っても、すぐには受け入れられない。
何年にも渡り刻み込まれた父親に対する概念は、こんな手記一つで覆せるものではない。
沈黙する僕を見て、マリエーヌは物思いに耽るように視線を落とす。
パチッ……と、火花が弾ける音を何度か聞いた後、マリエーヌはスッと顔を上げた。
「私は、お義母様がどうして、お義父様にこの手記を書くようにお願いしたのか……理由が分かった気がします」
「え……?」
啞然としたまま首を傾げる僕に、マリエーヌは問いかけた。
「アレクシア様。本当に、お義母様はお義父様の死期が近い事に気付いていなかったのでしょうか? 私は、もしかしたらお義母様は気付いていたのではないかと思うのです。お義父様の気持ちを理解しようとしていたお義母様ならきっと……。旅行に行きたいと申し出たのも、お義父様の様子から、それを察していたからではないでしょうか」
「……」
確かに、母親が突然旅行へ行きたいと言い出した事には父親も疑問に思っていた。
だが、それは父親が侵攻部隊から外れて公爵邸に居る事が多くなったからで――いや。
そもそも大陸統一を目前にして、それまで前線で戦っていた父親が戦場から離れている事自体が不自然だ。
そう考えると、母親も何かしら違和感を感じていた可能性はある。
「それに、ただ答え合わせをするだけなら、わざわざ手記を残す必要はなかったと思います。一週間の滞在期間があったのなら、話をする時間は十分あったはずです。それなのに、こうして手記を残し、答え合わせを未来に託したお義母様の本当の目的は――」
マリエーヌの真っすぐな瞳が僕を見据える。
その瞳の中で揺らぐ暖炉の灯が、彼女の熱意を表しているようにも見えた。
「父親が伝えられなかった我が子への愛情を、アレクシア様とレイモンド様に届けたいと思ったからではないでしょうか」
「……!」
マリエーヌの言葉を聞いて、思わず息を呑んだ。
「……我が子への愛情……」
――その中に、僕自身も含まれていたのだろうか……?
僕が膝の上に置く手記に視線を落とすと、清楚なマリエーヌの声が聞こえてきた。
「愛を理解できないままに葛藤を繰り返した日々も……それでも父親であるために命を懸けて家族を守ろうとした覚悟も……残された時間の中でアレクシア様の未来を信じて行動していた事実も。全てはお義父様の家族に対する深い愛情があってこそのものです。そんな父親の心情も含めて、お義母様は我が子へ伝えたかったのだと思います」
マリエーヌの言葉が、それまで凪いでいた僕の感情を僅かに波打たせる。
同時に、僕の中にある父親という存在が大きく揺らいだ気がした。
自分の中の何かが、変わろうとしているのが分かる。
「お義父様が、お義母様だけを愛していたのなら、二人だけで逃げる事もできたはずです。それが可能なだけの準備は整っていたのですから……。皇帝の目を盗んでこの地まで来れたのであれば、帝国に戻らないという選択肢もあったのに……」
マリエーヌの言う通り、父親は僕たちが国外へ移住できるように国籍まで用意していた。
つまりは、父親だって母親を連れて国外へ逃げられたはずだった。
愛する者と共に生き延びる道は確かにあったのだ。
それなのに、帝国へ戻ったがために二人は殺された。
どうして父親は、母親と共に逃げなかったのか……。
その答えを求めるように、僕はマリエーヌを見つめた。
マリエーヌの瞳は涙で揺らぎ、少し震える唇がゆっくりと言葉を紡いだ。
「そうしなかった理由は……自分の命よりも、子供たちの未来を優先したからではないでしょうか。お義父様が刑の執行から逃れるために国外へ逃亡を図ったとなれば、帝国に残るアレクシア様とレイモンド様にも影響が及んでいたでしょう。もしかしたら、お義父様の代わりに……」
そこで言葉を詰まらせ、マリエーヌは涙を堪えるように眉根を寄せ、ハンカチを強く握りしめる。
「……」
手記を握る手に、自然と力が入った。
最期まで、命を懸けて我が子を守り抜こうとした父親の覚悟を思い知らされた気がした。
茫然と手記を見つめていると、マリエーヌの穏やかな声が聞こえた。
「アレクシア様なら、お義父様のその想いを何と呼ぶのか……ご存じですよね……?」
そう問いかけて、マリエーヌは僕の小指に自分の小指を絡ませる。
