11.父親として… sideアレクセイ
「アレクセイ様、あとでお話があります」
遠征から帰還した僕を出迎えたレイシアから、開口一番にそう告げられた。
彼女の腕にはすやすやと眠る赤子、レイモンドの姿もある。
三ヶ月前のレイモンド出産以降、彼女とはまともに話をしないままに僕は戦地へと発った。
送られてくる報告書には、レイシアの体は順調に回復し、赤子も問題なく成長していると書かれていたが、その報告に間違いはなかったようだ。
着替えを終えた僕は、話を聞くためレイシアの部屋を訪ねた。
彼女はベッドに腰掛けながら、隣で眠るレイモンドの寝顔を眺めている。
今回、彼女は乳母の手はほとんど借りず、付きっきりでレイモンドの世話をしているらしい。
アレクシアが乳母に連れて行かれた時の事をよほど根に持っているのだろう。
乳母を警戒し、レイモンドと二人きりには絶対にしないと聞いている。
「レイモンドも、二歳になったらアレクシアと同じ教育を受けるのですか?」
ふいに問われ、やはりその話か……と、小さく息を漏らす。
答えなど決まっている。
「ああ、そうだ。同じ教育をさせ、より有能な方が公爵位を継ぐ」
「私は反対です」
その言葉に軽い眩暈を覚え、思わず眉間を押さえる。
「……言うな。またあのような目に遭いたいのか?」
「そうですね。今度こそ、私は殺されるかもしれませんね」
僕に睨まれ怖気づくかと思いきや、レイシアは少しも動じる事なく頷いた。
僕の言葉がただの脅しではない事は、僕に殺されかけた彼女なら分かっているはずだ。
それなのに、なぜそんなにも冷静でいられるのか。
「ですが、レイモンドはお渡ししません。この命を懸けてでもこの子を守ってみせます」
微塵の迷いもなく、レイシアははっきりと言い切った。
その勇敢な顔つきからしても、彼女の並々ならぬ覚悟が滲んで見える。
アレクシアを取り戻そうとした時のように、我が子を守ろうとするレイシアの姿は、華奢な体つきからは想像つかないほどの強かさを漂わせている。
ふと腹の奥がひりつくように痛み、言いようのない焦燥が諦念と混ざり合う。
「それほどまでに、子が大事か……」
「はい。あの子たちを失ったら私は生きていけません」
「……そうか」
レイシアは譲らない。
あの時と同じように、最後まで諦めず抵抗を続けるだろう。
――今度こそ、僕はレイシアを殺してしまうかもしれない。
それを想像し、全身から血の気が引いていくような感覚に陥り、何も考えられなくなった。
長い沈黙が生まれ、レイシアが訝しげにこちらを伺う。
「……アレクセイ様?」
紫色の瞳に見据えられ、いつの日か、彼女に言われた事を思い出す。
「君の言う通りだ」
「え?」
「僕は……息子に嫉妬している」
「……」
レイシアは目を丸くして何度も瞬かせる。
それも当然の反応だろう。
僕自身、息子に対してそんな感情を抱くとは思いもしなかった。
だが、どう考えてもこれはそういう類のものだと認めざるを得ない。
それも、もうかなり前から――恐らく、アレクシアが生まれた時からだろう。
あの日、我が子を見て嬉しそうに微笑む彼女の姿を見た時、僕は心底息子を羨んだ。
僕が未だ手にした事がないそれを、生まれたばかりの我が子はすでに手にしていたのだから。
「君の子供というだけで、君に愛される息子たちが羨ましいと思う」
「アレクセイ様……」
信じられないといった様子で、レイシアは口元に手を添える。
次第にその頬が赤く染まり、どこか落ち着かない様子を見せる彼女の姿に、なぜか僕まで気恥ずかしい気持ちに駆られた。
それを振り払うように、他の話題を切り出す。
「アイリーンが言っていた。母子ともに助かったのは奇跡だったと」
「アイリーンさんが……?」
目を瞬かせるレイシアに、僕は頷く。
アイリーンは、今回の出産を最後の仕事としていた。
ゆえに、先日、契約の満期を迎えた彼女はすでにここを去っている。
「君も赤子も、何度も心臓が止まりかけたらしいな。だが、君の声に応えるように赤子が息を吹き返し、また君も懸命に生きようとする赤子に何度も励まされていたと。互いを思いやる親子の愛が奇跡を呼び、二人を生かしたのだろう、と」
「……そうですね。私もそう思います」
言いながら、レイシアは愛おしげな眼差しを眠っているレイモンドへと向ける。
僕と同じ白銀色の髪。
僕と血の繋がった息子。
そしてその母親であり、僕の妻。
家族という、同じ括りの中に僕も含まれているはずなのに……まるで強固な壁に阻まれているかのように、二人と同じ場所に居る気がしない。
