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38.三十五年の時を経て

 カチンッ……。


 耳に鳴り響いたその音と共に、私の意識はこの場所へと戻った。


 カチッ……カチッ……と、止まっていたはずの振り子時計が、再び時を刻んでいる。


 アキさんは机の脚にもたれかかったまま、憔悴しきったように項垂れている。

 だけど、その姿がなぜかぼんやりとしていて……。


 ――部屋の中が……霞んでる……? ……これは……煙⁉


「……っ! ゴホッゴホッ……!」


 思いきり煙を吸い込んでしまい、むせ込みながらも窓際へと駆けた。

 この窓なら火元とは反対側だから開けても問題ないはず……! と、窓を思いきり押し開けた。

 途端、後方から風が勢いよく流れ込み、部屋に充満していた煙が外へと押し出されていく。

 少し眩暈がして、額に手を当て落ち着くのを待った。


 今まで意識を失っていたのも、煙による酸欠を起こしていたからかもしれない。

 ここまで煙が流れ込んでくるという事は、時間の猶予もあまり残っていないのだろう。


 今すぐにでも、ここからアキさんを連れ出した方が……。


 そう迷いながら、一歩足を踏み出し……止めた。


 ――……いや……まだ、大丈夫。


 公爵様は、私を危険に晒さないと約束してくれた。

 それに、もし危険が迫るようなら、公爵様が必ず助けに来てくれる。

 だから私は公爵様を信じて、自分がなすべきことに集中すればいい。


 止めていた足を、再び前進させアキさんの傍まで近付いた。


 私がお母様を失った悲しみに打ち勝てたのは、公爵様がいてくれたから。

 公爵様の存在が、私を救ってくれた。

 だから、今のアキさんを救えるのは私じゃない。

 誰よりも近くで、アキさんを支え続けた人物。

 それは――。


 膝を突き、地を見つめるアキさんに語りかける。


「アキさんは……ジニー君と過ごす日々に、少しでも幸せを感じませんでしたか?」


 その問いに、アキさんは微かに肩を揺らした。

 無言のまま少しだけ顔を上げ、虚ろな眼差しを私に向ける。


 目線を合わせ、言葉を続けた。


「私から見たお二人は、本当の親子のように見えました。たとえ血の繋がりはなくとも……確かな絆があるのを感じていました。私は、義父とは良い関係を築けなかったので……。二人の関係が、少し羨ましく思えたのです」


 お義父様がスザンナだけを可愛がる姿を見て、やはり親にとって血の繋がりは重要なのだと思った。

 所詮私は他人の子で、本当の親子になんてなれるはずがない。

 愛されたいと思うだけ無駄なのだと思った。


 だけど、アキさんはジニー君を、我が子のように愛している。

 それは他人の私から見ても、一目瞭然だった。


 そしてジニー君も、アキさんを本当のお母さんのように慕っている。

 そこには血の繋がり以上に強い絆が、二人の間にあるように思えた。


「……あの子には悪い事をしたと思っているよ」


 ぽつりと呟いたアキさんの言葉は、そんな私の思いを裏切るものだった。


「こんな私なんかより、もっと良い引き取り手を探してあげればよかった。その方があの子だって幸せになれたはずなのにねぇ」


 自嘲の笑みを浮かべながら、それを口にするアキさんに、私は少し……いや、かなりカチンときた。


「なんで……そんな事をおっしゃるのですか……?」


 震える声で訊ねると、アキさんは遠くを眺めるように顔を上げた。


「だってさ……こんな山奥で何の娯楽もなくて、毎日のように飲んだくれる文句の多い婆さんと二人だけなんて……面白みに欠けるだろう。人生の無駄遣いだよ」


 まるで二人が過ごしてきた時間が意味のないものだと言うような発言に、焦れる気持ちを抑え込みながらグッと拳を強く握りしめる。


「本当に……そう思っているのですか……?」

「ああ。思っているよ」


 即答すると、アキさんは私から顔を逸らした。

 だから、もう構わないでおくれよ……そんな言葉が聞こえた気がした。


 私は落胆するように肩を落とし、しんみりと呟いた。


「そうですか……。アキさんは、ジニー君の事をまるで分かっていないんですね……」

「……なんだって?」


 途端、虚ろだった眼差しを鋭く尖らせ、アキさんが私を睨みつける。


「私があの子の事を分かっていないだって……? 何年一緒に暮らしてきたと思ってるんだよ……。あの子の事は、私が一番理解しているよ!」


 憤怒の表情で声を荒げるアキさんに、私も負けじと対峙する。


「それなら分かるはずです! ジニー君がアキさんをどう思っているか……。アキさんと過ごす日々をどう感じていたかを! 本当は分かっているはずです!」

「……‼」

「それなのに、アキさんとジニー君が過ごしてきた日々を、『人生の無駄遣い』なんて言うのは、ジニー君の気持ちを踏みにじるものです! ここでアキさんと一緒に過ごした時間はすべて、ジニー君にとっては掛け替えのない大切な時間で……無駄な時間なんて少しもなかったはずです! だって……人の一生は、限られた時間の中にあるのですから!」


