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15.愛する者と、奇跡を信じて sideアレクセイ

 僕たちが乗る船がレスティエール大陸へ到着し、そこで馬車に乗り継いだ。


 今回の旅行について、外部には公にしていない。

 そのため、なるべく目立たないようにと辺境にある小さな港を利用した。

 帰りも人気のない山道を通って公爵邸へと帰る。


 揺れ動く馬車の中で、僕の向かい側に座るレイシアがウトウトとしながら頭を揺らしている。

 長時間の船旅の疲れもあるのだろう。

 だが、少々危なっかしい。


 せめて寄りかかれるようにと、隣へ移動しようとした時、ふと何かの気配を感じた。


 ――……山賊か?


 窓の外を睨みながら、座席に立て掛けていた剣に手を伸ばす。


 それに気付いたレイシアの顔が強張った。


「君はここに居ろ。絶対出ないように」


 そう念を押すと、レイシアは自身の体を抱き締めるようにしてコクリと頷く。


 背後にある小窓をコンコンッと叩き、馬車を操作する御者へ止まるように指示を出す。


 馬車が止まり、扉を開けて外へ出ようとした時、ゴトッと車体に何かがぶつかるような音がした。

 直後、嗅ぎなれた血の匂いが鼻を掠める。

 地に降り立ち、扉を閉め、車体の前方を確認する。

 そこには、車体にもたれかかるような体勢で、御者の首を一本の矢が貫いていた。


 小さく舌打ちを漏らし、周囲に潜む気配に警戒しながら、鞘から剣を抜く。


 だが、その気配が山賊などではないと、すぐに察する。


 微かに漂う、香の香り。

 それは帝国騎士団で洗脳を施す際に使用されるものだ。


 次の瞬間、木の茂みが大きく揺らぎ、甲冑を纏う騎士と思わしき者たちが山道を塞ぐように並んだ。


 たとえ顔を隠していたとしても気配で分かる。

 僕とも面識がある彼らは帝国騎士団の精鋭部隊の一員であり、時には暗殺者として起用される。


 ある時は皇帝陛下に異論を唱える貴族を。

 ある時は皇帝の権力を脅かさんとする皇子を。

 皇子が不在となり、新たな後継をと騒ぎ立てる者たちを。


 彼らの手により、人知れず消息を絶った人間は数知れず。

 僕と同じように、皇帝の命令であれば、その命すらも捧げる皇帝の忠臣。


 そんな彼らが、僕の前に現れた理由は一つしかない。


 ――まさか……今、なのか……?


 ドクンッドクンッと心臓が煩いほど脈打つのを聞きながら、僕の背中を冷や汗が伝う。


 ――どうして、今なんだ……?


 目の前の現実を受け入れられないまま、ただ意味もなく理由を探した。


 僕を殺すのはアレクシアだと、信じて疑わなかった。

 だから今回、アレクシアが遠征に向かっている間は何もないはずだと。


 だが、違った。

 今、僕を殺そうとする皇帝の狙いは……?


「あ……」


 乾いた声が、僕の口から漏れた。


 視線を動かすと、車体の窓から心配そうにこちらを見つめるレイシアと目が合った。


 ――狙いは……レイシアか……?


