39.奇跡を起こしたのは……
「マリエーヌ様!」
「リディア⁉」
宿の外へ出た途端、切羽詰まった様子のリディアと鉢合わせた。
「ご無事で良かった! 本当に心配したんですよおおぉぉぉ!」
叫びながら私に抱き着くと、リディアはおいおいと泣き始めた。
小刻みに震えるその姿に、心配かけて申し訳ない気持ちと、再会できた喜びで目頭が熱くなる。
「リディア……心配を掛けてごめんなさい」
泣き縋るその体を抱き締め返し、囁くように謝罪を告げると、リディアはふるふると首を振った。
「いえ……私も、公爵様の命令ですぐに来れなかったので……」
「……え?」
途端、リディアは「はっ!」と顔を上げ、
「いえ……今のは……言ってはいけない事でした!」
そう言い放つと、リディアはグッと唇を縫い付けるように引き結んだ。
しかし再びハッと目を見開き、差し迫った表情へと切り替わる。
「それよりもマリエーヌ様! 今、工房の人たちと周辺に住む人たちが集まって、火の消化にあたっています! レイモンド様もそちらに向かってて……」
「それは本当かい?」
私の背後にいたアキさんが、リディアに訊ねる。
ようやくアキさんの存在に気付いたらしいリディアは、驚いたように目を見張るも、すぐに真剣な表情へと切り替わる。
「はい。皆さん、この宿と女将さんを守るために、使えそうな道具を持ち寄って集まってきたのです」
そう言うリディアの背後では、もうだいぶ近くまで炎が差し迫っている。
パチパチと火花が弾ける音と、ミシッと木がきしむ音。
それらに交じって人々の飛び交う声が聞こえてくる。
「やれやれ……私の周りにはお節介焼きが多いねぇ」
アキさんはポリポリと頭を掻きながら、呆れるように溜息を吐き出す。
――それはアキさんもですよね……。
そう密かに思うも、すぐに表情を引き締めた。
顔を上げ、波打つように揺らめく炎を見据える。
「では、私たちもそれに加わりましょう! アキさんは――」
「私も行くよ。みんなが頑張ってくれてるってのに、私が行かなくてどうするのさ」
貫禄を見せつけるような姿で、アキさんが力強く言い放つ。
と、その時――。
「ワゥッ! ワゥッ!」
突如、聞こえてきた鳴き声に振り返ると、木の茂みからロキ君が飛び出した。
「ロキ君⁉」
ハッハッと息を荒げて現れたロキ君は、軽やかな足取りでこちらへと駆け寄ってくる。
両手を広げてロキ君を迎え入れると、ぶんぶんと尻尾を振りながら私の頬をペロペロと舐めだした。
「うわぁ……なんて命知らずな犬……」
おどおどとした声でリディアが呟く。
しかし彼女が懸念する人物は、近くにはいないらしい。
煤だらけのロキ君の体を撫でながら辺りを見渡してみるも、他に人の気配はない。
「ロキ君だけ、どうしたのかしら……? ジニー君と一緒だったはずなのに……」
――……あれ……? そういえば……ロキ君ってあの時……。
斧を片手に歩き出したジニー君の後を、ロキ君は追いかけていなかった気がする。
「ああ……なるほどね。今はあっちの方か……。ロキはジニーにしか懐いていないからね」
「……?」
どこか含みのある言い方をすると、アキさんは首を傾げる私に微笑んだ。
「ジニーは大丈夫だよ。あの子には頼もしい味方がいるからね……。さあ、ロキも私たちと一緒に行こうか」
「ワゥッ!」
威勢よく返事をすると、ロキ君は地を蹴り私たちの先頭に立った。
ちらっとこちらを気に掛けながら、ロキ君はやって来た木の茂みへと歩き始める。
私たちも病み上がりのアキさんを支えながら、ロキ君が導く方向へと進んで行く。
――が、しばらく進んだ先で、横倒しになっている木が行く手を阻んだ。
それ一本だけではない。その辺り一帯、広範囲に渡って木が軒並み切り倒されている。
「あら……こりゃまた派手にやったもんだねぇ」
「そういえば……木を切り倒して防火線を引くって言ってたけれど……これって全部、あの二人が……?」
すると、ロキ君は切り倒された木の上をぴょんぴょんと飛び越え、先へと駆けて行く。
けれど、さすがに私たちはそう簡単には進めない。
「ワゥッ! ワゥッ!」
奥の方から何かを訴えるようなロキ君の鳴き声が聞こえる。
しばらくすると、向こう側からロキ君が戻って来るのが見えた。その後ろには人影が――。
「母さん……!」
そう声を上げたのはジニー君だった。
ジニー君は私たちを見て驚きに目を見張るも、すぐに木の幹を乗り越えこちらへと降り立った。
ジニー君の視線は、アキさんにしか向いていない。
その顔がくしゃりと歪み、泣きそうな表情のままアキさんの方へと歩み寄る。
やがてアキさんの目の前に立ち尽くし、片手で顔を覆った。
「母さん……ごめん……僕……」
肩を震わせながら、ジニー君は潤む声を吐き出す。
それを見て、アキさんは困ったように笑った。
「なんであんたが謝るんだい。私の方こそ、すまなかったね。不甲斐ない母親で……」
ジニー君は、未だ顔を手で覆ったまま、何度も首を横に振る。
「だけどもう大丈夫だよ。私は……もう、大丈夫だから」
「……母さん……良かった……本当に……」
そんな二人の姿に、思わずもらい泣きしそうになるけれど、必死に気を引き締め直した。
ジニー君がいたという事は、きっと公爵様も近くにいるはず。
逸る気持ちを抑えながら、ジニー君に声を掛ける。
「ジニー君、アレクシア様は――」
「マリエーヌ」
