08.父親の手記
結局、マリエーヌが歴史書の続きを読む事はなく、僕たちはベッドに並んで横になった。
新婚旅行中、マリエーヌは僕と同室でない事に対して不満に思っていたらしい。
酒に酔っていた時の記憶がない彼女は、自分がそんな事を口にしたとは知りもしないが。
だから僕の方から、これからは一緒に寝ようと切り出した。
それを聞いて、彼女は恥ずかしがりながらも、少し嬉しそうに承諾してくれたのだ。
静かな部屋の中を、窓から差し込む月明りがほのかに照らし出す。
「そういえば……」
と、少し気まずい沈黙を打ち消すようにマリエーヌが切り出した。
「エマさんがお腹の子の胎動を感じるようになったんです。私も少し触らせていただいたのですが、ポコッポコッて蹴ってくれたんです。まるで『ここにいるよ』って教えてくれているようで、とても感動してしまいました」
マリエーヌが語る女性はジェイクの妻、エマ・トンプソンの事だ。
僕と同じように、ジェイクもまた帝国の反逆者として追われる身となった。
だからこそジェイクの家族が危険に晒されないよう、ここへ退避させていた。
それと、復讐のために暴走しかねない奴の手綱を握っておくため、という目的もある。
子を身ごもっているジェイクの妻、そして二人の息子もこの別荘でしばらく暮らす事になっている。
「ジェイクさん、エマさんの出産に立ち合えるといいのですが……」
「確か予定日まで二、三ヶ月と言っていたな。少し難しいかもしれないな……」
「そう、ですよね……」
残念そうに眉尻を下げ、布団の端をきゅっと掴む。
出産に立ち会えないジェイクの心境を想像してか、それとも夫の居ない環境で出産に挑む妻の事を思ってなのか。
気落ちする彼女の頭を撫でるように、指先で髪を梳かす。
「彼女の出産には万全の態勢を整えるつもりだ。君にも、夫が不在で不安であろう彼女を支えてもらいたい」
「! そうですよね……。一番不安なのはエマさんですから……。分かりました。私も全力でエマさんをサポートします!」
先ほどまでとは打って変わり、グッと両手を握りマリエーヌは力強い眼差しで意気込んでみせた。
素直すぎる彼女の反応に、思わず笑みが零れる。
「そういえば、マグナス君もランディ君も、ジェイクさんのお話を沢山してくれるんです。二人ともお父さんが大好きなのでしょうね」
話題はジェイクの息子の話となり、マリエーヌはまた嬉しそうに話す。
だが、その瞳には僅かに羨望のような感情が滲んで見える。
純粋に父親を慕う二人の姿が羨ましく思えるのかもしれない。
マリエーヌにとって、父親と呼べる人物は二人いた。
だが、その二人ともまともな人間ではなかった。
マリエーヌの本当の父親は、彼女が幼い頃に他所の女と共に行方をくらましたと聞いた。
そして母親の再婚相手の義父も、母親の死後、マリエーヌを虐げるようになった。
挙句にあの男は借金のカタとして僕に彼女を売ったのだ。
婚約を交わした時の、心底嬉しそうな笑みを浮かべていた義父と、婚約相手の名前すら聞きもしなかった僕自身にも、今思い出せば腸が煮え繰り返るほどの怒りを覚える。
マリエーヌは、僕たちにとって都合の良い駒として扱われた被害者だ。
それなのに、僕はそんな彼女に対してなんと酷い事を――。
「アレクシア様」
その声に、ハッと我に返る。
「大丈夫ですか? なんだか辛そうにしていたので……」
僕を心配する優しい言葉なのに、胸がきつく締め付けられる。
――僕なんかよりも、辛かったのは君の方だろう……。
ひりつく胸の痛みを隠し、心配そうに僕を見つめる彼女にニコッと笑ってみせた。
「大丈夫だ。子に尊敬される父としてのジェイクが少し羨ましくなっただけだ」
それも嘘ではない。
子に愛される父親というイメージ像が僕の中にはない。
「アレクシア様のお父様は、どんな方でしたか?」
「……え?」
唐突に問われて、思わず聞き返す。