 そうならないよう、気を付けていたはずだ。


 皇帝が彼女に目を付けないよう、その存在を口にした事はない。

 二人でいる姿を、外部に見せた事も……。

 だが、考えられるとしたら……。


 ――使用人の中に、皇帝の手の者が紛れていたか。


 今回の待ち伏せといい、そう考えるのが無難だ。

 それを今知ったところで、状況は変わらないが……。


 ふいに遠方から、馬車が走って来る音が聞こえた。

 それはこちらへと近付くように、大きくなっていく。

 しかし前方に立つ騎士たちは動こうとしない。

 まるでそれが到着するのを分かっているかのように佇んでいるだけだ。


 間もなく、ここに到着するであろう人物が誰なのか……考えずとも分かる。


 その存在を知らしめるように、僕の心臓が強い痛みに支配されていく。


 やがて立ち並ぶ騎士たちの背後で馬車が止まり、並んでいた騎士は道をあけるように前を開けて跪く。


 そこへ降り立ったのは――。


「アレクセイ。よくぞ戻ってきた。あのままそなたが戻ってこないのではないかと、こちらは肝を冷やしておったぞ」


 やや伸びた白銀の髭を撫でながら、皇帝は楽しげに目を細める。

 まるでこれから起きる事を期待するように、血の色を帯びた瞳がギラギラと輝いている。


 その姿を目にした瞬間、体が自然と動きその場に跪いた。

 その反動で額から落ちた汗が、土色の地を濡らす。

 それを見つめながら、僕はなんとかレイシアを逃がすために思考を巡らせた。


 しかし、この周辺には僕たち以外誰もいない。

 ここで僕たちが殺されたとしても、死因などいくらでも偽装できる。

 人気のない道を選んだ事が、完全に仇となった。


「アレクセイ様……?」

「出るな!」


 静かな外の様子が気になったのか、気付けばレイシアが馬車から姿を現していた。


 僕の怒声にビクッと体を震わせ、怯えるように胸元で手を握る。


「そう言うでない。アレクセイ」

「……あ……」


 皇帝の姿を見た途端、レイシアは息を呑み硬直する。


 彼女から見れば、皇帝は大切な両親を死に至らしめ、更には故郷を奪った元凶なる者だ。

 彼女にとっての憎むべき仇が目の前にいる。

 当然、憎悪もあるだろう。


 しかし彼女はスッと一切の感情を表から消し、静かにその場に跪いた。


「ふむ……。この状況で落ち着いておるとは……なかなか聡い女性ではないか。むしろそなたの方が動揺しているのではないか? 彼女をよく見習うのだな」

「……」


 ギリッと歯噛みし、跪いた姿勢のまま地を睨みつける。


「さて、アレクセイ。わざわざ私がこんな所まで足を運んでやったのだ。その意味を当然、そなたなら理解しておるであろう」

「……はい」

「ならよい。では……約束通り、これからそなたの処刑を執行する――が、その前に」


 僕に向けられていた皇帝の視線は、僕の後方、跪くレイシアへと向けられる。


「そなたを誑かし、正気を奪った魔女と疑わしき女の処刑を行おう」

「……!」


 ――やはりそうきたか……。


 レイシアを一瞥すれば、自身の処刑を言い渡されたにも拘わらず、今も跪く姿勢を崩さない。

 ただその体は小刻みに震え、恐怖に慄いているのが伺える。


「執行人は――アレクセイ。お前がやれ」

「……」


 予想通りの命令に、ギリッと唇の端を噛む。


「どうした? アレクセイ。私が命じておるのだぞ。その女を殺せ」

「……!」


 強い口調で命じられ、心臓が引き裂かれそうな苦痛を覚える。


 喉がつかえ、息苦しさに呼吸が荒くなり、尋常じゃない汗が滴り落ちる。


「アレクセイ様……」


 背後から、レイシアの心配げな声が聞こえた。

 苦しむ僕を気遣うような声に、苛立ちを覚える。


 ――どうして……君はそうなんだ……。


 自分を殺しかねない相手を、なぜそうも心配するのか。


 どうして自分の命をもっと大事にしないのか。


