03.父親が残したもの
深夜、公爵邸へと戻った僕は執務室へと直行した。
「公爵様!」
執務室に入るなり、残って仕事をしていたジェイクが立ち上がった。
「ご無事で何よりです。それで、皇宮ではどのようなお話が……」
安堵の表情で駆け寄ってきたジェイクの横を足早に通り過ぎ、僕は自分の机へと向かった。
無言のまま荷物を床に置き、身に付けていた外套、着飾るだけの装身具を無造作に投げ捨てていく。
それを遠目から見ていたジェイクは、僕の機嫌の悪さをそれとなく察したらしい。
諦めるように溜息を吐き出すと、元の場所へと戻り、机の上に並べられた書類を片付け始めた。
律儀にも僕が帰ってくるのを待っていたのだろうが、すぐに事情を聞き出すのは無理だと判断し、帰り支度に取り掛かったようだ。
上着を脱ぎ、その内ポケットに入っているハンカチを取り出す。
マリエーヌからの贈り物でもある刺繍入りの白いハンカチ。
四つ折りにして内ポケットに入れていたそれは、皇帝が突き刺した剣により切り裂かれてしまった。
マリエーヌが施してくれた家紋の刺繍も、糸がざっくりと断ち切られている。
その上、真っ白だったハンカチは僕の血で真っ赤に染まり、慎重に洗ってはみたものの、あまり綺麗にはならなかった。
薄い赤茶色のシミが全体に広がり、無残な姿になったそれをギュッと握りしめ、ズキズキと疼く左胸にもう片方の手を添えた。
皇帝に刻まれた傷の応急処置はしたが、もう一度、縫合し直す必要がある。
傷が開いて出血すれば、マリエーヌに知られてしまうかもしれない。
彼女に余計な心配はさせたくないし、こんな不名誉な傷を見せたくはない。
――しばらくは、一緒に眠る事もできないな……。
そう落胆し、途方に暮れる。
しかしそれも束の間だった。
自分のテリトリーに戻って来たからだろうか。
沈み込む気持ちの中から、それまで抑え込んでいた怒りがふつふつと膨れ上がる。
ギリッと奥歯を嚙みしめると、ふいに皇帝との会話が脳裏に過った。
途端、体内の血が沸騰しそうなほどの熱を帯び、暴れ狂うように全身を駆け巡る。
マリエーヌを守るためとはいえ、彼女への愛を否定せざるを得なかった自分に対する失望。
それを僕に言わしめた皇帝への怒り。
それなのに、忌々しい皇帝に抗う事のできない頑なな忠誠心。
何もかもが腹立たしい。
震えるほどに拳をきつく握りしめると、手の中にあるハンカチが視界の端に映った。
二度と元通りにはならない、彼女からもらった初めての贈り物が――。
直後、プツッと頭の中で何かがキレた。
バキィッッ‼
やり場のない怒りは、目の前の卓上へと振り下ろされた。
僕の拳が直撃した机は真ん中から真っ二つに割れ、積み重ねられていた書類が舞い上がり床に散乱する。
それでも僕の怒りは静まらない。
拳を握りしめたまま荒い呼吸を繰り返し、体の中に蔓延る熱を外へと吐き出す。
ジェイクは僕と視線を合わせないよう、不自然に顔を背けている。
しかし様子が気になったのか、チラッとこちらを覗いた。
直後、大きく目を見張ったジェイクはガタンッと椅子を倒して立ち上がった。
「公爵様……そのお傷は⁉」
ジェイクの視線は僕の胸元へと注がれている。
見れば、僕が着ている白いシャツの胸元が赤く滲んでいた。
どうやら今ので傷が完全に開いてしまったらしい。
僕の状態を確認しようと、駆け寄ってきたジェイクの胸倉を乱暴に掴み上げた。
「⁉」
「マリエーヌに言ったら殺す」
目前まで引き寄せ、言葉通りの殺意を滲ませ凄んでみせると、ジェイクはすぐに両手を掲げて降伏の意を示す。
「わ……分かりました。マリエーヌ様には何も言いませんので、手を離してください」
払い退けるように手を離すと、ジェイクはヨロ……と後ろへよろめき、疲れ果てたように項垂れた。
それから渋々と顔を上げると、僕の胸元をじっとりと睨む。
「とりあえず、まずはそのお傷の手当てをしましょう。そんな出血ではマリエーヌ様に隠そうとも隠せません。すぐに準備して参りますので」
「その必要はない。自分でやる」
僕は手にしていたハンカチをズボンのポケットに収めると、その場に膝をついた。
真ん中で分断された机の、かろうじて原型を留めている引き出しの中から丸みを帯びた革袋を取り出す。
中には傷の処置に必要な道具が一式揃っている。
自分の体に他人が触れるのを嫌う僕は、傷の処置はいつも自分でしていた。
立ち上がろうとして、割れた机の下敷きになっている見覚えのない本に気付いた。
それを拾い上げ、表面に付着している木くずを手で払いのける。
少し掠れた表題は、『愛する女性へ伝えたい言葉』と書かれていた。
――これは……恋愛指南書か?
