06.逃避行の始まり
翌日の朝、マリエーヌは二日酔いのため起き上がる事もできない状態だった。
昨夜、マリエーヌは酒を一杯だけ飲んだと言っていたが、その場に同席していたリディアによると、グラス三杯ほど飲んでいたらしい。
しかも酒を飲むのはこの時が初めてだったという。
しかし、女将の誕生日を祝おうと、慣れていない酒を懸命に飲んでいた彼女の姿を想像し、その健気さには強く胸を打たれた。
更には昨日のマリエーヌの、少し強気でかつ艶めかしいあの姿を思い出すと、容易に酒を禁じる事もできない。
せめてこれからは、僕と二人でいる時だけに限定して飲んでもらうようにしよう。
そう考えながら、僕は二人の護衛騎士に次の指示を出す。
彼らはすぐに動き、同じ宿に泊まっていた四名の人間と共にここを発った。
僕たちと同じ装いをした彼らはあらかじめ用意していた替え玉の人間だ。
その目論見通り、僕たちを監視していた人間は替え玉たちの乗る馬車に誘導されて移動を始める。
その気配が周囲から完全に消えた事を確認し、僕もマリエーヌを抱きかかえて部屋を出た。
辛そうなマリエーヌには申し訳ないが、今朝のうちにここを発たねばならない。
「旦那さん。息子たちを、どうぞよろしくお願いします」
宿を発つ前、女将は僕に向けて深々と頭を下げた。
女将には皇子のどちらかが事情を説明したらしく、息子が僕と共に宿を発つ事に関して、女将からの追及はなかった。
哀愁を帯びる瞳には旅立つ息子を気遣う母親としての想いが滲んでいる。
血の繋がりのない彼らを我が子同然に愛情を注ぐ姿は、これまでに何度も驚かされた。
「ああ。悪いようにはしない。あと、僕が壊した扉の修理については後日、僕の代理人をよこす。ついでに他に修繕が必要な個所があればそれも対処しよう」
「あら、いいのかい?」
女将は驚きに目を丸くしながらも、期待の眼差しを僕に向ける。
「その分、息子に働いてもらうからな」
「あっははは! じゃあ遠慮なくお願いしようかねぇ」
いつものように豪快な笑い声をあげ、女将は腕を組んで満足げな笑みを浮かべた。
老舗の温泉宿とういこともあり老朽化が著しい。
ザっと見ただけでも修繕個所はいくらでもありそうだ。
ルディオスと交わした約束もある。腕が立つ職人を派遣するとしよう。
幸いな事に、ここには職人が滞在できる部屋もある。しばらくはこの宿も盛況するだろう。
こうして僕たちはディーランド大陸を発ち、再び海を渡った。
帝国から追われる身になる僕たちが隠れ住める場所。
海に囲まれた小さな島国ハレイヤ国へと向かうために――。
◇◇◇
ハレイヤ国は、他国との貿易が盛んではあるものの、入国については厳しい規制を設けている。
というのも昔、この地では当時六歳だった王子が誘拐されるという重大事件が発生したからだ。
希少価値の高い王族の人間は高値で売れる。
それを目論む他国の貴族と結託した賊の仕業だった。
船に押し込まれ、国外へと連れ去られそうになっていた王子を助けたのは、僕の父親だった。
偶然にも、ウィルフォード家が所有する貿易船が航海中に怪しい船を捕らえ、その船を捜索した結果、誘拐された王子を発見。
僕の父親が保護した王子をこの国に送り届けると、国王は最大限の恩義を示すためにも、特例の入国許可証を発行し、この別荘を父親に贈呈した。
父親はこの別荘の存在を秘匿としたため、僕も父親が残した紙片を目にするまでは知らなかった。
だが、この地は僕たちが身を潜める地としては最も適している。
ここでは外国の人間が入国する場合、保証人となる地元民が必要になる。
その者が犯罪を犯した場合、連帯責任として保証人も罰せられる仕組みだ。
故に、よほど信頼できる人間でないと地元民も保証人になろうとは思わない。
僕たちの場合は、国王の許可により入国しているため、国王が保証人の代わりを担っている。
今の国王は、父親にこの別荘を贈った帳本人でもある。
父親が皇帝に殺された事を話すと、国王は父親の死を惜しみながらも僕たちに協力する意向を示し、入国を許可した。
そうしてこの地へ渡った翌日、僕はマリエーヌに事情を話した。
これまでの経緯、今後の事についても。必要以上に怖がらせないよう言葉を選びながら、慎重に話を進めた。
マリエーヌは何度も目を瞬かせていたが、それでもなんとか現状を把握しようと、質問を挟みながら真剣に話を聞いていた。
「では、ここへ来たのは皇帝陛下から私を守るためだったのですか……?」
「ああ、そうだ。君を騙すようで申し訳なかった。だが、君には何の不安もなく新婚旅行を楽しんでほしかったんだ。ここへ来たら、しばらくは窮屈な暮らしをさせてしまう事になるからな」
この別荘は高さ百メートルほどの丘の上に建っている。
その周辺一帯も私有地の範囲となっているため、丘を下らない限り僕たちは地元民と出会う事はない。
丘の下には街並みが広がっているが、地元民との接触は極力避けなければならない。
よって、自由に街へ行き来する事はできない。
そもそも、この別荘は王族が使う別荘として建てられたものであり、その所有権が外部の人間の手にあると知られても困るのだ。
「すまない。また君を檻に閉じ込めてしまうかたちになるが……。地元民との交流を極力避ける事が、僕たちの入国が許可された条件だったんだ」
「それについては心配しないでください。ここが安全な場所だという事はよく分かりましたので」
優しい笑顔を見せてくれたマリエーヌのおかげで、僕の罪悪感は少し薄れた。
それから宿の女将の息子ジニーこと、第五皇子のジーニアスについても話をした。
世間には公表されなかった第五皇子が存在した事。
その人物がジーニアスだという事実に、マリエーヌは信じられないといった反応を見せた。
更には第五皇子を新たな皇帝とするための計画がある事を伝えると、彼女の顔は見るからに強張った。
しかし、すぐにキリッと表情を引き締め、覚悟を決めたような力強い眼差しで賛同した。
「私も、公爵様を苦しめた皇帝が許せません。私に出来る事があれば何でも言ってください」
そんな心強い言葉まで聞かせてくれた。
そして、皇帝の手により切り裂かれた僕のハンカチは、マリエーヌの要望で彼女に返す事になった。
僕が持っていると、余計に自責の念に駆られると思ったのだろう。
僕としては、たとえボロボロになろうとも手放したくない気持ちの方が強かった。
だが、彼女に優しく促され、渋々それを手放した。
しかし、その後も気付けば内ポケットに手を入れ、あるはずのないハンカチを探してしまう。
我ながら未練がましい男だとうんざりするが、胸の内側にぽっかりと開いてしまった空白は、もうしばらく埋まりそうにない。