 剣の柄をしかと握りしめ、僕は立ち上がった。

 踵を返し、跪いたまま僕を見上げるレイシアの前へと立つ。


「いいぞ。アレクセイ。――()れ」


 剣を大きく振りかぶると、彼女の紫の瞳が大きく見開かれ……静かに閉ざされた。


 そして軽く項垂れた彼女のうなじが、服の隙間から覗いて見えた。


 まるで自ら首を差し出すかのような彼女の姿に――僕の中で何かがプツッと焼き切れた。


 直後、頭上に掲げる剣を一思いに振り払った。


 彼女にではなく、車体と馬の体を繋ぐハーネスに向けて。


「アレクセイ……貴様……!」


 忌々しげな皇帝の声を無視し、レイシアの体を素早く抱き上げ肩で抱える。

 地を蹴り、車体から解放された馬に飛び乗ると、それに驚いた馬は僕を振り落とそうと足を蹴り上げ暴れ出した。


「皇帝陛下! こちらへ!」


 すぐさま精鋭部隊の騎士たちが皇帝を安全な場所へと避難させる。

 その隙をついて、僕は馬の手綱を引き、腹を蹴る。


「行け!」 


 僕の声に、馬は瞬時に冷静さを取り戻すと、一直線に山道を駆け出した。


 公爵家の馬車馬は、こういう事態も想定しての訓練を受けているため切り替えが早い。

 だが、やはり乗馬用と比べて足の遅さは否めない。


 肩に担いでいたレイシアを僕の前に座らせ、その手に手綱を握らせる。


「しっかり掴んでいろ」


 そう指示すると、レイシアは戸惑いながらも手綱を両手でぎゅっと握りしめた。


 次の瞬間、背後から放たれた矢を咄嗟に剣を払って弾く。

 キンッという金属音が響き、レイシアがこちらへ振り返る。


「前を向け。口も閉じろ。舌を噛むぞ」


 そう言いながら、続けて放たれた二本の矢を弾き返し、更に二本、三本と次々と放たれる矢を全て打ち払う。


 ――キリがないな。


 小さく舌打ちし、それでも攻撃を防ぐ手を止める事なく後方に神経を集中させる。


 あともう少し、距離を離せば……。


「アレクセイ様!」


 悲鳴のような声で呼ばれ、即座に前方へと視線を移す。


 僕の視界に映ったのは、手綱を手放し両手を広げたレイシアの後ろ姿。

 何をしている――と、手を伸ばそうとした時、風を切る音が迫り、ドスッと何かに刺さる。

 それとほぼ同時にレイシアの体が弾かれたように僕の方へ飛んだ。


 咄嗟にその体を抱き留め、すぐにレイシアの状態を確認する。


「あ……」


 レイシアの右腹部に突き刺さる矢。

 それを目にした瞬間、絶望の影が僕にピタリと張り付いた。


 背後からの攻撃を警戒するあまり、前方で待ち伏せる人間に気付けなかった。


 そんな初歩的なミスをした自分の愚かさに怒りが込み上げ、ギリッときつく歯を噛みしめる。

 そこへ再び、前方と後方から矢が放たれた。

 レイシアの体が振り落とされないようしっかりと抱え込んだままそれらを剣で弾き返す。

 だが、防ぎきれなかった一矢が馬の足を貫いた。


 耳を突くような馬のいななきが辺り一帯に響き渡り、大きく仰け反った馬の背からレイシアを抱きかかえて飛び降りる。

 その勢いのまま、木の生い茂る斜面を一気に滑り降りた。

 その間も、抱きかかえるレイシアの顔が何度も苦痛に歪む。

 僅かな振動でも腹部に痛みが走るのだろう。

 だが、今は突き刺さった矢を抜く事はできない。

 この矢は刃先が抜けにくく加工されている。たとえ抜いたとしても、大量出血による失血死もありえる。


 どうする事もできない歯がゆさを奥歯で噛みしめ、辺りで身を隠せそうな場所を探す。


「アレクセイ様……」

「喋るな」


 入り組んだ木の茂みに入り、その場に身を潜めるようにして彼女の体を抱え込む。


 その瞬間、彼女の傷口から血とは違う別の香りが漂った。


 これは――毒だ。


「君は馬鹿だ」


 思わず口にした言葉に、苦しみに歪んでいたレイシアの顔が、唖然とした顔となる。

 その口が何か言いたげにはくはくと開閉するが、言葉を待たずして続けた。