ジェイクは「またそんな物を持ち込んでいたのですか」と言いたげな視線をこちらに向けているが、これは僕が持ち込んだ物ではない。
どこからこんな物が……と、机の残骸に視線を移すと、割れた引き出しの底の板が二重になっているのに気付いた。
――引き出しが二重底になっていたのか……。
公爵位を継いでから今まで、長らくこの机を使用していたが、全く気付かなかった。
僕の目を欺くほど精巧に、この机に細工を施した人物となると、一人しか思いつかない。
前公爵アレクセイ・ウィルフォード。
僕を厳しく教育し、時には容赦ない暴力を振るったその男は、僕の父親でもある。
その人物を思い出すと、苦々しい幼少期の記憶までも掘り起こされる。
二歳の時から十年間、僕は壁一面の書物に囲まれた部屋に閉じ込められ、過酷な教育を課せられた。
食事の時間は極わずか。自由時間など当然ない。
決められたカリキュラムで埋められた一日を終えれば、深夜は自主勉強。毎日決められた課題を全てこなさなければ、痛みを伴う罰を与えられる。
何よりも僕を苦しめたのは、毒の訓練だった。
毒の耐性を付けるため、微量の毒を摂取するというもので、体内に取り込んだ毒は容赦なく僕の体を蝕んだ。
激しい痛みにのたうち回り、吐き出した自らの血に溺れ、何度も死の淵を彷徨った。
苦しさのあまり意識を手放そうとすれば、すかさず父親が僕を蹴り上げた。
『甘えるな』と睨まれ、気絶する事さえ許されず毒の苦しみに抗わせた。
父親は、優秀な後継者を残すようにという皇帝の命令に従っているだけで、僕自身に対しては何の情も持ち合わせていなかった。
そして僕も、父親に対して何も期待しなかった。
そんなある日、部屋の窓から外を眺めている時、レイモンドと両親が中庭を歩いているのを見かけた。
仲良さげに並んで歩くレイモンドと母親。その少し後ろを父親が歩いていた。
そこで僕は思いもよらぬ光景を目にした。
僕が血の滲むような努力を積み重ね、求められた結果を出したとしても、それが当然だと言わんばかりに次の課題を出すだけだった父親が……二人を見て笑っていたのだ。
あの時の衝動は今も忘れない。
あの瞬間、僕が父親に向けたものは、殺意以外の何ものでもなかった。
――実際、本気で殺そうと思った事もあった。
十四を迎えると、僕は父親と共に戦地へと駆り出されるようになった。
敵も味方もごった返す乱戦の場。
そこで僕は隙をついて父親の殺害を試みた。
ここで父親を殺せば、僕が求める公爵位が手に入る。
ただそれだけの理由だった。
だが、迷いなく急所を狙った僕の刃は父親の手によりあっけなく防がれた。
『まだ早い』と、余裕のある言葉まで投げかけられて。
その後、命を狙った僕に対して何のお咎めもなく、何事もなかったように振舞う父親の姿に、僕は言いようのない敗北感を味わった。
そんな父親の姿を思い出しながら、僕は本の中身に目を通した。
その内容は、これまで目にしてきた恋愛指南書とさほど変わらない。
新たに得られそうなものは無さそうだと落胆の溜息を吐き出そうとした時、最後のページに数枚の紙片が挟まっているのに気付いた。
数字と記号で綴られたそれは、僕がよく知る暗号文。
外部に知られてはならない機密情報を書き記す際、使用する暗号だ。
その解読法を知るのは、後継者教育を受けた僕だけ。
――となると、これは僕に宛てて書き残したものか……?