私の言葉に被せるように、聞こえてきたその声は――私が今、一番会いたかった人。
「アレクシア様!」
振り返ると、倒れた木の向こう側で、柔らかく微笑む公爵様が佇んでいた。
その姿を見た瞬間、込み上げた涙で視界が滲む。
公爵様は軽々と木を飛び越えると、私のすぐ目の前に降り立った。
一心にその胸元へ飛び込むと、公爵様は私の体を優しく抱きしめた。
「マリエーヌ……会いたかった」
頭上から、公爵様の切なげな声が降ってくる。
「私も……お会いしたかったです……」
公爵様の胸元に顔を埋めるようにして押し当てると、力強く波打つ鼓動が直に伝わってくる。
公爵様の体温、息遣い……私を抱き締める腕と指先の感触。
その一つ一つを確かめながら、こうして触れ合える事の奇跡を、今一度噛みしめる。
パチッパチッと火花が弾ける音が響き、ハッと我に返った。
すぐさま公爵様から体を引き離し、
「それよりも、火をどうにかしないと……!」
再会の余韻に浸る間もなく声を張り上げた私に、公爵様はしばし目を瞬かせ……すぐに落ち着いた笑みを返した。
「いや……大丈夫だ。その必要はなくなった」
「え……? 必要は……なくなった」
訳が分からず繰り返すと、
「ああ、もう間もなくだ」
そう言いながら、公爵様はゆっくりとした動作で天を仰いだ。
同じように、私も空を見上げる。
闇を纏う夜空には、星の一つも見られない。
昨晩は、煌めく星々が空全体に散りばめられていたけれど……今は分厚い雲により全て覆われてしまっている。
――と……ポツッと落ちてきた水滴が頬を濡らした。
頬を伝う冷たい感触を指で拭うと、今度は反対の頬にポツッと落ちてくる。
これは――。
「え……雨……?」
と、リディアが呟く。
途端、ポツ……ポツ……と雨粒が連なって降り始め、それは次第に勢いを増し――間もなくして、ザァーと音を立てて雨が勢いよく降り始めた。
辺りを漂っていた煙と煤が、雨に流され空気が澄み渡る。
おびただしく立ち上っていた火柱も、降り注ぐ雨により勢いが削がれていく。
山を飲み込まんとしていた朱色のゆらめきも、徐々に闇に沈んでいく。
「火が……消える……」
自然と零れた言葉と共に、私の体から力が抜けていく。
すると、公爵様が私の肩を抱き寄せ、自らの体に寄りかからせてくれた。
前方では、率先して消火活動にあたってくれていた人たちから、大きな歓声が沸き起こる。
ジニー君は、アキさんを背負って木を乗り越えると、声がする方へと向かった。
それを見て、「私も行ってきますね!」と声を上げ、リディアはスカートをたくし上げて木を乗り越えると、その後を追いかけた。
その後ろ姿をぼんやりと見送っていると、公爵様が上衣を脱ぎ、雨から私を守るようにそれを頭から被せてくれた。
それから優しい眼差しを私に向け、目を細める。
「やはり、君といると奇跡が起きるな」
漆黒の髪先から雨露を滴らせて、公爵様がしみじみと告げた。
また一つ、公爵様の女神語りが増えてしまいそうで、苦々しく笑って首を振った。
「いえ……この雨はきっと、アキさんの旦那様が起こしてくれた奇跡なのだと思います」
――そう……きっと旦那様が……今までずっと、アキさんを守ってくれていた……。
そう思うと、あの部屋で起きていた不思議な現象にも、説明がつく気がした。
もしかしたら、あの部屋の時計の針を止めていたのは、旦那様だったのではないかと……。
無情にも過ぎる時間の中で、悲しみに暮れて前に進めないアキさんに、旦那様がずっと寄り添ってくれていたのかもしれない。
その存在を知らせるように、突然鳴ったビードロの音も……もしかしたら……なんて……。
全て都合の良い解釈なのかもしれないけれど。
「……そうか。亡き人の想いが起こした奇跡……か……」
何か思うところがあるのか、公爵様は物思いにふけるように視線を伏せ、沈黙する。
そして私も、お母様との日々を思い起こす。
我儘を言って困らせたり、些細な事で笑い合ったり、甘えるように抱きついて、抱きしめられて……。
幸せだったあの日々は戻らないけれど……思い出すと切なくて、苦しくもなるけれど……。
私はもう大丈夫。すぐ傍で、支えてくれる人がいるから――。
「公爵様、ありがとうございます」
「……?」
ふいに告げた私の言葉に、公爵様はキョトンとして首を傾げる。
「私はずっと、母親を失った悲しみから目を逸らしてきました。それを直視すると、悲しみに打ちひしがれそうになるから……。だけど今日、私はようやくその悲しみと向き合う事ができました。それも全て、公爵様が居てくれたからです。公爵様のおかげで、悲しみにも打ち勝つことができたのです」
私の言葉に、公爵様はしばし目を見張り、フッと笑った。
「……そうだったのか……。そういえば僕も、君にお礼を言わないといけない事があったな」
「え……?」
唐突に話を切り返され、今度は私がキョトンとする。
「僕も、マリエーヌのおかげで母親からの愛に気付けた。亡き人が残した想いを、君の存在が繋いでくれたんだ」
「……それは……どういう事でしょう……?」
それらしい出来事に全く身に覚えがなく、ひたすらに首を傾げていると、
「また今度、ゆっくり話をするよ」
と、公爵様は嬉しそうに笑った。
絶え間なく降り注ぐ雨により、残っていた朱色の揺らめきが一つ、また一つと消失していく。
やがて……完全に鎮火するのを見届けたかのように、全ての火が消失した後、雨は途絶えた。