「どうして僕を助けた……」


 悔しさに声が震え、言いようのない怒りが腹の奥を熱くさせる


 毒の矢を僕が受けても、急所さえ外れていればまだ助かった。


 だが、毒の耐性もないレイシアは……この状況下では……もう……助からない。


 受け入れられない現実が、判断ミスを招いた自分が……勝手に僕を庇った彼女が……何もかもが憎くて憎くて、激しい怒りが込み上げる。


「なぜ君は……命を懸けてまで人を守ろうとする!」


 それまで僕の中で張り詰めていた感情が、爆ぜるように叫んでいた。

 今ので僕たちの居場所が奴らに知られたかもしれない。

 だが、もうどうでもいい。僕たちはどうせ助からない。


 ここで待ち伏せされていたと気付いた時から、それはもう分かっていた。


 だが、それでも必死に抗ったのは……彼女を死なせたくなかったからだ。


 ――それなのに、どうして君は……。


「あなたも同じでしょう……?」

「……なに?」


 静かな声でそう告げたレイシアは、どこか穏やかな笑みを浮かべている。

 彼女の手がしなやかに動き、僕の左胸に触れた。


「あなただって、命を懸けて私たちを……家族を守ろうとしたじゃない……」

「……!」


 まるで全てを見透かしていたかのようなレイシアの眼差しに、思わず息を呑んだ。


「言ったでしょう? 私はあなたの事を知りたいと……。だから、ずっと見てきたの……あなたの事を……。最近のあなたは、死ぬための準備をしているようだった……」

「……気付いていたのか……」

「気付くわよ……。……やっぱり……あの時なのでしょう……?」

「……」


 彼女は気付いているのだろう。


 僕が自分の命と引き換えに、レイモンドを後継者から外した事を……。


 少し沈黙して、頷いた。


「だが、僕が命を懸けたのは……所詮は君の真似事だ。そこに僕の特別な感情なんてない」


 ――だから、僕の行動を家族のためだなんて思わないでほしい。


 愛を知らない男が、そんな真似事で仮初の愛情表現をしようとしたなんて……滑稽だと笑われても仕方ない。


 気恥ずかしさに視線を逸らせば、か細い声でレイシアが告げる。


「私も、最初はそうだったの……。あの時、あなたを助けたのは、お母様の真似事だったの……」


 彼女の紫色の瞳が、記憶を辿るように宙をなぞる。


「私も、お母様のようになりたかった……。分け隔てなく、人を助けられる人に……」


 眩しげに目を細めながら、彼女が見つめる先には、尊敬する人と称していた母親の姿があるのだろう。

 そんな彼女の言葉を、僕は自分の行動理由に結びつけ、深く納得した。


 ――そうか……僕も君のように、我が子を愛せる親になりたかったのだろうな……。


「でも、今は違う……。私が、あなたを守りたかったの……」


 彼女の瞳が、驚きに目を見張る僕の顔を映し出す。


「……なぜ……」


 一度目に僕を助けた理由は、今ようやく理解した。


 だが、今は違うというのは、いったいどういう事なのか……。


 彼女の中で、どんな変化が起きたというのか……。


 僕を見据える彼女の瞳が、僕を捕らえたまま柔らかく綻ぶ。


「あなたを愛しているの……」

「……」


 何も言えず、ただ彼女を見つめていた。


 特に複雑なわけでもない単純明快なその言葉を、僕は咄嗟に理解する事ができなかった。


 何の反応をする事もできない僕を見て、レイシアはクスリと笑う。


「ごめんなさい……。本当はもっと早く伝えるべきだったのに……私も、少し意地になってしまって……」


 次の瞬間、彼女の瞳に憂いの色が滲んだ。


アレクシア(あの子)に伝えられない言葉を、あなたたちだけに伝えるなんてできなかった……。レイモンドにも、悪い事をしてしまったわ……。あの子が一番その言葉を望んでいたのに……それに気付いていたのに言ってあげられなくて……寂しい思いをさせてしまった……」