それも恋愛指南書に隠してまで、父親が僕だけに伝えようとしたものは何なのか。
僕はすぐに暗号文の解読に取り掛かる。
一枚目を解読し終え――その内容に思わず目を疑った。
『第五皇子は生きている。
彼の中には第四皇子の人格が存在する。皇族の証も確認した。
これを皇帝が知れば第五皇子も殺される。彼をディーランド大国へ退避させた』
第五皇子――皇族の証である赤い瞳を持たずして生まれた皇子。
ゆえに、異質な存在として正式な皇族とは認められず、第五皇子の存在は世間に公表されていない。
しかし、第五皇子が間違いなく皇帝の血族である事は、双子の兄である第四皇子の存在が証明していた。
第四皇子は、確かな皇族の証をその瞳に宿していたからだ。
よって、第五皇子は不貞の子として処分はされずに生かされていた。
第四皇子が殺されるまでは――。
第四皇子が殺害された日、第五皇子は行方をくらました。
自ら逃げ出したのか、あるいは何者かに連れ去られたのか。
その詳細は分からないまま、第五皇子の捜索は早々に打ち切られた。
そもそも第五皇子の存在自体が世に知られていないため、存在しないはずの人間を捜索しようがなかった。
仮に第五皇子が生きていたとしても、皇族の証を持たない者が皇子だと主張したところで信じる者はいない。
その存在を持て余していた皇室にとっても、第五皇子がいなくなった事は都合が良かったのだろう。
そうして第五皇子の存在は闇に葬られ、現在もその消息は不明のまま。
その第五皇子が、今更生きていると分かったところで大した情報ではない。
だが、皇族の証を持っているのなら話は変わる。
これが事実なら、第五皇子が正式な皇子として認められ、次期皇帝としての資格を得られる可能性がある。
「あの……公爵様? お傷の手当は……」
思索にふける僕に、おずおずとジェイクが声を掛けてくるが構わず続ける。
――第四皇子の人格……二重人格でも発症しているのか……?
それについては軽く流し、次の文章へと視線を移す。
皇帝が皇子殺害に関与しているとほのめかす一文。
これについては驚くまでもない。薄々勘づいていた事だ。
あの皇帝の性格からして、皇子に皇帝の座を譲るのが気に食わない、というところか。
十六を迎えた皇子が皇太子として立てられれば、帝国騎士団に属する騎士の約三分の一が皇太子の配下へと渡る。
それも不満の一つだったのだろう。
皇子殺害に関わったのは、帝国騎士団の中でも特に皇帝への忠誠心が強い精鋭部隊の人間。
そして、これを書き残した僕の父親だろうか。
僕と同じ教育を受けた父親も、皇帝への絶対的な忠誠心を植え付けられている。
皇帝の命令であれば、たとえ皇子殺害という帝国にとって不利益な事であろうとも、必ず遂行したはずだ。
だが……その父親が第五皇子を助け、国外へと退避させた。
――どういう事だ……?
新しい王を立てて、謀反でもするつもりだったのか?
だが、不可能だ。
僕たちは皇帝に剣を向ける事すらできない。
それどころか、皇帝の口から『第五皇子を殺せ』と命令されれば、自らの手で第五皇子を殺す事にもなりえる。
そんな状態で謀反など無謀だ。成功するはずがない。
そんな愚かな行為を、あの男がするわけ――。
その結論に至りかけた時、ふいに皇帝の言葉が脳裏に過った。
『愛は人を愚かにさせる』
あの時に見た皇帝の憎悪の理由が、父親が愛により愚かになったという意味ならば……。
――両親が死ぬ原因となった事故も、皇帝が関与していた可能性がある。
暗号文がもたらす情報量の多さに、僕は軽く頭を振り整理する。
父親が何を考えてそんな行動をとったのか。今となっては確認しようがない。
使えそうな情報だけ事実確認をすればいい。
二枚目の紙片には、その後の第五皇子の所在について記されていた。
今もここに居るのなら捜索に時間はかからないはずだ。
「ディーランド大陸か……」
「え?」
僕の呟きに、気の抜けたような声と共にジェイクが目を見張った。
「なんだ? その間抜け面は」
「あ……いえ。ちょうどその話をしようと思っていたのですが……」
「……? 何の話だ?」
「……え?」
噛み合わない会話に、互いに顔を顰め合う。
すると、ジェイクは机の上から一枚の書類を取り、僕に差し出した。
「マリエーヌ様が大切にしていらっしゃるショールの産地についてです。刺繍の修繕を依頼するため、ショールが作られた工房を調べていましたよね? その調査報告書です」