 楽しい時間はあっという間に思えるけれど、悲しく辛い時間は永遠とも感じられる。

 それでも、人が過ごせる時間には限りがある。いつ、誰が死ぬかなんて分からない。

 だからこそ、誰かと過ごす時間は尊むべきもの。その誰かが、大切な人であるほどに……。


「それに……もしここでアキさんが自ら死を選ぶのだとしたら、ジニー君はきっと自分を責めると思います。自分はアキさんの心の支えになれなかったのか……。二人で過ごした日々、アキさんは幸せではなかったのかと……これからの人生、そんな思いを抱えて過ごすと思います」

「……‼ そんな……。違う……あの子は……本当に優しい子なんだよ……。心に大きな傷を抱えているのに、自分の事よりも相手を思いやれる……私の、自慢の子だよ……」


 そこでアキさんは声を詰まらせ、震える吐息を漏らす。


 それから落ち着いた声で、静かに告げた。


「何度あの子の存在に救われたか分からない……。私があの子を幸せにしてあげるつもりだったのに……気付けば私の方が、あの子と過ごす日々が楽しくなっちゃってね……」


 目尻に涙を溜めて、アキさんは微かな笑みを浮かべている。


 その姿に感化され、込み上げる涙をぐっと堪え、言葉を連ねた。


「その思いも、ここで死んでしまったらジニー君に伝わりません。それを伝えられるのは、アキさんだけなのですから」

「……」


 それでも、アキさんはジッと机を見つめたまま、動こうとしない。

 その視線の先には、まだ旦那様の姿があるのだろう。

 どうやっても届かないその姿を、今も追い続け――苦しんでいる。


 だからこそ、アキさんが見るべきは過去ではなく、これから先の未来。

 旦那様だって、きっとそれを望んでいるはずだから。


「今のアキさんは、死ぬための理由を探しているように見えます。……確かに、旦那様を失った時は、耐え難い苦しみだったと思います。命を断ちたいと思う気持ちもよく分かります。だけど……アキさんはそれでも、今まで生きてきました。それが旦那様との約束を守るためという理由だとしても……それを抜きにしても、ほんの少しだけ……たとえ僅かでも、『生きていてよかった』と思った瞬間はありませんか……?」