目を瞬かせる僕に、マリエーヌは少々戸惑いながらも口を開いた。
「あ……いえ……。お恥ずかしながら、私は父親に対してあまり良い思い出がなくて……少し気になったのです。アレクシア様のお母様の話は前にお聞きしましたが、お父様の話をお聞きした事がなかったので……。あの、無理にお話する必要はありませんから……」
「いや……そういうわけではないが……」
そう言いつつも、僕が目にしてきた父親の話は、とても彼女に話せるような内容ではない。
「……とても厳しい父親だった……と思う」
何度も鞭を振るわれた事、顔面を足蹴にされた事も全て、『厳しい父親』の一言に閉じ込めた。嘘は言っていない。
マリエーヌは何かを思い出すようにハッとすると、
「そういえば、大変な教育をされたとおっしゃっていましたよね……。申し訳ありません。余計な事をお聞きしてしまって……」
「いや、構わない。僕にとってはもう過去の話だ。今更僕が父親に対して何を思う事もない。本人と会う事もないのだから」
そう。僕にとって父親は、もう過去の人間だ。
ジェイクは僕の父親を殺された恨みを果たそうと復讐に燃えているようだが、実の息子である僕にとってはそんな事どうでもいい。
ただ血が繋がっているというだけで、僕にとって父親は何の意味も持たない。
もし仮に、父親が愛により愚かになったのだとしても……その愛は母親と弟のレイモンドにのみ向けられたもので、僕には欠片もよこさなかっただろう。
――……それなのに……どうしてあの男はあんな紙片を……。
「アレクシア様。確か、ジーニアス君とルディオス君の事は、公爵様のお父様が国外へ逃がしたのですよね……? そしてその情報をアレクシア様に残していたと……」
マリエーヌも、父親が残した紙片について気になっているようだ。
「ああ、そうだ」
「それって、お父様はこのような事態になるのを想定していた……という事でしょうか?」
「どうだろうな……。あの男が何を考えてあれを残したのか、僕にもよく分からない。それに、あの紙片を見つけられたのは本当に偶然だったんだ。机の引き出しが二重底になっているなんて知らなかったから……」
それを思い出し、ハッと息を呑んだ。
――……そうだ。どうして僕は確認しなかったんだ……?
「アレクシア様?」
マリエーヌに声を掛けられ、我に返る。
「いや、少し気になる事ができて……。あの紙片は、執務室の机の中に隠されていたものなんだ。引き出しが二重構造になっていて、普通に開けただけでは気付かないようになっていたんだ」
「そんなところに……。よく気付かれましたね」
「……ああ。たまたま気付いたんだ」
僕が怒り任せに机を叩き壊した事には触れないでおく。
「だからもしかしたら、ここの執務室の机にも同様の仕掛けがあるのかもしれない」
「……! 確かに、そうですよね」
ハッと目を見張り、マリエーヌは勢いよく上体を起こすと、まるで宝の地図でも発見したかのように瞳をキラキラと輝かせた。
「アレクシア様。今からそれを確認しに行きませんか? もしかしたら、お父様が遺しているものが他にもあるかもしれません」
期待に満ちた瞳で促され、思わず目を瞬いた。
未知なるものへの探求心も、勉強熱心な彼女の中で芽生えたものかもしれない。
その愛くるしい笑顔をしかと目に焼き付けて、その期待に応えるべく僕は頷いた。
「ああ。すぐに向かおう」
すぐにベッドから立ち上がり、椅子に掛けてある赤ワイン色のショールを彼女の肩に掛ける。
その母の形見を大切そうに胸元でぎゅっと握りしめ、マリエーヌは僕の手を取り立ち上がった。
この屋敷にある執務室は、公爵邸の執務室と同じような家具で構成されている。
僕はマリエーヌをエスコートしながら執務室の中へと入り、明かりの灯されたランプを片手に仕事机へと向かった。
机の上にランプを置くと、マリエーヌは僕から手を離して後ろへ身を引いた。
