36.本当の姿
ふいに、足元が歪むような感覚に襲われ、バランスを失った私の体はよろけるように一歩二歩と後退する。
アキさんを救いたい――その一心でここに来た私は、目的を見失ってしまったように、ただ茫然と立ち尽くす。
旦那様が残した言葉の意図を伝えれば、アキさんならきっと分かってくれると思っていた。
旦那様の想いを汲み取って、未来を生きる事を選ぶはずだと……。
だってアキさんは、いつだって正しくて……温情に溢れて……とても強い女性だから。
だけど、その前提が崩れるのだとしたら……。
旦那様が生きてほしいと願った想いが、アキさんをずっと苦しめ続けていたのなら――。
――アキさんにとっての救いって、いったい何……?
カチンッ……。
一際大きな音を立て――振り子時計の動きが止まった。
まるで時を刻むのを止めてしまったかのように、この部屋から音が消失する。
「ふっ……う……」
ふいに聞こえてきた嗚咽に、ハッと顔を持ち上げた。
その先では、アキさんが口元を押さえながら、何かに耐えるように震えている。
アキさん――? と、声を掛けようとした時、アキさんの瞳から大粒の涙が零れ落ち、それを皮切りに堰を切ったように涙が溢れ出した。
くしゃりと顔を歪めたアキさんは、その場に崩れ落ちるように膝を突く。
途端、カラン……と、アキさんが被り続けていた虚勢の仮面が落ちたような気がした。
「どうして……死んじゃったのよ……」
掠れた声を震わせながら、アキさんは無人の机に訴えかける。
「必ず帰ってくるからって、約束したじゃない……それなのに……!」
グッと拳を握りしめたアキさんは、机にそれを叩きつけた。
「どうして私を一人にするのよ! 自分はさっさと死んでしまったくせに……それなのに、なんで私は生きていかないといけないのよ!」
何度も、何度も……机に拳を叩きつけながら、悲痛な叫び声が室内に反響する。
ガンッガンッと、耳を突くような音。
真っ赤に染まっていくアキさんの手。
心も体も痛めつけるようなアキさんの姿を前に、私は未だ動けずにいる。
もうやめて……と、力づくでも止めに入りたいのに、足が床に張り付いたように動いてくれない。
声を失ってしまったかのように、言葉を発する事もできない。
やがて、アキさんは手を止めると、脱力するように机の脚にもたれた。
未だ涙の流れる瞳を地に向けたまま、眠りにつくように瞼を閉じる。
「もう……寂しいのは嫌……」
今にも消えてしまいそうなほどの、弱々しい声。
勇ましいとさえ思えたアキさんの姿は、もはや面影すら残っていない。
だけど、すぐに分かった。
今の姿こそが、アキさんの本当の姿なのだと――。
『女性がこんな山奥に一人で生きていくためには、必要な事だったんでしょうね』
以前、ジニー君が口にしていた言葉が脳裏に過る。
それは絵画の女性がアキさんだと信じられずにいた私に、ジニー君が告げたもの。
ジニー君はきっと知っていたのだろう。
アキさんの本当の姿に……そして、こんなにも死を望んでいた事に……。
全てを知っていて、説得は無理だと私に教えてくれたのだろう。
ジニー君だって、ずっとアキさんの傍で共に過ごしてきた、唯一の理解者なのだから。
――それなのに私は、何を思い上がっていたのだろう……。
公爵様に、女神だ奇跡だと持て囃されて……少しでもいい気になっていたのだろうか。
自分が恥ずかしい。
どうして私なんかが、誰かを救えるなんて……。
その時、ぽたっ……ぽたっと……胸元に何かが落ちる感触がした。
そこに視線を落とした途端、ぽたぽたっと連なって落ちたのは、私の瞳から零れ落ちた涙。
――私まで……どうしたのかしら……。
自分が泣いている理由がよく分からない。
アキさんが悲しむ姿に同情を誘われたからなのか。それとも――。
『お母様……どうして死んじゃったの……?』
突然、耳に響くように聞こえたのは女の子の声。
ハッと顔を上げた私の目の前――アキさんが居たはずの場所に、女の子が小さくうずくまっていた。
長い髪を緑色の大きなリボンで留めたその子は、膝を抱えて泣いている。
『うっうぅ……どうして……私を置いていったの……?』
訴えかけるように嘆く声が、私の胸の奥深くを刺激する。
そこから込み上げる切なさに胸が締め付けられ、私の瞳から零れ落ちる涙が止まらない。
『一人にしないで……私も……お母様のところに連れて行って……』
その声を聞くたびに、内に秘めている弱い部分を抉り出されているような感覚がする。
――もう、やめて……。
耳を塞いで声を断ち切ろうとするも、女の子が泣きじゃくる声は鮮明に聞こえてくる。
次第に、視界が闇に塗りつぶされていくように、女の子の姿だけを残して目の前が真っ暗に染まっていく。
やがて闇に満ちた空間で、私と女の子の二人だけが残った。
「お母様……どうして私だけが生きていかないといけないの……?」
その言葉を発したのは、女の子なのか……それとも……。
――そうだった……私も、アキさんと同じだった。
それを思い出した瞬間――女の子は忽然と姿を消した。
一人だけ、何もない空間にぽつんと取り残された私は、女の子と同じようにその場にうずくまり膝を抱えた。
深い深い闇の中で、光なんて一つも見えない。
「お母様……」
あるのは、その人物との悲しい別れの記憶だけ――。




