10.後継者教育の始まり sideアレクセイ
「アレクセイ様! アレクシアを返してください!」
声を荒げながら、レイシアは必死の形相で僕に訴えかける。
「駄目だ。今日からアレクシアは次期公爵としての教養を受けると伝えていただろう」
「十年も会えないなんて聞いておりません! まだアレクシアは二歳なのですよ⁉」
「もう二歳だ」
今日、二歳となったアレクシアは、乳母に連れられて、後継者教育を受けるための部屋へと向かった。
今日から十年間、アレクシアはあの部屋で過ごす事になる。
膨大な量の書物が所蔵され、武術の稽古もできるよう広いホールのようなスペースも隣接している。
後継者として必要な教養は全てあの部屋で行われる。
部屋への入室を許されているのは限られた講師と、毒の訓練に関わる皇室からの使者、そして公爵である僕だけ。
当然、レイシアは対象外だ。
それに不満を抱いたレイシアは、僕が執務中なのも構わず執務室まで押しかけてきたのだ。
「アレクセイ様。お願いです。あの子の教育に関しては考え直していただけませんか? 次期公爵として、学ぶべき教養があるのは重々承知しております。ですが……このようなかたちで私たちが引き裂かれるなんてあんまりです……。せめて、会う事だけでも許してくださいませんか……?」
先ほどとは打って変わり、レイシアは涙ながらに懇願する。
しかし答えは決まっている。
「それが息子にとっての甘えになると言っている。息子と会う事は許さない」
「そんな……」
レイシアの顔が絶望に歪む。
血の気を失う彼女の顔から、僕は目を逸らした。
「この教育に関しては皇室から定められている。僕たちが何を言おうと無駄だ。諦めろ」
「嫌です! こんな教育認められません! あの子は私の子です! どうして自分の子供なのに、皇室の定めに従わないといけないのですか⁉」
まるで癇癪を起した令嬢のように喚き立てるレイシアに、さすがにうんざりする。
――こちらにも教養が必要だな……。
呆れ果てるように溜息を吐き出し、もう一度念を押す。
「言っただろう。何を言っても意味はないと」
語気を強めて言い聞かせると、レイシアはグッと口を引き結び、がっくりと肩を落とす。
ようやく納得したかと思いきや、その口から思わぬ言葉が飛び出した。
「でしたら、私が直接申し立てにまいります」
「……なに?」
聞き捨てならない発言に、顔を顰めて聞き返す。
「皇室が定めた事なら、皇帝陛下へ直接お願いするしかありませんよね」
「無駄だ。お前では皇室領に入る事すらできん」
「どうでしょう。慈悲深いとお聞きする皇帝陛下であれば……皇室領の前で泣き喚いて訴えかければ、同情して聞き入れてくださるかもしれませんね」
「……」
皮肉るようなその口調に、ざわり……と胸の奥が嫌な感覚に晒される。
レイシアは、自分がいかに危うい発言をしているかに気付いていないのか、頬に手を添え首を傾げると、棘のある口調で言葉を繋げた。
「それとも、慈悲深いというのは全くの偽りで、本当はもっと酷く下賤な思想をお持ちの方なのでしょうか? 北部の紛争に巻き込まれ苦しんでいる民を救うためという口実で、侵略戦争を正当化するような――」
その瞬間、僕の右手はレイシアの細い首を掴み上げていた。
「――⁉」
「黙れ」
グッと親指に力を入れ、物理的にその口から言葉を絶つ。
「あの方を侮辱する事は許さん」
今すぐにでも、掴む首をへし折りそうなほどの殺意が体の中で蠢く。
レイシアが皇帝に害を成すものだと判断した本能が、その存在を排除せよと僕に命じる。
――後継者はすでに一人確保した。腹の子は惜しいが、アレが生き残れば問題ない。
そう冷静に判断し、指先に力を込めた。
苦しみに喘いでいた声は失せ、僕を睨みつけていた紫色の瞳が次第に光を失っていく。
僕の手を必死に引っ掻き抵抗していた動きが鈍くなり、やがてだらん……と垂れ下がった。
それと同時に、ガクッと頭が折れ、力を失ったレイシアの体重が僕の手にのしかかる。
「……あ……」
ふと、僕の口から、呆れるほど間の抜けた声が零れた。
咄嗟に手を離すと、ドサッ……と、レイシアの体が無造作に横たわった。
その光景を目にした瞬間、ドッッ! と心臓が大きく跳ね、全身から冷や汗が噴き出す。
同時に、視界がぐにゃりと歪むような激しい眩暈に襲われ、ふらつきながら膝を突いた。
そのすぐ目の前には、血の気がなくなり身動き一つないレイシアの姿。
息はしていない。
このまま放置すれば、間違いなく死ぬ。
――レイシアが……死ぬ……?