僕が作業しやすいようにと思っての事だろう。
彼女に見守られながら、机の引き出しを開けて中の書類や文具などを机の上に取り出した。
空となった引き出しの底をコンコンッと叩く。
音の響き、叩いた時の感触に微かな違和感を覚える。
――やはり……ここも二重底だ。
机から引き出しを全て引き抜き、それを机の上に置いた。
すぐ近くにあるペーパーナイフを逆手で持ち、引き出しの底板にガッ! と勢いよく突き立てる。
そのまま少しずつ位置をずらしながら切り込みの幅を大きくしていく。
次に切り込みに刃先を差し込み、上板を持ち上げるように動かすと、バキィッと上板の一部が割れた。
その隙間から、何か手帳のような物が見える。
上板を更に剥がし、それを取り出した。
木くずを手で払い退けてページを適当に捲る。
父親の筆跡で書かれたその内容は、日々の記録のようなものだった。
「もしかして、日記のようなものでしょうか……?」
「ああ、そのようだな」
中身は暗号で記されておらず、誰でも読める内容だ。
冒頭に『レイシアへ』と書かれている事から、これは僕の母親へ残した物なのだろう。
だが、それがここに残っているという事は、母親はこれを目にする事なく亡くなったと思われる。
父親にとっても、母親の死は想定外だったのかもしれない。
それを僕が見て意味があるのかは分からないが、適当にページを捲りながら流し読みをする。
やがて、あるページに差し掛かった時、ページを捲る僕の手が止まった。
――……これはどういう事だ……?
信じられない内容を目にして、僕は愕然としたまま立ち尽くした。
「アレクシア様……?」
動かなくなった僕を見て、マリエーヌが心配そうに声を掛けてくる。
僕はその手記から目を離し、マリエーヌへと視線を移した。
「……どうかしましたか?」
僕の顔から動揺を読み取ったのか、マリエーヌは緊張した面持ちとなり小さく身構える。
その姿を見て、僕は少し冷静さを取り戻し、これをどうするべきかを考えた。
「どうやらこれは、君と一緒に読んだ方がよさそうだ」
「え?」
マリエーヌはキョトンとすると、僕の提案を拒否するようにパタパタと手を振る。
「ですが、お義父様の日記のようなものなのですよね? そんな大事なものを私が読むわけにはいきません。お義父様とはお会いした事もありませんし……」
「そうだ。君は僕の父親と面識がない。だが――」
開いたままのページを、マリエーヌに見せるようにして掲げた。
「君の名前がここに書かれている」
「…………え?」
パチパチと目を瞬かせた後、マリエーヌはその箇所へと視線を向ける。
それから該当する箇所を見つけたらしく、息を呑むと同時に大きく目を見開いた。
「これって……」
マリエーヌもまた、信じられない様子でその箇所を見つめている。
『マリエーヌと呼びながら、アレクシアはその女性を探していた』
それは父親が知り得るはずもない、父親の死後に起きた出来事。
なぜ、それを父親は知っていたのだろうか……?
「公爵様……」
マリエーヌが僕の腕をギュッと握る。彼女もこの手記の内容が気になるのだろう。
少し震えているその手を安心させるよう、ソッと手を重ねた。
「ここは冷えるから、寝室に戻って読むとしよう」
それから僕たちは、暖炉の温もりが残る寝室へと戻り、二人掛けのソファに並んでその手記を読み始めた。
『レイシアへ。
言われた通り、君と出会ってからの印象深かった出来事についてここに書き記している。
君が導き出した答えが正しいかどうか、これで答え合わせをするといい。
中には君にとって辛い事実もあるかもしれない。
だが、僕は自分の選択を後悔していない。
だから君には僕の知り得ない先の未来を、僕の代わりに見届けてほしい』
その手記の冒頭には、あの冷酷な父親とは思えないほどの優しい一文が綴られていた――。