 悔恨の念に苛まれるように、レイシアは瞳に涙を溜めながら、まるで懺悔でもするかのようにそれを語った。


 レイモンドのためを思い、あの教育から外した事が、かえってレイモンドの自尊心を傷つける結果となった。

 幼い頃から甘やかされて育ち、やがて兄と比較されるようになり、自分の存在意義を見失いつつあった。

 そんな矢先に、僕が皇宮の夜会で告げた「必要ない」という言葉が、更にレイモンドの心を抉ったのだろう。


 そして自己肯定感の低さゆえに、レイモンドは精神的に非常に脆い人間となった。


 それはレイモンドが歩むこれからの人生の中で、大きな弱点となるだろう。


 教育を回避したはずのレイモンドも、結局、あの歪んだ教育の被害者となってしまったのだ。


「でも……直接は伝えられなかったけれど、私はちゃんと残してきたから……息子たちへの愛を、あの場所に……。すぐには気付いてくれないかもしれないけれど……いつかきっと、伝わる日がくると信じているの……」


 伝えられない愛を、それでもなんとか残そうと足掻く彼女の愛情深さには感服するしかない。


「そうか……。伝わるといいな……君の愛が……。僕は何も残す事ができなかったから……」


 途端、レイシアがおかしそうに笑った。


「あなたも、ちゃんと残してきたじゃない」

「……?」


 意味が分からない。

 僕がいったい、何を残したと――。


「書いてくれたのでしょう? 答え合わせをするために……」

「……!」


 いったい彼女は、何度僕を驚愕させれば気がすむのか。


「レイシア……まさか……君は最初から……?」


 どこまでを想定して、僕にそれを書き残すよう言ったのか……。


 もう、認めざるをえない。

 彼女は本当に、僕よりも、僕の事をよく理解しているのだと――。


 だとすれば……僕も知りたい。


 彼女は一体、どんな答えを導き出したのかを。


 僕を愛していると言ってくれた彼女なら、分かるのだろうか。

 僕が理解できなかったこの感情を……。


 何度も僕を奮い立たせ、愚かな行動へと走らせるこの衝動の理由を……。


 ――どうか、僕に教えてほしい。


 そんな僕の気持ちまでも気付いたのか、僅かに得意げな笑みを見せ、震える唇を開いた。


「私は、確信しているの……。あなたが、命を懸けて家族を守ろうとした事……子供たちの未来のために、あなたがやってきた事も全て……あなたが、家族を愛したがための行動だったと……」


 ――僕が……家族を、愛した……?


 そんな事、あるはずがないと……早々に切り捨てていた。


 それが、僕がその答えに行きつかなかった理由なのだろうか……。


 だが……レイシアは、僕を愛していると言ってくれた。


 ――愛されていたから……?


 だから僕も、誰かを愛せるようになっていたというのか……?