――当然だ。僕は彼女を……我が子共々殺そうとした。
「……すまなかった」
謝罪を口にすると、レイシアは驚きに目を見開き、やがて怪しむように眉を顰めて僕をじっとりと見る。
「……本当にどうしたのですか……? 遠征中に頭でも打ちましたか?」
なかなかに酷い言われようだが、これまでの事を思えば仕方ない。
僕にとって、皇帝以外に頭を下げるのは初めての経験だ。
自分の行動が過ちだったと、認めたのもだ。
三ヶ月かけて、ようやくレイシアへかける言葉が見つかったのだ。
レイシアは相変わらず、僕がどうかしてしまったと神妙な面持ちだが、構わず続ける。
「親子の愛など、僕には分からない。何をもって愛だと言うのか。親子であればそれを手にできるのか……。だが、僕は……子供たちを前にしても、何も思わない。何も湧いてこない」
今一度、ベッドで眠る息子を見る。
無防備な姿で眠る我が子を見ても、やはり何も感じない。
「君のように、僕は我が子を愛する事ができない。命を懸けて我が子を守ろうとする君の行動も、僕には到底理解できない」
膝の上に置く手をきつく握りしめながら、未練がましくレイモンドを睨む。
レイシアと息子たちを見ていると、愛とは等価交換なのではないかと思う。
相手に愛情を注ぐ事で、自らも愛情を得られるのだと。
ならば、誰かを愛する事のできない僕は、この先も誰かの愛を得る事はない。
だから僕は、愛という感情を、この先も一生理解する事はないのだろう。
「私も……アイリーンさんから、アレクセイ様の事を少しだけ聞きました。アレクセイ様も、アレクシアと同じ教育を受けていたと」
レイシアの紫色の瞳が、僕をジッと覗き込む。
相手を安心させるような物柔らかな眼差し。
彼女からそんな眼差しを向けられるのは初めてな気がする。
「正直、私はアレクシアを奪ったあなたを憎みました。私とレイモンドを殺そうとした事も……とても許せるものではありませんでした」
辛辣な言葉とは裏腹に、その声はいたって穏やかだ。
微笑を携えたまま、彼女は続ける。
「ですが、その話を聞いて考えを改めました。あなたも、あの教育の被害者なのだと知ったからです。あなたが親から得るべきだった愛情も、親子で過ごすはずだった幸福な時間も、あの教育が全てを奪ったのですから」
穏やかな口調が、次第に強くなり、やがて怒りを孕んだものへと変わる。
「それに、あなたがあの方の命令に背けないのも、その教育のせいなのでしょう?」
「……!」
レイシアの発言に、思わず息を呑んだ。
どうやらあの産婆は、最後にとんでもない置き土産を残していったようだ。
僕が生まれる前から公爵邸に仕えていた彼女は、内部事情にも精通していたのだろう。
だとしても、レイシアが知り得たであろう情報は、一介の使用人が口にしていいものではない。
「私は我が子に、そんな教育をさせたくはありません」
レイシアの視線は、再び我が子へと向けられる。
慈愛に満ちた眼差しに、苛烈に揺らぐ覚悟を秘めて。
彼女は諦めていない。
何度無駄だと伝えても、決して怯まない。
なぜそんなにも抗おうとするのか。
どうして諦めてくれないのか。
自分の命すらものともしないその行動こそが――愛ゆえに――という事なのだろうか……。
だとすれば、愛とは、なんと愚かなものだろう。
愛ゆえに愚行を重ね、自ら破滅へと向かうなど……やはり僕には……。
――理解できない……。
この三ヶ月、幾度も考えた。
だが、結局は同じ結論へと辿り着く。
考える必要もない。
わざわざ愚かに成り下がるような事を、理解する必要はない。
それなのに……どうしてか、諦めきれない自分がいる。
妻も子も、誰も愛する事ができない僕は、夫として、父親として、失敗作なのかもしれない。
だが……それでも……。
たとえその感情を、理解できないのだとしても……。
君が母親として、命に代えても我が子を守ろうとしたように……。
――父親として、命を懸けて家族を守る事ならできる。
「分かった」
「……アレクセイ様?」
立ち上がり、扉へ向かおうとする僕をレイシアが呼び止める。
「今から皇宮へ向かう。またしばらく留守にする」
「え……」
戸惑いの声に振り替える事なく、僕は足早に部屋から退室した。
所詮は親子愛の真似事だと、不様だと嘲笑われるかもしれない。
だが、今はどうしても届かないレイシアたちの居る場所に、少しでも近付きたいと思った――。




