07.今はまだ……
僕たちがハレイヤ国へと渡って一ヶ月後――。
「アレクシア様、今日も一日お疲れ様でございます」
寝室へ入ると、ベッドに座って読書をしていたマリエーヌがすぐに立ち上がり、僕に労いの言葉をくれた。
それだけで、僕の一日の疲れなど瞬時に消し去ってしまうほどの効力だ。
「ありがとう、マリエーヌ」
寝間着姿のマリエーヌを優しく抱きしめ、その頭上、柔らかな亜麻色の髪に口づけを落とし、彼女が大事そうに抱えている本を確認した。
「それは帝国の歴史書か。こんな時間まで勉強とは……あまり根を詰めない方がいい」
「私は大丈夫です。最初は勉強のためと思って読み始めましたが、帝国の成り立ちとか、昔の人たちの習慣とか、これまで知らなかった知識が増えるのはとても楽しいです」
「そうか。ならいいのだが……」
どうやらマリエーヌは、自分にできる事を考え、まずは知識を補おうと思ったようだ。
今持っている歴史書の他にも、地理、植物学、礼儀作法などの書物を読み、分からない部分は使用人に聞いているらしい。
母親に教わり文字の読み書きはできているが、公的な教育を受けていない彼女にとって学問は新鮮な経験のようで、とても意欲的だ。
できる事なら僕が彼女専属の講師となり、何でも教えてあげたいのだが……。
「ジーニアス君の方はいかがですか?」
無邪気な笑顔でマリエーヌが問う。
そう。僕が教鞭を振るわねばならないのはこちらの方なのだ。
「ああ。座学に関しては問題ない。身体能力に関しては難ありだが……」
ジーニアスが新たな皇帝となるために、本来皇子として受けるべき教育に関して僕が指導している。
とはいえ全くの無知というわけでもなく、帝国に居た頃、兄が持ってきた教科書をジーニアスも読んで一緒に学んでいたらしい。
試しにいくつか問題を出してみたが、全て完璧に答えていた。
理解が早く、記憶力も申し分ない。
この調子で学べば、皇宮に仕える文官たちとも対等に話せるようになるだろう。
しかし、残念なのは身体能力だ。
毎晩、就寝前にルディオスが入れ替わり、筋力トレーニングに励んでいるらしい。
いざ弟を守る時に力が無ければ守りようがないからと、ルディオス本人がそう語っていた。
おかげで筋力に関しては問題ない。
だが、それが備わっていたところで力の使い方をまるで分かっていない。
とにかく運動神経が悪すぎる。
皇帝になれば優秀な護衛騎士が付く事になるが、それでもある程度の自己防衛能力は必須だ。
何より問題なのは、『いざとなれば兄が守ってくれる』という考えが根底にある事だ。
それがこの男の甘えの一つとなり、強くなろうという意志が全く見られない。
剣の手合わせをすれば、一瞬で剣を弾かれ無防備となる。
それを悔しそうにする素振りも、やり返そうという意欲もない。
やるだけ無駄、という姿にこちらも指導する気が失せる。
それを思い出すと、忘れていた疲れがドッと押し寄せた。
せっかくマリエーヌが癒してくれたというのに……。
渋い顔をする僕を見て、マリエーヌが深刻げに頷く。
「確かに、あの薪割りの様子を見ていると不安になりますね……」
以前、ジーニアスが薪割りをする姿を見ていた彼女は、その時の危なげな様子を思い出したようで、「怪我をしなければよいのですが……」と不安がっている。
奴が怪我をしたところで自業自得なのだが、優しい彼女を悲しませるわけにはいかない。
「多少、痛い思いをするのは仕方ないが、大きな怪我にならないよう心掛けている。そこは安心してほしい」
僕の言葉に、彼女は安堵するように表情を緩ませた。
「そうですか。アレクシア様がそう言ってくださるなら安心です。アレクシア様も、お怪我のないようお気を付けてください」
「ああ。ありがとう、マリエーヌ」
僕が怪我をする事はまず無いが、マリエーヌが気に掛けてくれる気持ちは大事に受け取る。
「そろそろ休もうか」
「あ……。もう少しだけいいですか? 区切りの良いところまで読んでしまいたくて……」
