44.今度こそ、共に―― sideアレクシア公爵
ベッドに押し倒された反動で、かけていた眼鏡が外れ、カツンッと床に落ちる。
そして僕の目の前には、力強い眼光で僕を真っすぐ見つめるマリエーヌの姿。
さらりと流れ落ちてきたマリエーヌの髪が、僕の頬に触れた。
優しくくすぐられるようなその感触に、言い知れない幸福感を得る。
マリエーヌは僕をジッと見据えたまま何も言わない。
ただ小さく口元を震わせて、僕の瞳から何かを読み取ろうとするかのように。
そんな彼女を前に、僕はただただ動けずにいる。
幼少期から、誰にも隙を見せるなと教え込まれている僕が……なんという姿を晒しているのだろう。
これほど華奢な体の女性に押し倒され、見下ろされ、何の抵抗もできないとは……。
公爵位を持つ者として、あるまじき醜態だ。
だが……。
――ああ……彼女になら、このまま殺されてもいい……。
そんな戯けた気持ちにすら浸ってしまうのは、やはり彼女の魅力に酔いしれているからだろう。
彼女の全てが、僕にとっての喜びであり、生きる意味でもある。
だから……僕をもっと支配してほしい。
僕の全ては、君のものなのだと――。
次の瞬間、再び彼女の表情に影が落ちた。
僕を見つめていた瞳が虚ろなものとなり、震える唇を静かに開く。
「公爵様……私は……ずっと待っていたのです」
「……え?」
憂いに沈んだ声で告げられた言葉に、思わず目を見張った。
――待っていた……とは……?
僕が目を瞬かせていると、マリエーヌは更にしゅん……と表情を曇らせた。
「ご自分でおっしゃられたこと……覚えていらっしゃらないのですか……?」
寂しげに言うその姿に激しく動揺しながらも、必死に記憶を手繰り寄せる。
――もしかして……温泉での事か……? 僕がいつか話をするから、それまで待っていてほしいと……。
まさかこんなに早く催促がくるとは思わなかったが……やはり気になっていたのだろうか。
確かに、今なら話はできる。
僕もそのつもりで彼女に会おうとしていた。だがしかし……。
「やっぱり……もう、お忘れになっているのですね……」
「ち、違う! 僕も君に話そうと思っていたんだ! ただ、今の状態の君に話をするべきなのか……」
「こんな私じゃダメですか……?」
「いや……そういう訳じゃ……分かった。すぐに話をしよう」
「いえ、話をする必要はございません」
話をしようとした矢先にきっぱりと拒否され、口を開けたまま言葉を失う。
「行動で示してください」
「こ……行動……?」
代わりに告げられた言葉に、僕の思考回路は混迷を極める。
――……どう……行動で示せというのだ……? 話をする以外に伝わらない気がするのだが……。
……やはり酔っているのか……?
いや、彼女は酔っていない。
しかし……混乱はしているかもしれない。
「マリエーヌ……やはり……今はやめた方がいいだろう」
「……やっぱりそうなのですね……。公爵様に、その気はないのですね……」
「いや……そういう訳では……」
「じゃあ、いつになったら私を抱いてくださるのですか⁉」
「だっ……⁉ ………………え?」
脈略無く飛び込んできた強烈な言語に、今までの思考が全て無と帰した。
――……今、マリエーヌの口からあるまじき言葉を聞いた気がするが……幻聴か……?
もはや全く何も分からなくなってしまった僕に、マリエーヌは更に言葉を連ねていく。
「公爵様は以前、私が好きになるまで一線は越えないって……おっしゃいましたよね……。でも、もう私はずーっと前から公爵様を好きです。心の底からお慕いしています! ……それなのに……どうして私を寝室へ呼んでくださらないのですか⁉」
「⁉」
――……じゃあ……マリエーヌが待っていたというのは……。
「それに、これは私たちの新婚旅行なのに……どうして他の人たちまで呼んだのですか⁉ お部屋だって、夫婦なのになんで分ける必要があるのですか⁉」
「……!」
――つまり……マリエーヌは……僕と一緒の部屋が良かったと……?