受け取った書類に目を通すと、その工房の場所がディーランド大陸にあるヤシャという国だと書かれている。
こんなところで共通点が見つかるとは……。
「てっきり、私以外の誰かから話を聞いたのかと思ったのですが……違いましたか?」
「……いや、これでいい」
第五皇子の存在については、ジェイクにはまだ伏せておく。
――しかし、皇子の生存確認は早急に必要だな。
頭の中で算段を立てながら、着ているシャツを脱ぐ。
広範囲に渡り真っ赤に染まったシャツは、もはや使い物にならない。
血で染まった箇所を内側にして折り込み、血が滴る左胸の傷に押し当て止血を試みる。
それを見ていたジェイクの顔が途端に険しくなった。
「……公爵様がそれほどのお傷を負うとは……。やはり、皇帝陛下が……?」
「ああ。僕がまた二重人格を発症した時に、この傷を見て誰が主人か思い出せとの事だ」
「二重人格……?」
ジェイクは不可解そうに眉を顰めて何度か目を瞬かせ、
「……ああ、そういう事ですか。それで命が助かったのであれば、幸運だったと言えますね」
今ので大方の事情を把握したらしく、呆れと安堵の入り交ざった顔で軽く息を吐く。こういうところで察しがよいのはこの男の有能なところだ。
「ですが……その言い分も、今後は通用しないでしょう。どうなさるおつもりですか? これまでのように大々的にマリエーヌ様を愛する姿を見せれば、また皇帝陛下の不信を買うことになります」
「……」
ジェイクの言うように、僕が再びマリエーヌを愛する姿を見せれば、またすぐに皇宮へ呼び出されるだろう。
同じ手は通用しない。
今度こそ、皇帝は僕を殺そうとするはずだ。
それどころか、マリエーヌまで巻き添えになる可能性が高い。
自分を裏切った人間をより苦しめるため、その人間が愛する者を目の前で殺害する。
あの男の考えそうな事だ。
――やはり、まずはマリエーヌの身の安全を確保するのが最優先だ。
「マリエーヌは、もうここに居ない方がいいだろう」
直後、ジェイクは大袈裟に思えるほど目を見張り驚きを露わにする。
「え……? では……マリエーヌ様をいったいどちらへ……?」
「少なくとも、国外へ退避させた方がよさそうだ」
国外と聞いて、ジェイクはハッと息を呑む。
それから顔を顰めつつ、顎に手を添える。
「……そんなに事態は深刻なのですか……」
「あまりよくはないな」
「そうですか……。では、仕方ないですね。マリエーヌ様の安全を考えるならば、お二人が離れ離れになる事もやむをえな――」
「いや、僕はマリエーヌと離れるつもりはない。僕もマリエーヌと一緒に行く」
きっぱりと告げた僕の言葉に、一瞬、ジェイクは目を丸くして固まった。
「…………はぁ⁉ 何を考えて……まさか……公爵としての職務を放棄なさるおつもりですか⁉」
今にも噛みつきそうな勢いでジェイクが声を荒げるが、鼻先で軽くあしらった。
「そんなものよりマリエーヌの方が大事だ。僕ならマリエーヌを守りながら安全な場所へと逃げられる。そこでマリエーヌと共に過ごすのも悪くない」
これはあくまでも一つの案にすぎない。
――が、本当にそれも悪くないと思っている。
この際、全てを捨て去り帝国の手の届かない遠くの地で、マリエーヌと二人だけで暮らすのも良いだろう。
それが可能なだけの財力もある。
前世でマリエーヌは僕が読めるようにと、僕が座る車椅子の近くに新聞を置いてくれていた。
おかげで回帰後の半年間、国内外で起きる出来事をあらかじめ知る事ができた。
未知の感染病により困窮していた地を助け、リスクを避けて効率良く企業への投資ができたのも、全てはマリエーヌのおかげだ。
それにより得た信頼、人脈、財産を彼女のために使うのは当然だ。
移住した先でもう一度環境を整え直せば――。
「公爵位を、自ら捨てる……と?」
僕が新たな地でマリエーヌと過ごす日々を思い描いていると、隣から生気を失ったような声が聞こえた。
「ああ、そうだ」
きっぱりと答えた瞬間、ざわり……と空気が変わるのを肌で感じた。
ふいにジェイクへと視線を移すと、その顔からは抜け落ちたように表情が消えていた。
無感情。というよりも、無関心と言うのがしっくりくる。
僕が知っているジェイクという存在が、まるで別のものになり代わったような違和感を覚え、目の前の人物を警戒する。
その男は、僕に感情の無い視線を向けたまま淡々と告げた。
「では、私は本日をもって補佐官を辞任致します」
「――‼」