 ふと、僕の視界に映る彼女の顔が滲みだす。


 その瞬間、もはや理由などどうでもよくなった。


「本当に……?」


 ひりつく喉から絞り出した声で、唖然としたまま問いかけた。


 その時、僕の左胸を押さえていた彼女の手がするりと落ちた。

 それを咄嗟に掴み、もう一度僕の胸元へと押し当てる。


「僕は、家族を……君を……」


 力の抜けた彼女の手を、ぎゅっと強く握りしめた。


 この胸の奥で今も高鳴る鼓動を、握りしめる手から彼女へと伝えられるように。

 胸の内側を叩きつけるような鼓動が、それを意味するものならば……。


 今、ここで答え合わせをしてほしい。


「愛していると……言って、いいのか……?」


 彼女の体に縋りつくように、問いかけた。


 すぐ目前で微笑む彼女は、目尻に涙を滲ませながら、ゆっくりと頷く。


 刹那――ぽたり……と、レイシアの頬に水滴が落ちた。


 今もまだ、信じられない。


 本当に、僕がこれを口にする資格があるのか……。


 だが……彼女がそう言うのなら……。


 彼女の言葉を、信じよう――。


「君を……愛してる……」


 そう口にした瞬間――まるで長い年月、僕を縛り付けていた呪縛から解放されたかのように、心がフッと軽くなった。


 つい先ほどまで疑心に満ちていた気持ちが、明確な答えを引き当てたかのように清々とする。


 こんな、単純な答えだった。


 なのに、どうして僕は今まで気付けなかったのだろうか。

 もっと早く知れていたならば……。


「知ってた」


 悔恨の念を募らせる僕に、レイシアは何を今更というように笑ってみせる。


 その姿に、少し救われた気持ちになった。


「こんな事なら、もっと早く伝えておけばよかった……。息子たちにも……」

「大丈夫……きっとあの子たちが……答え合わせをしてくれるわ」


 レイシアはそれを信じて疑わない。

 しかし、問題はその答えのありかを息子が見つけられるかどうかだ。


「……それが……少々、分かりづらい所に置いてきてしまってな……」


 本当なら、僕が死ぬ前にレイシアに手紙を残そうと思っていた。

 あの机の二重底に手記を残したから、答え合わせをするように、と。


 それができなくなった今、あの手記の存在を誰も知り得ないだろう。


 よほどの奇跡が起きない限りは……。


「きっと気付くわ」


 だが、やはりレイシアはそう確信する。


「どうしてそう言い切れる……」

「この世は、奇跡で溢れているから……」

「奇跡……」


 そんな不明確なものを、彼女は信じているのだろうか……。


 本当に奇跡が起きるのなら、今ここで彼女を助けてほしい。


 だが……そんな奇跡、起きるはずがない。


 落胆する僕を元気づけるかのように、握る彼女の手に少しだけ力が込められた。

 ゆっくりと肩を上下させて、呼吸を懸命に繰り返しながら、途切れ途切れになる言葉を彼女は紡いだ。


「お母様が、傷付いたお父様を助けたから、私が生まれて……その私が、あなたを助けた事によって、あの子たちが生まれた……。あの子たちの……存在自体が、もう、すでに奇跡なの……。偶然のような、些細な奇跡と……人の想いが少しずつ積み重なって……大きな、奇跡となるの……」