刹那、心臓に強烈な痛みが走り胸元を掴んだ。
一気に乾いた喉の奥から、激しく何かがせり上がってくるのを必死に呑み込む。
――なんだ……これは……?
目の奥が焼けそうに熱くて痛いのはなぜなのか……。
腹の底が煮えくり返るような苛烈な怒りは誰に対してか。
激しく押し寄せる後悔の波が、僕を絶望へと追い詰めるように。
取り返しのつかない事をしてしまったのだと、頭の中が真っ白になる。
自分の中で荒れ狂う感情に、とても理解が追い付かない。
その時、横たわるレイシアの体が微かに動いた。
「……! レイシア!」
咄嗟にレイシアの体を抱き寄せ呼吸を確認する。
しかし息はしておらず、意識もない。
だが、再び彼女の体がピクッと動く。
彼女の体を叩くような振動。
心臓の鼓動とは違う何かが……。
――まさか……腹の子か……?
彼女のふっくらとした腹部に手を当てると、ポコッと中から反応が返った。
そしてもう一度、二度三度と。
何かを必死に訴えかけるように、何度も中から叩かれる。
刹那、ポコンッと一際力強い振動が伝わり――。
「――っはぁ!」
めいっぱい空気を吸い込むと同時に、レイシアが息を吹き返した。
肩を大きく上下させ、荒々しく呼吸を繰り返すレイシアの姿に、僕は呆然としたまま言葉を失う。
ただ彼女の体を落としてしまわないよう、抱き上げる指先にはしっかりと力を込めた。
苦しげだった顔が、次第に力が抜けるように落ち着いていく。
「レイシア……」
呼び掛けると、ハッとレイシアが目を見開いた。
僕と目が合った瞬間、
「――!」
声にならない悲鳴を上げ、レイシアは僕の体を両手で強く突き飛ばす。
だが、彼女の力では僕の体はビクともせず、代わりに反動を受けたレイシアの体がドサッと地に落ちた。
レイシアは即座に膨らんだお腹を庇うように抱え、僕を威嚇するように睨みつける。
まるで子を狙う害敵から我が子を守ろうとする母親のようだ。
彼女が必死に守ろうとしているのは、僕の子供でもあるのに……。
ズキンッ……。
再び、胸に痛みが走る。
先ほどの痛みとはまた違う、ただただ静かで、痛烈な痛みが。
もう、彼女に対する殺意などない。
だが、今の彼女にとって、僕は害敵にしか見えないのだろう。
――こういう時、なんと言えばいい?
皇帝を侮辱するべきではなかった。
発言には気を付けろ。
もうお前を害するつもりはない。
どれも違う気がする。
彼女にかける相応しい言葉が見つからない。
「うっ……」
ふいに呻き声が漏れ、レイシアは苦しそうに顔を歪めながらお腹を抱えて腰を折る。
苦痛の色に染まる顔には次々と脂汗が滲みだした。
「……陣痛か?」
問いかけるも、何も返事はない。
まだ僕への警戒を解いていないのか。
それとも返事をする余裕もないのか。
どちらにしろ、このままにはしておけない。
「部屋まで運ぶ。暴れると危険だ。ジッとしていろ」
それだけ伝え、僕は苦しむレイシアを抱きかかえた。
その目はまだ警戒するように僕を見ているが、先ほどのように抵抗するつもりはないらしい。
僕はしっかりと彼女を抱きかかえ、執務室を出た。
「おい! アイリーンをすぐに呼べ! 医者もだ!」
「は……はい! 今すぐに!」
近くに居た使用人が返事をよこし、慌てた様子で廊下を駆け抜けるのを見て、僕はレイシアの部屋へと向かう。
「アレクセイ様……お願いです」
絞り出すような声が聞こえ、レイシアを見る。
警戒を解いた紫色の瞳に少し安堵する、が……。
「私よりも、この子の命を助けてください」
そう切望する声に、思わず息を呑んだ。
予定していたよりも少し早い陣痛に、赤子の身を案じているのだろう。
レイシアは自身のお腹を大事そうに抱きながら、もう一度、僕に訴えかけた。
「この子の命を優先してください」
鎮まっていた胸の痛みが、再びズキズキと痛みだす。
――なぜ、そんな事を言う……?