その瞬間、僕の脳裏にあの時のマリエーヌの言葉が蘇った。
『公爵様の犠牲の上で、成り立つ私の幸せなんてありません』
前世で、僕も父親と同じ選択をした。
僕の命よりも、マリエーヌの未来を優先したのだ。
マリエーヌに、幸せになってほしかったから……。
マリエーヌを愛していたから……。
――僕の父親も、同じ気持ちだったのだろうか……。
ふいに胸の奥が熱くなり、視界に映るマリエーヌの顔が滲んだ。
父親の行動に共感を覚えると同時に、父親との血の繋がりを強く実感する。
――僕と父親は似ているのかもしれないな。
家族を想いながらも、その愛情に気付けなかった父親と、父親の想いを知っても尚、頑なにそれを拒もうとする息子。
なんと不器用で面倒くさい親子だろうか。
そんな二人が分かり合えるなど到底無理な話だ。
それなのに、こんなにも相反する二人の関係を必死に繋ぎ止めようとしてくれた人物がいた。
母親が、不器用な父親の愛情をどうにかして我が子へ伝えようとしたように……。
マリエーヌもまた、その想いを継いで僕に届けようとしてくれている。
二人の存在がなければ、僕は一生、父親の想いを知る事はなかっただろう。
「……ありがとう。マリエーヌ」
心からの感謝と共に、マリエーヌの体をぎゅっと抱きしめる。
「アレクシア様……?」
僕の腕の中で、マリエーヌは上擦った声を漏らす。
「父親の想いはよく分かった。正直、この手記を読んだだけでは信じられなかったと思う。だが、君の言葉なら信じられる。父親が……僕を愛していたのだと」
しかし、それを知ってもまだ、父親に対する複雑な感情は残る。
「その想いを受け入れるには、まだ少し時間がかかるだろう。だが、少しだけ……父親の事が理解できた気がする」
命を差し出してまで愛する家族を守り抜こうとした父親の覚悟。
実に愚かで、勇敢だった父親の生き様を、僕はこの胸にしかと刻み付ける。
――誰からも愛されていないと思っていたのにな……。
孤独でしかなかった幼少期。
僕と家族を隔てる分厚い壁は、僕の心のように全てを遮断した。
それが長い時を経て――ブルーロザリアの存在によって母親の愛を知った。
そして今、手記を通して父親の想いを知り、そこに込められた愛情を知った。
それぞれの愛のかたちは違っていたとしても、そこに込められた想いはきっと同じ。
そして、いつだってその愛に気付かせてくれるのは――。
「マリエーヌ。君が教えてくれたんだ」
抱きしめていた体を少しだけ引き離して伝えると、マリエーヌは少しキョトンとした後、嬉しそうに目を細めて女神の微笑みを浮かべた。
すっかり夜も更け込み、暖炉の灯りを消してマリエーヌと共にベッドに上がった。
いつものように並んで横たわり、彼女の体を優しく抱きしめる。
僕にとって至福の時間だ。
「アレクシア様も、きっと素敵な父親になるでしょうね」
ふいに告げられた言葉に、僕は思わず目を見張った。
フフッと鈴を転がすような笑い声が聞こえ、
「お義父様とアレクシア様、とても似てらっしゃると思ったので」
そう告げると、マリエーヌは僕の体をぎゅっと抱きしめ返した。
――まさかマリエーヌまで、僕と父親が似ていると思っていたとは……。
だが、あれほど鈍感な男と似ていると言われるのも複雑ではある。
どの辺りが似ているのかと訊いてみたかったが、ウトウトとする彼女を見て口を閉ざした。
――素敵な父親……か……。
そんな自分を想像する日が来るとは思わなかった。
父親としての在り方が分からず、我が子を愛せるのかも自信が無かった。
それどころか、マリエーヌからの愛を奪う者として、忌むべき対象になるのではないかと……。
皇帝のように、我が子にそそぐ愛情を知らぬ、あわれな父親になる自分しか想像できなかった。
だが、こうして父親からの愛情を知り、父親として在るべき姿を学んだ。
命を張って家族を守ろうとした父親の背中を頭の中に思い描く。
――僕も、父親と同じように我が子を愛せるだろうか……。
父親となった自分を想像するたび、どうにもならない不安に駆られていた。
だが……今の僕が抱くものはそんな不吉な不安などではなく、胸の内側をくすぐられるような淡い期待だった――。
読んで頂きありがとうございます!
次回はレイモンド視点のお話となります。
更新は4/15予定です。




