43.部屋で待っていたのは sideアレクシア公爵
第四皇子との話を終え、廊下に出た僕の足は、自然とマリエーヌの部屋へと向かっていた。
その部屋の前に立ち、扉をノックしようと構えるも、
――マリエーヌは……もう、寝ているだろうな……。
そう思い直し、力なく手を降ろした。
できる事なら、今日のうちにマリエーヌと二人で話がしたかった。
だが、思いのほか第四皇子との話が長引いてしまった。
もう夜も更けてしまったし、明日の朝も早い。
それに、昨日は夜通しここの手伝いに勤しんでいたから、さすがに疲れているだろう。
今日はゆっくり休んだほうがいい。
踵を返し、音を立ててマリエーヌが起きてしまわないよう、静かに自室へと向かう。
――明日こそは、ちゃんと話をしなければ……。
公爵家の宿命も、僕と皇帝の関係も。
そして、これから僕が何をしようとしているかも……。
本当は、もっと早く話をするべきだった。
だが――全てを知った彼女が、僕から離れてしまう気がして……言えなかった。
僕が抱えるこの重荷を、彼女がどう受け止めるのか……。
こんなはずではなかったと、悲しむ姿を目の当たりにするのが怖かった。
しかし昨日、女将を救うため、危険を顧みず立ち向かおうとする彼女の姿を見て、僕の考えがいかに浅はかだったかを思い知った。
――いや、もうとっくに分かっていたはずだ。
マリエーヌは、ただ守られているだけのか弱い女性ではない。
どんな困難に見舞われようとも、大切な人のためならば、勇敢に立ち向かっていく強い女性なのだと。
そういう姿を幾度となく見てきたのに……彼女を失うかもしれないという不安が勝って、信じきれていなかった。
その思いが迷いを生み、何も告げられず、何も決断できぬまま、あの地を離れた。
もしも事情を話し、彼女が僕だけを望んでくれるのなら……全てを捨てて、二人だけで遠くへ逃げてしまおうかとも考えた。
だが、きっと彼女はそれを望まない。あの場所も、そこで暮らす人々の事も、大切だと思う彼女なら……。
僕が背負う重荷も全て受け入れ、僕の手を取り立ち上がってくれると確信した。
だから――僕も、覚悟を決めよう。
やがて自室に着き、その扉を開けようとした時――中から人の気配を感じた。
微かに残る柑橘系の甘い香り。
ドキドキと、自然と鼓動が高鳴るこの気配は……間違いない。
――マリエーヌだ……。
その瞬間、重々しかった胸の内が、一瞬で浮き立つように軽くなった。
僕には分かる。
この扉の先に、僕の愛するマリエーヌが居るという事が。
――もしかして……僕に会いに来てくれたのか……?
急く気持ちを抑えきれず、すぐに扉を開け足を踏み入れる。
うっすらと明かりの灯った部屋。
その中央にあるベッドに、一人の女性がこちらに背を向け座っていた。
「マリエーヌ……」
名を呼び掛けると、彼女はピクッと肩を揺らし、ゆっくりとした動作で振り返る。
「公爵様」
僕と目が合うと、マリエーヌは嬉しそうに微笑んだ。
心なしか、僕を見つめる瞳がいつもより潤んでいる。
どこか切なげに、それでいて愛おしげに僕を見つめる姿に、ドクドクと脈打つ鼓動が尋常じゃない速さで荒ぶっている。
今すぐ駆け寄り、その華奢な体を抱きしめたい。
彼女の唇に口づけをして、その吐息も温もりも全てを感じたい。
そんな衝動に駆られるも、なんとか自我を保つべく邪念を必死に振り払う。
ぎくしゃくとした足取りでベッドまで移動し、マリエーヌから少し距離を取り腰を掛けた。
マリエーヌから漂う色香がいつもより濃い。
それにあてられたのか、抑えていた欲情が再び暴れ出す。
ふいにマリエーヌへと視線を移すと、彼女もまた、新緑色の瞳を微かに震わせながら、熱っぽい眼差しで僕を見つめていた。
何かを求めるような艶めかしい眼差しに、思わずゴクリと生唾を呑む。
「マリエーヌ……」
縋りつくような、なんとも情けない声を掛け、彼女に手を伸ばす。
その手を――ぐわしっと乱暴に掴まれた。
「⁉」
らしくない彼女の行動に、激しい衝撃を受ける。
途端、マリエーヌは惚けていた瞳をキッと尖らせ、大きく息を吸い込み――。
「こぉんな時間までどこで何をしてらっしゃったんですかぁ⁉」
「……!」
マリエーヌの口から、耳を突き抜けるような声量が飛び出した。
更には不満を存分に滲ませたその瞳が、僕を責め立てるように睨み付けている。
――ど……どうしたんだ……?