 彼女の瞳の焦点がブレ始め……それでも僕を必死に捕らえようとしている。


 もう、意識を保つのがやっとなのだろう。

 重そうにしていた瞼を、ゆっくりと閉じた。


 彼女の綺麗な瞳を見る事は、もう二度と叶わないのだと静かに悟る。


「だから……奇跡は起きるわ……」


 残りの息を吐き出すように、レイシアはそう言い切った。


「……そうか。君が言うと、本当にそうなりそうな気がするな」


 彼女の呼吸が、少しずつ少なくなる。


 もう、その時が迫っている。


「ありがとう、レイシア」


 彼女への感謝が、今更になって溢れ出す。


 その言葉も、彼女に伝えるのは初めてだった。


 打算でしか人の行動を読み取れない僕は、心から感謝なんてした事がなかったから。


 彼女の口元が、僅かに綻んだ気がした。


 青白く、温もりを失いかけているレイシアの手をぎゅっと握りしめる。


 まだ、僕の声は届くだろうか。

 何か伝えられる事はあるだろうか……。


 だが、僕は会話が苦手だ。だから話題を切り出すのはいつもレイシアだった。

 何を話してあげればいいのか分からない。


 ふいに、眠ろうとする息子に物語を読み聞かせていた彼女の姿を思い出した。


 あの時、僕はそれが不思議で彼女に聞いた。

 『なぜそんな話をする? どうせ最後まで聞く前に寝てしまうだろう』と。

 そして彼女は答えた。

 『こうすると、良い夢を見られるんです』と。

 良い夢を見たところで現実には何も結びつかないのに、やはり意味が分からない……と、その時は思った。


 だが……今はただ、彼女に良い夢を見てほしいと思う。


「そういえば、ずっと前に不思議な夢を見たんだ……」


 それは僕が唯一、彼女に語れる夢物語。


 永遠の眠りにつこうとしている彼女に、語り聞かせるにはちょうど良いかもしれない。


「大人になったアレクシアが……ああ、もうアレクシアも大人だったな……。だが、夢で見たあの姿にはまだ遠い。きっと、まだ先の未来に待ち受けている話なのだろう。そのアレクシアが必死に女性の名前を呼んでいた。マリエーヌという女性だ。アレクシアは――」


 ぎこちない口調で、自分の見解も交えながら、僕は語り続けた。


「……ああ。これも、もしかしたら……君の言う、〝奇跡〟なのかもしれないな……」


その話を終える頃、彼女は穏やかな微笑みを浮かべたまま、安らかな眠りについていた――。


    ◇◇◇


「いたぞ! ここだ!」


 男の叫び声に呼応し、人の気配がこちらに集まる。


「おい! こっちへ――」


 力なくもたれかかる僕を見て油断したのだろう。


 僕の前にやって来た騎士がこちらに手を伸ばし――僕はそれを握りしめていた剣で振り抜いた。

 直後、目を見張った男の前で鮮血が散り、ゴトッと何かが落ちる音がした。


 一瞬の出来事に、騎士は何が起きたのか分からないという様子で硬直し、先ほど僕に伸ばしていた手をゆっくりと持ち上げ――。


「え……? ――あ……あっうあああああああああ‼」


 欠落した自らの手首を認識し、絶叫を上げながらその場に転がりのたうち回る。


 その様子を見て、周囲に集まっていた騎士たちが臨戦態勢となった。


「どうした? アレクセイ。往生際が悪いではないか」


 僕を囲む騎士の間から、悠々と皇帝が姿を現した。


「二度も私の命令に背くとは……。やはりそなた、その女に誑かされ正気を失ってしまったのか……。公爵ともあろう人間が、なんたる醜態か」


 嘆かわしいとばかりに皇帝は首を振る。


 そして心底落胆するように、重々しい溜息を吐き出した。


「そなた、あの時嘘をついたな? いかにも息子のためと思わせながら……本当は妻のためを思ってだったのだろう?」


 ――ああ、その通りだ……。


 レイモンドを後継者から外そうとした時、僕が本当に守ろうとしていたのはレイシアだった。


 彼女を失いたくなくて、レイモンドを後継者から外そうとした。

 そしてその理由を述べる時も、あえて彼女の事には触れなかった。

 子供のためを思う父親としての言葉に置き換えた。


 だが……今は違う。


 それを証明するため、僕はもう一度嘘を吐く。


「おっしゃる通りです。息子の事は、特に何も……」


 愛する息子たちを守るための嘘だ。


「ふんっ……。どうせそなたも、息子の事などどうでもいいのだろう? それで父親になりたいなどと、よく言えたものだな。あんなもの、ただ権力を欲するだけの生き物だというのに」