これまでの発言から、彼女が言わんとしている事に辿り着いた。
だが……とても信じられない。
「マ……マリエーヌ……自分が今、何を言っているのか分かっているのか……?」
「分かっています! 私だって、こんな事言いたくなかったのに……。公爵様が……全くお誘いしてくださらないから……!」
「……‼」
もはや何度目の衝撃かも分からない。
僕は、夢を見ているのだろうか……?
それほどまで、マリエーヌが僕を強く求めてくれていたなんて――。
そんなの……当然、嬉しいに決まっている。
しかし……僕は過去に、彼女にとても酷い事をしてしまった。
それを思い出すだけでも、自分への嫌悪感で吐き気を催すほどの……残酷な行為を。
だから僕には、それを求める資格はないと思っていた。
それに……怖かったんだ。
その時の僕を思い出させるような行為も……それを思い出した彼女に、拒絶される事が……。
刹那――ぽたっ……と、僕の頬を温かい雫が濡らした。
それは、目の前の彼女の瞳から滴ったものだ。
「マリエーヌ……?」
その瞳に滲む感情は――悲しみ、不安……あと、微かな怒りだろうか……。
僕とした事が……どうして今まで気付かなかったのだろう……。
ずっと傍にいたのに……何度も視線を交わしてきたのに……なぜ彼女の憂いを読み取れなかったのだろうか……。
ふいに、床に転がっている眼鏡が僕の視界に入った。
――……ああ……コレがいけなかったのか……。
僕がこの旅行中にかけていたカモフラージュ用の眼鏡。
そのレンズが隔たりとなり、彼女の瞳に潜む僅かな感情を読み取る妨げとなっていた。
――……いや……違うな……。それはただの言い訳だ。
僕たちは、もっと互いの気持ちについて話をするべきだったんだ……。
言葉を交わす事のなかった前世。
それでも、マリエーヌは僕の気持ちを分かってくれていた。
だから僕たちは、多くの言葉を交わさずとも、互いに分かり合えるのだと……そう思っていた。
だが……違ったんだ。
マリエーヌは、ずっと不安だったんだ。
今も……あの時も。
本当は僕が何を考えているのか分からないまま……一人不安を抱え続けていたのだろう。
それなのに、彼女は僕を見放さず、ずっと傍にいてくれた。
ただひたむきに、僕の気持ちを推し量ろうとしてくれた。
僕はそんな彼女に、ずっと甘えていた。
こうして言葉を交わせるようになったというのに……自分の保身ばかりを考えて……都合の悪い事は何も言わずに……ただ信じてくれたらいいと。
すると、マリエーヌは僕を押さえつけていた手を離し、涙で濡れる顔を隠すように覆った。
「マリエーヌ……すまなかった」
拘束から解かれた僕は起き上がり、彼女の体をできる限り優しく抱きしめる。
「僕は、君をずっと不安にさせていたんだな」
「……」
マリエーヌは顔を覆っていた手を下ろし、僕をジッと見つめて遠慮がちに頷いた。
そんな彼女に優しく笑いかけ、僕の想いを口にする。
「僕はあまり会話が得意ではないんだ。特に自分の話となると……何を話せばいいのかよく分からない。自分の事を知ってもらいたいなんて、今まで思った事もなかったから……。だが……今、君の話を聞いて、僕が知らない君の事を知れたのが嬉しかった。君が勇気を出して話してくれたおかげだ。だから、君が知りたいと思ってくれるなら、僕ももっと自分の話をしようと思う」
それから、少しだけ視線を逸らし、たどたどしい口調で言葉を絞り出す。
「あと……君がこんなにも僕を求めてくれていたなんて……本当に嬉しくて……夢のようだ。だから……ぼ、僕も……君がそれを望んでくれるのなら……応えたい。いや、僕自身も……君を――」