マリエーヌは手にする本を持ち上げながら、申し訳なさげに告げる。
「ああ、もちろん構わない」
「ありがとうございます。公爵様はお疲れでしょうから、先にお休みになられてください」
「いや、せっかくだから君が読書する姿を見ていようかな」
「え……? み、見ても特に楽しいものではないと思うのですが……」
マリエーヌは恥ずかしげに頬を赤らめると、それを隠すように本を顔の前まで持ち上げる。
そんな彼女の姿すらも愛おしく、ずっと見ていたいと思う。
「僕の事は気にしないで。さあ、早く続きを読まないと遅くなってしまう」
「あ、はい!」
マリエーヌはあたふたとしながらベッドに腰掛けると、本を膝の上に置き、開いていたページを読み始める。
その隣に座り、僕は読書に没頭する彼女の姿をジッと見つめた。
真剣な眼差しをページに落とし、読書する姿もなんと美しい事か。
パチパチと瞬きする瞼と連動する睫毛は一本一本がしなやかな曲線を象り、文字を辿る新緑色の瞳は宝石にも勝る美しさを兼ね備えている。
静かな呼吸を繰り返す唇の微かな動き、それに合わせて上下する華奢な体。
ページを捲る指先の動きは繊細で、透き通るような白い手が、分厚い本を懸命に支えているのがなんとも健気だ。
代わりに僕が本を持ってあげたい。
そんな事を考えていると、本を持つ彼女の手がフルフルと震え出し、
「あの……アレクシア様……」
絞り出すような声が聞こえた。
「そんなに見つめられると集中できません……」
今度は泣きそうな声で訴えられた。
どうやら僕の方が見つめる事に集中し過ぎてしまったらしい。
「すまない。邪魔するつもりはなかったんだが……」
口では謝罪を述べつつも、恥ずかしがるマリエーヌの姿がこの上なく愛らしくて目が釘付けになる。
そんな僕の視線を遮ろうと、マリエーヌが持ち上げようとした本を、咄嗟に制した。
本を持つ手に添えられた僕の手を見た後、マリエーヌは戸惑いがちに僕を見上げた。
「アレクシア様……?」
「ん?」
目を瞬かせるマリエーヌの目前で、優しく微笑みながら軽く首を傾げてみせる。
当然、彼女が何を訴えようとしているかは分かっているが、ここはあえておどけてみせる。
もう少しだけ、可愛い彼女の姿を見ていたい。
潤んだ新緑色の瞳が、何度も瞬きしながら慌ただしく視線を彷徨わせる。
触れる手から、彼女の体温が徐々に上昇していくのが伝わってきた。
優しくしてあげたいのに、もう少しだけ困らせたくなるのはなぜだろう。
僕から目を逸らしつつも、時折チラッとこちらを伺い、再び目を逸らす。
そんな彼女の一挙一動に僕は目が離せない。
「ですから……そんなに見つめられると……」
「そんなに恥ずかしいなら、目を閉じるといい」
「……それでは本が読めません」
「だが、今も読めていないのだろう?」
「そ……それは……アレクシア様が……」
はくはくと口を動かしながら、マリエーヌは必死に言葉を紡ぐ。
おずおずと顔を背けようとする彼女に、僕も頬を寄せ追随する。
もはや彼女にとっては読書どころではなくなっている。
そんな子供じみた戯れに幸せを噛みしめながらも、これ以上困らせるのはさすがに可哀想だと、彼女から少し身を引いた時、
「あ……」
切なげな声を漏らし、マリエーヌが僕を見上げた。
寂しげにこちらを見つめるその姿に、僕の情欲が激しく掻き立てられる。
思わず手を伸ばし、赤みの残る頬にそっと触れる。
再び恥ずかしそうに目を伏せ、マリエーヌは少しだけ顔を逸らすも、本を膝に置き、頬に触れる僕の手に自らの手をそぉっと重ねた。
愛おしそうに僕の手に頬を摺り寄せる仕草に、ごくり……と、僕の喉が音を立てる。
胸を打ち付ける心臓の鼓動が痛い。
「マリエーヌ」
呼び掛けると、マリエーヌは僅かに息を呑み、僕へと視線を向けた。
彼女の頬は、既に熱いくらいの熱を帯びている。
だが、それは僕も同じ。
先ほどから体が熱く、呼吸も苦しい。
ふいに、彼女の瞼が静かに閉ざされた。
きっと見つめられる恥ずかしさに耐えられなくなったのだろう。
