37.その悲しみを乗り越えて
「マリエーヌ。これからの長い人生、いろんな事があると思うけど……生きていれば必ず良い事があるから。だからどんなに辛くて苦しくても、負けずに生きるのよ」
生前のお母様は事あるごとに、私にそう言った。
それを聞いた私が、「じゃあ、お母様はどんな良い事があったの?」と聞くと、「それはもちろん、マリエーヌに会えた事よ!」と言って私を抱きしめてくれる。
それがお母様とのお決まりのやりとりだった。
この時間が、とても幸せだった――。
◇◇◇
お母様との別れは突然だった。
私が十歳の時、仕事中に倒れたお母様は、そのまま意識が戻る事なく帰らぬ人となった。
死因は急性の心臓疾患だったと聞いた。
お母様の若さでは珍しい事なのだとも。
突然の別れに頭が追い付かず、話を聞いても信じられなかった。
それなのに……血の気の引いた真っ青な顔。僅かな生気も感じられない器だけとなったその姿は、お母様の明確な死を私の心に刻み付けた。
悲しみに耐えられず、一人部屋に閉じこもって泣き続け……気を失ったように眠りに落ちた。
そして目覚めた瞬間に、全て夢だったのではという希望を抱き……現実を知って再び打ちのめされた。
辛くて苦しくて、お母様と同じ場所へ行けたらどんなに楽だろうと……何度も考えた。
だけど――できなかった。
お母様が残した言葉が、そうさせてはくれなかった。
そんな言葉を残したお母様が、恨めしいとさえ思った。
そんな私に追い打ちをかけるようにして、義妹からの虐めが始まった。
耐え難い日々を過ごすうちに、私は自身を守る術として感情を押し殺すようになっていた。
眩しすぎるお母様との思い出も、その死を悼む気持ちも全て、記憶の奥深くに閉じ込めて。
そうする事で、悲しい、苦しい、辛い……そういう感情も、だんだんと薄れ鈍くなっていった。
ただ一つだけ――生きなければならない――その思いだけが、心に根強く残った。
◇◇◇
アキさんが悲しむ姿が、あの時の自分と重なり思い出してしまったのだろうか……。
お母様が亡くなった時の絶望感……胸が張り裂けそうなほどの悲しみに打ちひしがれていた孤独な日々を――。
今の私には、アキさんの気持ちがよく分かる。
アキさんは、あの部屋に足を踏み入れるたび、旦那様を失った時の悲しみを呼び起こしていたのだろう。
母親を失った悲しみを記憶ごと封じていた私とは違い、アキさんは毎日のように、旦那様を失った悲しみと向き合っていたのかもしれない。
心を擦り減らしながら……涙が枯れるまで。
そんなアキさんを……私が救えるはずがない
私だって、お母様を失った悲しみを、未だに乗り越えられていないのに……。
今もなお、私の前に広がるのは、闇に沈んだ孤独な世界。
お母様を失い、悲しみに暮れていた日々と同じように、私はまたこの場所で膝を抱えている。
動き出そうとしても、凍り付いたかのように体は動いてくれない。
喉が詰まったように、声を出す事もできない。
ここから抜け出す方法も――私には見出せない。
――――君ならできる。
ふいに聞こえてきたのは、公爵様の声だった。
もうずっと長い間、その声を聞いていなかったかのように。
懐かしく思えるその声は、凍えるほど冷え込んだ体を、優しく包み込むように温めてくれる。
じわりと涙が込み上げ、それは瞬きと共に頬を伝った。
――公爵様は……私を過大評価しすぎです……。
気付けば、その声に語りかけていた。
――私は女神でもなんでもありません……。誰かの傷を癒す事も、ましてや奇跡を起こす事なんてできるはずがありません……!