僕は何の返答もせず、視線を前へと戻し、歩く速度を速めた。
それでも「お願いします……」と、何度も訴えかけてくるレイシアの言葉に、耳を塞ぎたくなった。
レイシアの部屋に着くと、使用人たちが慌ただしく出産の準備を進めていた。
ベッドにレイシアを横たわらせると、アイリーンが僕に部屋の外へ出るよう促した。
廊下へ出ると、次いで出てきたアイリーンが、深刻げな顔で口を開く。
「アレクセイ様。もしもの際に、どちらの命を優先するか、今すぐお決めください」
「……」
悩むような二択ではない。
公爵家の教育に反対するレイシアは、もう子供を望まないだろう。
妻としての彼女の役目はもう終わりだ。
それに引き換え、子供はアレクシアが死んだ場合の代わりになる。
迷う必要はない。
優先すべきは……。
「…………レイシアだ。優先するのは彼女の命だ」
一瞬生まれた迷いが、僕の回答を捻じ曲げた。
「……かしこまりました」
僕の返答に、アイリーンは従順に応じて部屋の中へと戻る。
扉が閉ざされ、廊下に一人だけとなった僕は、レイシアの首を掴んでいた右手を持ち上げた。
手の平に視線を落とした瞬間、レイシアの体から力が抜けた時の感覚を思い出し、右手が小刻みに震えだす。
これまで、何度もこの手で人を殺めた。
だが、人を殺める事をこんなにも怖いと思った事はない。
親を失った時も、戦いを共にした者たちが戦死した時も、悲しいと感じた事さえなかった。
それなのに……命が尽きる寸前の彼女を前にした時、自分を支えていた重要な何かが崩れ落ちていくような絶望と、取り返しのつかない後悔に圧し潰されそうになった。
そして今もまだ、言い知れない恐怖が僕の背中に張り付いている。
――レイシアに、情が湧いたとでもいうのか……?
分からない。
理解できない……。
ただ……彼女を、失いたくない――。
硬く閉ざされた扉の向こう側で、命懸けで出産に挑むレイシアの姿を想像し、僕はしばらくの間、体の震えが止まらなかった。
二日後――レイシアは第二子を出産した。
しかし、母子ともに危険な状態なのは変わらず、予断を許さない日々が続いた。
僕が部屋への入室を許されたのは、更に一ヶ月が経ってからだった。
部屋に入り、少し離れた場所からその姿を遠目に見る。
一ヶ月ぶりに目にしたレイシアは、産前よりも少しやつれていた。
更に細くなった腕の中には、初めて対面した時のアレクシアと同じ大きさほどの赤子がいた。
ふと、レイシアのお腹を力強く叩いていた時の感触を思い出す。
――あんなに小さな体に、あれほどの力が……?
今であの大きさなら、一ヶ月前はもっと小さかったに違いない。
無能で無力な赤子という認識は、もはや僕の中から消え失せた。
レイシアは息子を見ながら楽しげに話しかけ、息子はレイシアの指先をギュッと掴ったり離したりを繰り返す。
それを見てまたレイシアも嬉しそうに笑い、息子を愛おしげに撫でる。
一ヶ月、生死を彷徨っていたはずの二人。
それなのに、それまでの壮絶な日々などものともしないような……儚くも生気に満ち溢れるその姿が、僕にはひどく眩しく思えてならなかった。
命を懸けて互いの命を守った二人を前に、結局、僕は何も声を掛けられないまま部屋を後にした。




