01.皇帝からの勅令
マリエーヌと過ごす平穏な日々。
心安らかな日常に暗雲が立ち込めたのは、彼女と二度目の結婚式を挙げた三日後の事だった。
その日、定刻より少し遅れて補佐官のジェイクが執務室へとやってきた。
遅刻を詫びる言葉もなく、険しい表情のまま僕が座る机の前まで歩み寄り、
「公爵様。皇宮からの使者が、これを公爵様にと……」
そう言って僕に差し出したのは、一通の封書。
そこに施された、皇帝の印章が刻印された真紅の封蝋を目にした瞬間、ここしばらくの夢うつつな気分から一気に現実へと叩き落された。
そして思い知らされる。
奇跡のような日常は、ある日突然、無情にも奪われるのだという事を。
すぐにそれを受け取り、封蝋を割って中の書状を取り出す。
そこに書かれていたのは――。
『早急に皇宮へ来たれ』
走り書きと思えるほど粗末に綴られた文字の羅列。
宛名、差出人の名前すらも記されておらず、書かれているのはその一文だけ。
だが、僕を動かすにはそれだけで十分だと、この差出人はよく理解している。
――今すぐに行かなければ……。
たった一文の命令にすら抗う事のできない本能が、速やかに僕を椅子から立ち上がらせた。
その書状をジェイクに突き出すと、それを受け取ったジェイクはすぐに内容を確認する。
「僕は今から皇宮へ向かう。お前はここに残って仕事を片付けろ。……分かっていると思うが、そんな顔を絶対にマリエーヌには見せるな」
睨みを利かせた僕の指摘に、深刻な顔で書状に視線を落としていたジェイクはハッと顔を上げた。
すぐに眉間の皺を指先で押し込むと、ジェイクは何事もなかったかのように無表情へと切り替える。
「かしこまりました。こちらの事は私にお任せください。無事の帰還をお待ちしております」
ジェイクが頭を下げるのを尻目に見て、僕は速やかに執務室を後にした。
その足で向かった先は、僕の愛するマリエーヌの部屋。
共に朝食を摂り、執務室へ向かうのを見送ったばかりの僕が早々に戻って来たため、マリエーヌは何かあったのかと僕に駆け寄った。
そんな彼女に、急遽皇宮へ向かわなければならなくなった旨を伝えると、今度はきょとんとした顔となり、「皇宮……ですか?」と首を傾げた。
皇宮という場所にピンときていないのだろう。
皇宮は皇帝が住まう宮殿であり、防衛設備も兼ね備えた城としても機能している。
皇宮の在る皇室領は、塔や壁で構成された堅牢な市壁に囲まれており、領内に立ち入る事ができるのは一部の上級貴族と帝国騎士団に属する騎士。他、特例で許可を得た者くらいだ。
それ以外の人間にとっては、決して立ち入る事のできない領域という認識でしかないのだろう。
「しばらく行く用事がなかったからな。そろそろ顔を見せろという皇帝陛下の思し召しだ」
大した用事ではないと主張するよう軽い口調で言ってはみたが、マリエーヌは深刻そうに眉根を寄せた。
「そうですよね……。公爵様……ですから……。皇宮に招かれる事もありますよね……」
そう言って、僕を見るマリエーヌの瞳には畏れ多いと言わんばかりの萎縮が見てとれた。
せっかく彼女との距離が縮まってきたところだというのに、これはいただけない。
「マリエーヌ」
優しく名を呼ぶと、強張っていた彼女の表情が少しだけ解れる。
「確かに僕は公爵ではあるが、君は誰もが認める公爵夫人だ。僕たちを隔てる身分差など存在しない。だから君が僕に対して臆する必要はないんだ」
マリエーヌから距離を置かれた僕の憂いが伝わったのだろう。
マリエーヌはハッとしたように目を見開き、口元に手を当てる。
「あ……そうですよね。ごめんなさい……少し驚いてしまって……」
「いや、僕の方こそ急な話ですまなかった。なるべく早く帰れるよう心掛けるが、皇宮まで少し距離があるからな。恐らく二、三日は戻って来れないだろう」
全速力で馬を走らせたとしても、皇宮まで半日はかかる。
それに加え、皇宮へ着いたからといってすぐ皇帝に謁見できるとは限らない。
あんな書状を送るくらいなのだから、そう長くは待たされないはずだが。
「分かりました。どうかお気を付けていってらっしゃいませ」
「……ああ」
寂しさを押し隠すように、マリエーヌは健気な笑顔で送り出してくれる。
それに返事をしたものの、足が張り付いたように動かない。
マリエーヌと一日以上会えないのは回帰後では初めてだ。
できる事なら一時も離れたくないが、当然連れて行くわけにはいかない。
僕が呼び出された理由には、恐らく彼女の存在も関わっている。
ここから下手に連れ出すのは危険すぎる。
「公爵様……?」
いつまでも動かない僕を気にして、マリエーヌが僕の顔を覗き込む。
深刻な顔をするジェイクに苦言を呈したばかりだというのに、僕の方が迂闊だった。
咄嗟に笑顔を取り繕ってはみたものの、うまく笑えているか分からない。
それでも、自身の左胸にそっと手を当てマリエーヌを見据えた。
「マリエーヌ。僕の心は、いついかなる時も君のものだ。たとえ離れていようとも、僕は君と共に在る」
それを聞いて、マリエーヌはしばし目を瞬かせた後、頬を赤く染めて嬉しそうに微笑んだ。
それから僕と同じように、自らの左胸にそっと手を添えて、
「では、私の心も公爵様に預けます。たとえ会えなくとも、公爵様のお傍に居させてください」
真っすぐ僕を見つめてそう言った後、恥ずかしそうに笑った。
一層離れがたい気持ちになり、彼女の体を引き寄せ一心に抱きしめる。
「ありがとう、マリエーヌ。行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃいませ。公爵様」
そうして、マリエーヌとの別れを惜しみつつも、僕は公爵邸を発った。