当たり散らすような言葉ばかりで、どこまでも卑屈になってしまう自分にまた嫌気がさす。
――私が誰かを救うなんて……できるはずがないのです……。
こんな情けない言葉を、公爵様に聞かれたくなかった。
公爵様はあの時、私を信じて背中を押してくれたのに……。
――私なんかが……。
そう嘆くたび、体に纏わりつく不快な靄が一層色濃くなっていく。
『お姉さまって、ほんとつまらない人間よね』
耳元で、義妹の声が聞こえた。
『何もできないし、中身も空っぽ。何の価値もないのに……何で生きてるのかしら?』
首を撫でるような、ひんやりとした感触。
纏わりついていた黒い靄が、人の影を象り私の体を絡めとる。
混沌とした実体の掴めないそれに呑み込まれ、底なし沼へと沈むように――どこまでも深い深淵へと堕ちていく――。
「マリエーヌ」
その声と同時に、誰かが私の手を掴んだ。
見上げると、公爵様が私の手を取っていた。
突如として現れた最愛の人に、私は息を呑んだ。
闇に覆われた視界の中で、公爵様の周りだけが淡い光を纏っている。
美しい白銀色の髪を靡かせ、赤く煌めくその瞳が愛おしげに私を見つめる。
公爵様は、しっかりと繋いだ手に力を込め、私の体を一気に闇から引き上げた。
その反動でふわっと体が浮き上がり、再び地に降り立った。
――公爵様……。
その呼び掛けは、声にはならなかった。
けれど、心細くて冷え固まっていた気持ちが解れ、じわりと涙が滲んだ。
公爵様は目尻に溜まった私の涙を人差し指で拭うと、真紅の瞳を細めた。
「君に出会えたのは奇跡だったと思う」
どこか懐かしむように、しみじみと告げられ――その瞳は、真っすぐ私を見据えた。
「だが、思い出してほしい。僕を何度も救ってくれたのは、君だったという事を」
颯爽とした姿で、公爵様ははっきりと告げた。
公爵様の纏う淡い光が、徐々に広がり大きくなっていく。
その光が、纏わりつく靄を徐々に晴らし、代わりに柔らかな光が私の体を包み込む。
それはとても温かくて、優しくて……まるで陽だまりにいるような心地良さ。
その時、私の頭の中に流れ込むように、見覚えのある光景が映し出された。
車椅子に座る公爵様と、空に架かった虹を眺めた日――小指を絡め、これからの未来を共に歩む約束をした日。
そして、初めて名前を呼ばれ、愛を囁かれた日――初めて街デートへ出掛けた日――一緒に夜を過ごし、公爵様の誕生日をお祝いして、愛を告白した日。
それは私たちが共に過ごした掛け替えのない日々の記憶。
その中で私は、困惑し、笑い、時に悲しくなり、怒ったり……そしてまた笑って、涙して、感動に心を震わせ……また泣いて。
公爵様の隣で、いつの間にか私はこんなにも感情を豊かにして過ごすようになっていた。
私の凍てついた感情を、公爵様の温もりが優しく溶かしてくれた。
「君が居てくれたから、僕は生きていてよかったと思えたんだ」
そこに佇む公爵様は、穏やかな笑みを浮かべている。
公爵様は私に、愛される喜びを思い出させてくれた。
少しずつ思い出すようになっていた母親との記憶にも、公爵様が居てくれたから向き合う事ができた。
時折、切なくて、やるせない気持ちにもなったけれど、公爵様はずっと傍で支えてくれた。
底知れない優しさで、寄り添ってくれた。
そして今も――たとえ離れていたとしても、私の心の中には、公爵様が存在してくれている。
――……私も……公爵様が傍に居てくれたから……。
込み上げる涙が再び溢れ出す。
だけどそれは悲しいからではなく、喜びの涙。
悲しみを上回るほどの幸せを、公爵様がもたらしてくれた。
私にとっても、公爵様と出会えた事は奇跡で……救いだった。
だけど、お母様が残してくれた言葉が無ければ……生きていなければ、公爵様とも出会えなかった。
私たちに奇跡をもたらしたのは、お母様が残してくれた想い。
――生きていてよかった。
お母様……生きていたら、良い事があったよ――。
その瞬間、全ての闇が晴れ渡り――目の前に現れたのは、いつの日か見た光景。
色彩豊かな花々は、宝石を散りばめたような煌めきを放ち、目が覚めるような鮮烈な景色がどこまでも広がっている。
その上空、透き通るような青空に浮かぶのは、色鮮やかに描かれた虹のアーチ。
私の居るこの世界は、こんなにも美しい場所なのだと思い出した。
「君はもう、自分の足で歩けるはずだ」
促され、足をそっと前に出す。
縫い付けられたように動かなかった足が、軽やかに動いた。
「あとは……そうだな。僕の大好きな、君の声を聞かせてほしい」
頬をほんのりと赤らめて、期待の眼差しで私を見つめる公爵様の姿に、思わず顔が綻んだ。
鼻の奥がツンとして……涙ぐむ瞳を瞬きで散らし、しっかりと顔を上げて公爵様を見据える。
「公爵様。ありがとうございます」
目を細め、満足げにそれを聞いた公爵様は景色に溶け込むように消えていく。
再び、私一人だけがこの場所に残された。
だけどもう、大丈夫。
私は一人ではないのだと、思い出したから。
真っすぐ前を見据える私は、もう一歩前へ、更に前へと踏み出した。
自らの足で、この道の先へと続く未来に向かって――。




