40.もう一人の母との別れ
その後、まだ火がくすぶっている可能性がある事を懸念し、ルドラさんをはじめとする消火にあたっていた男性陣は手分けして山の見回りへと向かった。
残った女性陣は一度宿に集まり、煤だらけの体を温泉で清めて夜食作りに取り掛かった。
厨房には人がひしめき、作業を分担しながらそれぞれが自慢の料理に腕を振るった。
見回りに出ていた男性陣も、休憩がてら宿の温泉に浸かり、出来上がった夜食にありついた。
長らく使っていなかったというもう一つの温泉も、「マリエーヌが浸かった湯に男を浸からせる訳にはいかない」という理由で、公爵様があらかじめ整備してくれていたらしい。
宿の中は活気に満ち溢れ、人々が笑い賑わう様子を、アキさんは遠目から懐かしそうに眺めていた。
山の見回りは明け方まで、交代しながら行われた。
やがて、街からやって来た役所の人たちにこれまでの経緯を説明し、公爵様が山中で彷徨っているのを見つけて縛り上げたという、あの貴族の男性含む放火犯たちの身柄を引き渡した。
集まっていた人々もようやく解散となり、帰路につく人々を宿から見送った。
宿に残った私たちは、食堂に残っていた食器などを全て片付けた後、各々部屋に戻り、ベッドに倒れ込むと同時に眠りについた。
気絶したように眠っていた……という言葉どおり、目が覚めた時にはもう日が傾き始めていた。
そこから煤だらけの宿を掃除して、また夕食の準備に取り掛かり……と、新婚旅行最終日は、目が回るほどの慌ただしい一日となった。
◇◇◇
「信じられませんよね……もう明日が帰る日だなんて……」
夕食を終えて、私の部屋で荷物をまとめるリディアが暗い表情で告げた。
「途中からの記憶がほとんどないんですけど……私はこの旅行中、いったい何をしていたんでしょうね……? 思い出そうとすると、なぜかレイモンド様の顔ばかりが……」
途端、ハッとするようにリディアが赤らめた顔を上げたので、私もすぐに緩みそうになっていた口元をキュッと引き締めた。
二人に何か進展があったのかは分からないけれど、少しは距離が近付いているようで、内心ガッツポーズを決めていた。
するとリディアは何かを誤魔化すように、私へと話をふる。
「ま……マリエーヌ様は、新婚旅行らしい事って何かできました? ……って、ここでずっと宿の手伝いをしていたというのに、不躾な質問でしたね……申し訳ありません……」
「ふふっ……そんな事ないわ。とても充実した時間を過ごさせてもらったと思うわ。公爵様とだって……」
ふいに温泉での出来事を思い出し、カーッと顔が熱くなる。
「公爵様と……? ま……まさか……ついに⁉」
「いえ、違うのよ! 一緒に温泉に浸かっただけなの!」
「温泉に……って、それで何もなかったのですか⁉」
「え……いえ……何もなくはなくて……」
「じゃあ、温泉で⁉」
「ちっ……違うわ! キスをしただけなの!」
「……キス……」
拍子抜けという顔で、リディアが呟く。
一方で私は、すっかり熱くなった顔を両手で覆い隠し、ポスッとベッドに伏せた。
――……リディア……何を言わせるの……?
その時、コンコンコンッと扉がノックされた。
「……はい!」
咄嗟に起き上がり、熱くなった顔をパタパタと手で仰ぎながら返事をすると、扉が開きアキさんが入ってきた。
「ふふっ……楽しそうに話をしているじゃないか。私もちょっくら混ぜてもらえるかねぇ」
「アキさん……。いえ……それほどのお話では……」
「……そうですね……新婚旅行に来てキスしただけって…………まあ、いいんじゃないですかね。そういうのも」
そう言うと、リディアは生暖かい目で私を見つめた。
そんな私たちを交互に見て、アキさんはうんうんと頷きしみじみと告げた。
「ほんとに二人は仲の良い友達なんだねぇ」
リディアの事は、アキさんには〝友達〟と紹介していた。
この旅行中は、リディアとは友達のように過ごしたいというのもあったけれど……。
少しだけ、母親に友達を紹介するという感覚を味わってみたかったのかもしれない。
仲の良い友達と言われて、リディアはよほど嬉しかったらしく、瞳に涙を滲ませながら感動に打ち震えている。
当然、それは私も同じで、嬉し恥ずかしで緩む口元を両手でそっと包んだ。
それをまたアキさんは楽しそうに眺めた後、「ところで……」と、話を切り出した。
「マリエーヌちゃんたちは、明日の朝にはここを出るんだろう? 忘れ物がないようにね」
「はい、ばっちりです」
「おみやげ用のおにぎりも作っておくから、道中でお腹が空いたら食べるんだよ」
「わぁ……ありがとうございます!」
「……なんだかアキさん、お母さんみたいですね」
リディアの言葉に、アキさんはふふんと笑った。
「そうだねぇ。マリエーヌちゃんみたいな娘なら大歓迎だよ」
「アキさん……」
その言葉に感激し、思わず涙ぐんでいると、アキさんは私の頭にそっと手を置いた。
「だけどマリエーヌちゃんにとってのお母さんは、ただ一人だけだからね。お母さんとの思い出を大切にするんだよ」
「……はい」