初めて見る彼女の姿に圧倒され、思わずたじろいだ。
しかし……なぜだろう……。
女神のような彼女が僕を睨み付けている姿に、計り知れない高揚感を覚えてしまう。
すると、マリエーヌが訝しげに眉根を寄せ、僕の顔を覗き込んだ。
「なぁにニヤニヤしてるんですかぁ? 私は怒ってるんですけどぉ?」
「ああ……すまない……。怒った顔も可愛らしくて……つい……」
そう言った矢先から、口元が緩みそうになるのを必死に耐えた。
僕を蔑む視線すらも、愛らしくて仕方がない。
どう思われてもいいから、もうしばらくこの視線にさらされていたい。
「……ひっく」
唐突に彼女の口から放たれたしゃっくりにより、ある疑惑が確信へと変わる。
――マリエーヌ……やはり……酔っているのか……?
いつもと様子の違うマリエーヌと、微かに香るアルコールの匂い。
きっとあの女将の酒の香りが移ったのだろうと思っていたが……。
「マリエーヌ。お酒を飲んだのか?」
「はい。一杯だけいただきました。でも酔っていませんので問題ありません。ひっく」
腰に手を当て、ツンと鼻を高くしながら得意げに言って見せるも、最後のしゃっくりのせいで説得力が皆無だ。
――いや、どう見ても酔っているとしか……
そんな僕の考えを読み取ったのか、マリエーヌは不満そうにムッと口を尖らせ、僕の顔すぐ近くまで迫った。
突然の急接近に、ドキリと心臓が高鳴る。
つぶらな瞳でジッと僕を見据え、
「酔ってい・ま・せ・ん」
拗ねる口調ではっきり言うと、小動物のように口を膨らませたマリエーヌはプイッとそっぽを向いた。
――なんという可愛さだ。
「ああ、そうだな。君は酔っていない」
流暢な言葉が僕の口から紡がれた。
彼女がそう言うのならそうなのだろう。彼女は酔ってなんかいない。
むしろ酔っているのは僕の方だ。
彼女が可愛すぎてクラクラする。
――だが……水は飲ませた方がよさそうだ。
「とりあえず水を持ってくるから、少しだけ待っていてくれ」
そう言って立ち上がろうとした時――。
「公爵様」
服の袖を摘まみ、マリエーヌが呼び止める。
その寂しげな声に、後ろ髪を強く引かれるような感覚になる。
それからマリエーヌは潤む瞳を僕に向け、
「行かないで」
「……‼」
切なげに呟かれた言葉に、雷に打たれたような衝撃を受け硬直する。
刹那、膝の力が抜けるように、ぽすっとベッドに腰を落とした。
ドコドコと内側から激しく叩かれるように心臓が囃し立てている。
強気になったかと思えば、急に弱気になったりと……感情の起伏が激しいのも、きっとお酒の影響なのだろう。
しかし……この緩急の付け方は心臓に悪い。
尋常じゃなく暴れ出す心臓の鼓動には、生命の危機すら感じる。
そのうち皮膚を突き破って心臓が飛び出すんじゃないだろうか……。
そんな思考まで過り、左胸を手でしっかりと押さえた。
一方で、先ほどまで強気の発言をしていた彼女が、今は泣きそうな顔で僕を見つめている。
その細い指は、今も僕の服の袖をぎゅっと握りしめている。
「マリエーヌ……」
――どうしてそんな悲しげな顔をするんだ……。
僕を引き止める手を絡め取り、自分の胸元へと押し当てる。
「僕はどこにも行かない。ずっと君の傍にいる。約束しよう」
向かい合い、その誓いを口にする。
――行かないで……か……。それは僕のセリフだというのに……。
俯くマリエーヌの表情はよく見えない。
まだ、何か不安があるのだろうか……。
それなら、僕に全て打ち明けてほしい。
彼女が内に秘めている本音も、何もかもを。
彼女が望むものがあるのなら、僕が全てを叶えてあげたい――。
もう一度、声を掛けようと口を開いた瞬間、マリエーヌが素早く動き、僕の胸元に頭から突進してきた。
「⁉」
胸に強い衝撃を受け、後ろに仰け反った僕の体に、更にマリエーヌが覆いかぶさり――ドサッ……と、そのままベッドに押し倒された。