次の瞬間、かくんっ……と、彼女の体から力が抜けた。
「マリエーヌ⁉」
脱力したその体を咄嗟に抱き留めると、途端に彼女がハッと目を覚まし、
「ごめんなさい! 今寝てました!」
なぜか手を上げ声高らかに報告した彼女に、思わず呆気に取られる。
だが、至って真剣な彼女には申し訳ないが、込み上げるおかしさに噴き出してしまった。
「ふっ……ふふっ……。僕は君に翻弄されてばかりだな……」
「……?」
僕の言葉に、マリエーヌは不思議そうに首を傾げる。
――だが、悪くない。こうして彼女に振り回されるのも、僕にとっては幸せなひとときだ。
そう浸っている内に、再びマリエーヌはウトウトと頭を揺らし始めた。
無理もない。疲れているはずなのに、不慣れな酒まで飲んで、こんな夜更けまで僕を待っていてくれたのだから。
「マリエーヌ。今日はもう休もう。明日、ゆっくり話をするから」
今にも眠りに落ちそうな彼女に囁き、体を抱きかかえてベッド上に横たわらせる。
「今日は、一緒に寝てくれるのですか……?」
「ああ、もちろんだ」
途端、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
――僕の理性と心臓は、朝までもつのだろうか……。
愛くるしい彼女の姿を前に、そんな不安が頭を過った。
マリエーヌは瞼を閉じると、ぽつりぽつりと言葉を発した。
「公爵様。私……思い出したのです……。小さい頃の……夢……」
「そうか……。それはぜひ聞かせてほしいな」
僕もマリエーヌの隣に横たわり、頬杖をついて愛らしいその顔をジッと見つめる。
すると、彼女は穏やかな笑みを浮かべ、
「……お母様のような……優しい母親に…………」
そこまで言うと、すぅ……と息を吐き、静かに眠りについた。
――母親……か……。なんとも君らしい夢だ。
マリエーヌならきっと、聖母に相応しき素晴らしい母親になれるだろう。
だが――僕はどうだろう。
君の子供に相応しい父親になれるのかどうか……。
父親からの愛を知らない僕は、父親という存在がよく分からない。
それどころか、いつか僕と君との間に子供が生まれた時……僕は、我が子を愛せるのか……。
――……いや……それを考えるよりも先に、まずは目の前の問題だ。
どちらにしろ、今のままではマリエーヌの夢は決して叶わない。
二歳を迎えた我が子と無理やり引き離させるなど……絶対にさせる訳にはいかない。
だから僕は、公爵家の風習――後継者への教育を廃止する。
命の保証がない毒の訓練も、皇帝への忠誠心を強制的に植え付ける洗脳も……僕たちの子供にさせるつもりはない。
だが、それを皇帝は許さないだろう。
自分に反抗する人間を、誰一人として許さないあの男は、僕を裏切り者として裁こうとするはずだ。
あの残虐性極まりない男の事だ。
僕だけでなく、マリエーヌの事も放ってはおかないだろう。
僕たちの両親のように――。
「んん……」
ふいにマリエーヌが発した声に、固く握りしめていた拳の力を解く。
マリエーヌはころんと寝返りを打ち、僕の体に身を寄せてきた。
僕の胸元に頬を摺り寄せ、笑みを浮かべて幸せそうに眠る彼女の姿に、ドキドキと鼓動が高鳴り、じわりと涙が滲んだ。
華奢なその体をギュッと抱きしめると、彼女の温もりと鼓動が直に伝わってくる。
――絶対に守ってみせる。
その誓いを、今一度胸に刻む。
君を必ず幸せにする……その思いは、今もこの先も変わらない。
だから君の夢も、僕が必ず叶えてみせる。
そして君と、この先の未来に生まれるであろう僕たちの子供と……。
今度こそ、共に幸せになろう――。