それは、アキさんなりに私のお母様へ配慮した言葉だったのだろう。
これまで幾度となく、私はアキさんをお母様の姿に重ねて見ていた。
幼き日に途切れてしまった、お母様との時間が戻ったような気がして……不思議で心地の良いひとときだった。
けれど、私が本当に大切にしなければならないのは、お母様と過ごした日々の思い出。
それを忘れてはいけないよと、アキさんは伝えたかったのだろう。
私のお母様が寂しがるだろうから――。
すると、アキさんは切なげに微笑み、私の体を優しく抱きしめた。
「さぞ辛かっただろう……。あの子と同じで、幼い頃にお母さんを亡くしてしまうなんて……まだまだ甘えたい時だっただろうに……」
その声がとても優しくて、温かくて……これまで抑えていた感情が爆ぜるように溢れ出した。
「……っ」
嗚咽を堪えるよう息を詰まらせると、アキさんは私の体を少しだけ引き離し、ニッコリと微笑んだ。
「だけど偉かったねぇ。ちゃんとこうして立派な大人になって……。それに人を思いやれる、優しい子だよ、マリエーヌちゃんは。それもお母さんが大事に育ててくれたからなんだろうねぇ」
途端に、我慢していた涙が、堰を切ったように流れ出した。
お母様を亡くした時、こんな風に優しく声を掛けてくれる人なんていなかった。
誰かと悲しみを共有する事もできず、ただ一人部屋に籠って泣いていた。
やり場のない感情を自分の中でくすぶらせて……苦しくて、苦しくて……息をする事さえもままならなくて。
耐えられなかった。
お母様が亡くなったという事実も。
これまでの幸せだった日々が、全て悲しい記憶に書き換えられてしまう事も……。
だから、全てを忘れてしまいたかった……。
だけど今、アキさんが私一人では抱えきれなかった想いを受け止めて、共感してくれた。
これまでの私を、受け入れてくれた。
ただそれだけで、あの頃の自分が救われたような気がした。
「うっ……ぐすっ……」
突然聞こえてきた声に、そちらを見やるとリディアが小刻みに震えながら涙を流していた。
どうやら私たちの姿を見てもらい泣きしたようで。
アキさんと顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
するとアキさんは少しだけ寂しそうな表情となり、
「ああは言ったけど……また気が向いたらいつでも遊びに来なよ。自慢の料理を沢山こしらえて待ってるからね」
瞳を潤ませながらそう言うので、私もまた泣きそうになった。
「はい。また必ず、会いに来ますので」
「ああ、楽しみにしてるよ」
アキさんとのお別れは寂しいけれど、またいつか会える日が来ると思うと、その時を楽しみにしようと気持ちが前向きになった。
アキさんは目尻に溜まった涙を人差し指で拭うと、小さく息を吐き……再び顔を上げた時には、いつも通りのアキさんに戻っていた。
ニカッと顔面いっぱいに笑みを浮かべて、声を張り上げた。
「さあ! 湿っぽいのはこれくらいにして、本題へ移ろうじゃないか」
「……え?」
本題とは……? と、ポカンとする私の前で、アキさんは何処から取り出したのか、大きな酒瓶を取り出し、ドンッとテーブルの上に置いた。
――……アキさん……まさか……⁉
「ふっふっふ……。帰る前に、一杯付き合ってくれるかい?」
不敵な笑みを零しながら、アキさんは更にグラスを三つテーブルの上に置いた。
「あの、アキさん……お酒は控えるようにと言われていたのでは……?」
「大丈夫だよ。前みたいに無茶な飲み方はしないから。それにせっかくだから、最後は楽しいお酒の会にしたいのさ。マリエーヌちゃんは妊娠の心配はないんだろう?」
「……はい……」
「じゃあ飲んでも大丈夫だね。リディアちゃんはどうだい?」
「私はやめときます。明日の船でどのみち酔うんで……」
ガックリと項垂れながら、ハァ……と溜息を吐き出すリディアは、明日からの船旅を想像してか、すでに顔色が悪い。
「じゃあ仕方ないね。はい、マリエーヌちゃん」
当然のようにグラスを手渡され、反射的に受け取る。
「ですが……実は私、お酒を飲むの初めてなんです」
「おや、そうなのかい。まあ、誰だって最初は初めてだよ」
そう言いながら、アキさんはドボドボと容赦なく私のグラスにお酒を注いでいく。
「マリエーヌ様の酔った姿……見てみたい……」
リディアが瞳を煌めかせながら私をジッと見つめる。
私も視線をグラスに落とし、なみなみと揺れる水面を眺める。
そこから漂う、鼻をツンとくるような……それでいて甘い香り。
もはやそれだけで頬が熱くなるような……頭がクラクラとする感覚に誘われる。
――そうよね……せっかくだし、飲んでみようかしら。
ふいにそんな気持ちに駆られ、
「で……では、一杯だけ……いただきます」
グラスを少しだけ持ち上げ、アキさんをお手本とばかりにそれを一気に喉に流し込む。
「え……? マ……マリエーヌ様⁉ 初めてなのにそんな勢いよく飲んだら――」
慌てふためくリディアの言葉を最後まで聞き終えるまでもなく、私の意識はそこでぷつりと途絶えた。