「……!」


 アキさんの口が、微かに息を呑んだ。


 ジニー君の存在に、アキさんの気持ちが大きく揺れ動いているのは分かる。


 だけどアキさんは……私と違って、ここでずっと旦那様を失った悲しみと向き合ってきた。

 私が辛くて直視できなかった現実と、ずっと向き合い続けてきたのだ。


 辛くなるなら、旦那様の部屋に入らなければいい。

 それなのに、アキさんはそうしなかった。

 もしかしたら、扉を開けたら旦那様が居るかもしれないと……そんな淡い期待を抱いていたのかもしれない。

 もしくは、旦那様を失った悲しみを忘れないようにと、自らを戒めていたのかもしれない。


 そこには、アキさんしか知り得ない想いがあるのだろう。


 旦那様を失って三十五年。


 身を切り裂くような悲しみを。

 凍えそうなほどの寂しさを……。

 お酒で紛らわしてでも、幾千もの夜を必死に乗り越えてきたのだ。


 ――やっぱり、アキさんは強い人だ……。


 そしてとても意地っ張りで……自分に厳しくて、人には底抜けに優しい。


 そんな人を、やっぱりここで失いたくはない。


 あと少しだけ……アキさんの背中を押せる何かがあれば……。

 ほんの僅かでもいい。

 どうか……アキさんが自ら歩き出せるように――。


 その時、ふわっと……空気が揺らぐのを肌で感じた。


 刹那――。


 ぽっ……ぴんっ……。


「……⁉」


 突然聞こえたガラスを弾くような高い音。


 それに反応するように、アキさんはハッと顔を上げた。


 すぐさま立ち上がると、机の引き出しを勢いよく開け、中に入っている紙やペンを次々と掻き出し始めた。


「あ……」


 やがて何かを見つけたように呟くと、忙しく動いていた手がピタリと止まった。


 震える手でアキさんが取り出したのは、長細い木箱。

 その蓋をそぉっと開け――アキさんは驚いたように目を見張り、息を呑んだ。


 その中に横たわるのは、細長い管の先が大きく膨らみ、ステンドガラスのような色彩を施したガラス細工――ビードロだった。


「あの人……もう用意していたんだね……」


 それは、生前の旦那様がアキさんの誕生日に贈ると言っていた物。

 だけど結局、それを渡す前に旦那様は亡くなってしまった。

 その後も、旦那様の部屋をそのままのかたちで残していたから、誰にもその存在を気付かれる事無く、ずっと机の引き出しの中に収められていたのだろう。


 その時、ビードロが収められていた引き出しの中に、小さな封筒が残っているのに気付いた。


「アキさん……それ……もしかして手紙ではありませんか?」

「手紙……?」


 顔を上げると、アキさんはビードロが入った木箱を机の上に置き、引き出しに残っていた封筒を取り出した。

 それをジッと見つめ、呆れるように溜息を吐く。


「……馬鹿だねえ。手紙を残したところで、私は読めないってのに、こんな沢山書いて……」


 言いながら、アキさんは少し乱暴ぎみに開封し、中に入っていた手紙の束を手に取り開いた。


 それを見た瞬間、アキさんはハッと大きく目を見開いた。


「これ……私の国の文字じゃないか……」

「え?」


 すると、アキさんは手紙を持つ手を震わせながら文字を辿り始めた。

 一枚読み終えると、すぐに二枚目……三枚目と手紙をめくり、五枚目を読み始めて間もなく、アキさんの瞳からポロポロと涙が零れだす。

 それでも嗚咽を漏らしながら、涙を拭おうともせず、六枚目、七枚目と手紙をめくる。

 やがて、最後の手紙を読み終えたアキさんは、脱力するような深い溜息を吐き出した。


「本当に……最後の最後まで、恰好つけたがりなんだから……」


 それは、とても穏やかな声だった。


「あの人……本当は私の国の文字を知っていたんだって。それなのに、わざと私に読めない手紙を渡したのさ。読めない手紙の中身を知るために、私がまたここに来るのを狙ったんだってさ……。ほんと、とんでもない詐欺師に捕まったもんだよ」


 憎まれ口を叩きながらも、アキさんはどこか嬉しそうにしている。


「この手紙には、それについての謝罪と、あとはひたすらに私への愛の言葉が綴られていたよ。……ふふっ……これを読んでるのはこんな老いぼれだってのに……陶器のような白い肌が好きだとか、鈴を転がすように笑う声が好きだとか……。あの人が今の私を見たら、泡吹かして卒倒しそうだよ」


 アキさんは冗談めかして言うけれど、私は、そんなはずはないと、密かに思った。

 きっとどんなアキさんであろうとも、旦那様は受け入れてくれるはずだから。

 それからアキさんは、どこか吹っ切れたように言葉を続けた。


「それと、この宿の事は……もう、いいんだってさ……」

「え……?」

「あの人……全部分かっていたんだよ。あの言葉を聞いた私が、この宿を守るために生きようとする事を。……この手紙を私が見つけるのが、ずっと先になる事も……」


 するとアキさんは少し涙ぐみながら、静かに告げた。


「全ては私に、考える時間を与えるためだったんだよ。衝動的な感情のままに、私が命を絶ってしまわないように……」


 それからアキさんはもう一度だけ……深く、長い溜息を吐き出した。


「自分の命よりも大事なものは、本当は私だったんだってさ……」


 それは旦那様がアキさんに伝えたかった、最期の想い。


 三十五年の時を経て……今、それがアキさんに届いた。


 それは死別した今もなお、愛し合う二人が呼び起こした奇跡のように思えた。


「これからを生きるかどうかは、自分で決めてくれだとさ……」


 そう言うと、アキさんは噴き出すように笑い出した。


「ふふっ……おかしいねぇ……。さっきまでは死ぬ事ばかり考えていたのに……。いざ好きにしていいと言われたら……どうすればいいかわかんなくなったよ。……ったく……あの男は、どんだけ私を振り回せば気が済むんだい」


 明るい口調でぼやきながらも、アキさんは涙で滲んだ目尻を拭った。


「……旦那様は、本当にアキさんの事が大好きだったんですね……」

「ああ、知ってるよ」

「アキさんも……旦那様の事を愛してらしたんですね……」

「……当たり前じゃないか」


 顔を上げたアキさんは、机の上をジッと見つめて微笑む。

 その姿は、絵画の中で微笑む女性の面影を残していた。


 カチッカチッと、軽快に動く時計の音。


 まるで、前へ進めと鼓舞(こぶ)するような、力強い響き。


 それに後押しされるよう、アキさんはゆっくりと顔を上げ、


「決まったよ」


 と、潔く告げた。


「考える時間は、もう十分もらっていたからねぇ」


 晴れやかな顔でニカッと笑う姿は、いつも通りのアキさんに戻っていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] いつも楽しく読んでます! 読み始めてマリエーヌ様も危なかったけど、やはり公爵様が助けてくれたよね(幻だけだ) 悲しみは人それぞれ、立ち直るのもはやい人もいるし、別れ方も関係してるよね。…
[一言] ゜+。:.゜(T∀T)゜.:。+゜アキさんっ!! マリエーヌの頑張りにも心打たれましたが、本当に危険なら来てくれるはずっていうアレクシアへの信頼が胸熱です!!
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