「……」


 皇帝は、僕とよく似ている。


 この男も、愛というものを知らない。

 だが、それを知りたいと本能的に求めていた。


 ゆえに皇帝は、我が子にそれを求めようとした。

 自分と血の繋がりを持つ我が子から、無償の愛を得ようとした。

 そして自分も、父親として、我が子を愛したいと思ったのだろう。


 だが、結局この男は、愛を理解できなかった。


 血の繋がった我が子を、自分の権力を脅かす脅威としか見做せなかった。


 だから殺した。実の息子を。


 ――それは、僕にとってもあり得たかもしれない未来だ。


「哀れだな……」 

「なに……?」


 皇帝の顔が不快に歪み、怒気を帯びた瞳が僕を睨みつける。


 だが、いつものような苦痛はない。


 いつからか、忠誠に反する苦しみは僕の中から消えていた。


「なにが哀れだというのだ? そなたの今の状況に対してなら同感だ」


 皇帝の目尻がピクピクッと痙攣する。

 こんなにも感情を露呈させる皇帝がひどく滑稽で、思わず笑みが零れた。

 それがまた癪に障ったのだろうが、構わず僕も反論する。


「まさか……。僕は幸せだ。妻を愛し、愛された……これ以上の幸せはない」


 言いながら、腕の中にいるレイシアをぎゅっと抱きしめる。

 まだ少し残る彼女の温もりで、僕の心が満たされていく。


 ――もう少しだ……僕も、すぐに君のもとへ行く。


 そう心の中で語り掛け、皇帝へと視線を向ける。


「哀れなのは、あなただ」

「なっ……! 貴様ぁ……!」


 その顔が、一瞬にして憤怒の形相となる。

 ワナワナと体を震わせ、その瞳がカッと見開くと同時に怒声を響かせた。


「なぜ私が哀れだと言うのか! 私はもうすぐこの大陸の全てを手に入れる! この世界の頂点に君臨する人物となるのだ! そんな私の、どこが哀れだと申すのか‼」


 そう一気に捲し立てた皇帝を、僕は軽く鼻であしらった。


「間もなく手にするであろう栄冠も、輝かしき栄光も、尽きる事のない富も財も……。それらを全て手にしたとしても、あなたは何も満たされない」


 淡々と言葉を返せば、はぁっはぁっ……と息を荒げていた皇帝は、不快に顔を歪める。


「なんだと……?」


 その顔を見れば分かる。

 恐らく、図星なのだろう。


「あなたも、薄々勘づいているのでは……?」

「……」

「あなたが本当に求めているものを……」

「……黙れ」

「決して手に入れる事ができないのだと」

「黙れと言っているのだ‼」

「この先も、死ぬまであなたは――」

「借せ!」


 僕の声を掻き消すように怒号の叫びを放ち、皇帝が隣の騎士に手を差し出す。

 騎士はすぐさま跪き、自らの剣を献上するように両手で持ち上げた。

 その柄を乱暴に奪い取り、引き抜いた鞘を投げ捨てる。


 ズカズカと僕の前まで歩み寄り、僕の前へと立った。

 おびただしいほどの殺意を醸し出し、皇帝が僕を見下ろす。


 それでも、目の前の人物に対する優越感の方が勝った。


 フッと笑みが零れ、本音が漏れた。


「実に惨めな姿だな、皇帝」


 ギョロッと見開いた赤い瞳。

 もはや怒りで自我を失った皇帝が、何か喚いている。


 だが、もう僕には何も聞こえない。


 僕の腹部から流れ出た失血量が、もう間もなく限界を迎える。


 レイシアと共に死ぬために、僕自身が付けた傷だ。


 このまま失血して死ぬのか、皇帝の剣が振り下ろされるのが先か……。


 そんな事も、僕にはどうでもいい。



 ――僕は幸せだ。


 愛する人と共に生き、共に逝ける事……。


 子供たちに、未来を託せた事も。


 あとは、君が信じる奇跡(未来)を、僕も信じてみようと思う――。


二人の物語を最後まで読んで頂き、ありがとうございます。



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― 新着の感想 ―
いつも楽しく読んでます! 二人の男の最終到達点の違いとは? やはり奥様の違いなのかな? 本文で子供達からの愛をもらいたかったとあるけど、その前にもらうべき奥様からの愛があったなら皇帝陛下もここまで…
手に入れたけど、満たされたけど、やっぱり切ない!! アレクセイもレイシアも、最期まで頑張ったんですね (T-T) 公爵家に間者が居たのですね(怖!) ……ん?もしかしてアレクシア、戻った時に不誠実な…
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