そう思うと同時に、それは僕に対しての合図にも思えた。
彼女の頬に触れる手を滑らせ、顎下を少しだけ持ち上げる。
ふっくらとした無防備な唇が露わになり、それを傷付けてしまわないよう、優しく唇を重ねた。
僕の唇を当然のように受け入れてくれる彼女に、堪らない気持ちになる。
触れるだけの口づけを何度も交わすうちに、徐々に呼吸が乱れ始めた。
湿った吐息が交わる中、より空気を求めようと彼女が開いた口を塞ぐように唇を重ね、舌先を這わせた。
まだ慣れない深い口づけにも、彼女はなんとか応えようとしてくれている。
それが嬉しくて、僕は更に深く唇を押し当てた。
ふいに彼女の体が後ろへとよろめき、ベッドに倒れる。
その寸前で、彼女の後頭部に手を滑り込ませ、もう片方の手をベッドに押し当て体を支えた。
体への衝撃は防げたものの、それは結果的に彼女をベッドに押し倒すような体勢となった。
「「あ……」」
予想外の事態に、互いに目を見張って硬直する。
そのまましばらく見つめ合ったまま、今も体の奥で燃え盛る欲情を必死に抑え込む。
ふと頭を過ったのは、新婚旅行最後の夜。
僕を押し倒し、なぜ抱いてくれないのかと涙ながらに訴えていたマリエーヌの姿。
僕もできる事なら彼女の思いに応えたい。
僕だって……ずっとそれを望んでいたのだから。
だが、今回の計画について話をした時、僕たちは一つ約束を交わした。
目的を果たすまで、子供は作らない、と。
たとえこうして寝床を共にし触れ合う事があったとしても、それ以上の行為はしないと決めた。
僕たちの子供が、自由に生きられる未来が保障されるまでは……。
互いに求め合う気持ちが同じなのは承知の上で、僕たちはその約束を守っている。
愛らしい彼女の寝顔に何度も情欲をそそられようとも、寝ぼけた彼女が僕に抱きつき離れなくなった時も……強靭な理性を奮い立たせ抗ってきた。
それなのに……それが今、ぐらぐらと大きく揺らいでいるのが分かる。
そしてマリエーヌ自身も、僕を求めているのを知っているからこそ、今にも枷が外れそうだ。
僕の目前で戸惑いながらも、少しだけ期待を滲ませるその瞳が僕を誘っているように思える。
目が眩むほどの熱に侵されながらも、扇情的な彼女の姿に抗うべく、シーツをきつく掴んだ。
ギシッ……とベッドが軋む音が部屋に響き、再び沈黙する。
ひとまず起き上がらなければ……と、上体を起こそうと試みた時、僕の額から伝った汗が滴り、彼女の首元へと落ちた。
「んっ……」
ピクッと体を震わせて、艶のある声が零れる。
その瞬間、何かがプツッと切れたように抗っていた力が抜け落ち、引き寄せられるように彼女の濡れた首元へと顔を寄せ――。
ゴトッ!
「……!」
首元に唇が触れる寸前で、その音に引き止められた。
ハッと我に返り上体を起こしてみれば、彼女の膝上に乗せられていた歴史書が床に落ちていた。
すぐさま立ち上がり、床にある歴史書を拾い上げサイドテーブルに載せる。
それから大きく息を吸い込み、吐き出した。
少しだけ冷静さを取り戻すと、自分の危うい行動に対する罪悪感に襲われる。
汗ばむ額を拭うようにして前髪をかき上げ、そのままがっくりと項垂れた。
「マリエーヌ……すまない。僕が迂闊だった……」
潔く謝罪すると、上体を起こしたマリエーヌは両手で顔を覆い隠したまま、小さく首を振った。
「いえ……。私も……申し訳ありません……」
涙声で謝罪する彼女は小刻みに震えている。
「怖かっただろう。本当に申し訳なかった」
もう一度謝罪を述べると、マリエーヌは顔を覆っていた両手をバッと離し、慌てた様子で首を振りながら両手を左右に振った。
「あっ……いえ! 怖かったわけではなくて、ただ恥ずかしかっただけで……」
たどたどしくそう言うと、胸元できゅっと手を握り視線を横に逸らす。
「その……嫌ではなかったのです……」
いじらしくそう告げた彼女に、ぐぅっ……と込み上げる何かを必死に呑み込む。
そして頭の中では、帝国成立四百年の歴史を年号順に並べ始めた。




